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1.これガチのヤツかも(後)

そもそも、“ちょっとした高嶺の花”みたいな存在だった。オレにとってのタロちゃんは。 大学が同じで、学部や専攻は別。入学してから何度かすれ違っていたとしても、お互いに関わる機会はなかった。 2年生になった頃に友達の友達として知り合って、向こうが先にオレの顔を覚えてくれた。学食や教室で見つけると向こうからは声をかけてくれる。それくらいの仲だった。 オレは小さい頃からか、思春期をこじらせてからか、人付き合いというジャンルが苦手分野だった。同じ学部ですら、気の合う相手は数人いれば満足できた。 でもいつの間にか、向こうの姿をキャンパスで見つけると目で追うようになってしまった。 オレから見たタロちゃん──佐々木(ささき)汰郎(たろう)は人気者で、いつどこで見つけても男女の入り混じった人の輪の中心にいた。 よくいる陽キャの集団、というのとは違う、もう少し品がよくて華やかな学生グループ。同じ学生でも、オレからすれば十分近寄り難い存在だった。人の輪という物体が苦手で、すれ違う事すら極力避けていた。 だから本人と直接的に知り合って初めて、その中心に目を引かれるようになった。隣にはいつも、オレの知らない誰かがいた。 同じ講義を受けても近くに座る事もできない、人の輪に割って入る気もなかったオレが、“佐々木汰郎の特別”になりたいだなんて。考えるだけでも引かれる可能性があった。 つい目で追っている事さえも、いつか誰かにバレて、からかわれるネタにされるんじゃないかと危惧していた。 当時のオレは今以上に卑屈で、あらゆる可能性を自分から排除したような感じだった。 佐々木汰郎と連絡を取るようになったキッカケは、好きなバンドが一緒だったこと。海外では有名なのに日本では活動もほぼなく知名度が低いという、典型的なメタルバンドだ。 どこの誰が喋ったのか、佐々木汰郎はわざわざオレの連絡先を調べて、メシに誘ってくれた。社交辞令的なやりとりはなく、一言めで飲みに行きませんかと誘われたのは初めてだった。 時間は金曜日の夜7時。場所は当時向こうが住んでいたアパートの近所の、小さな居酒屋。 電話の時点では乗り気じゃない風をよそおっていたのに、集合時間よりかなり早めに着いてしまった。緊張していたのは認めざるを得ない。 7時を過ぎて現れたのは本人1人で、あまり話した事もないのに、最初からサシ飲みだった。 『えっ、待って、普段そんなお洒落なんだ! 理工の人っていつも白衣着てるから知らなかった』 佐々木汰郎はオレを見るなり褒めてきた。流行に乗らない代わりに、興味のある分野に対してはこだわりたい。そんな所を分かってもらえた気がした。 『い、いつもじゃないよ。実験の後に座学受ける時だけ』 褒められるのに慣れていなかったオレは咄嗟にそう返すのがギリで、褒め返すなんて発想にも至らなかった。正直、向こうが何を着ていようが意識して見ていない。 ただ今でも覚えているのは、 『1回、こーへいとゆっくり語りたかったんだよね』 と笑った顔。 それから、どっちかと言うと苗字が特徴的なオレの、鋼兵(こうへい)という名前を知っていた事や、許可したワケでもないのにいきなりそう呼んできた事に驚いたのも、それが嬉しかったのも、覚えている。 その時すでにオレたちは3年生で、合法的に酒も飲めたし、煙草も吸えた。 だけど、経験は全然足りなかった。 オレは酔いつぶれて、タロちゃんの前でかなりの醜態を晒したらしい。具体的に何をしでかしたか記憶に無いし、タロちゃんもいまだに言って来ない。 とにかくタロちゃんの肩を借りて店を出、そのままアパートに泊まったらしい。翌朝、オレの“お洒落な”服とズボンが、タロちゃんの部屋の洗濯機から出てきた事実だけが残っている。 推測するに100パーセント嫌われても仕方がないレベルの迷惑をかけたはずだが、タロちゃんはオレを切らなかった。むしろそれがきっかけで、タロちゃんに近づけたようなものだ。 卒業後の就職が決まり、お互いの勤務先が近いと知ると、向こうからルームシェアの話を持ちかけてきた。 タロちゃんと交代して、シャワーを浴びている時間も、疑問は解消されなかった。 これまで考えるのを避けていた問題が、急浮上してきたような感じ。タロちゃんとオレの関係について。オレが、タロちゃんとどうなりたいのかについて。 色んな考えが勝手に広がって、出口のない頭の中が熱暴走みたいになる。あちこちでフィードバックが起こる。バックグラウンドに閉じ込めていた情報が、脳の形をしたストレージを埋め始めて、処理が追いつかなくなってくる。 クールダウンさせようと冷水に切り替えても、むしろそうする事で潤滑油ごと凝固して、確信に変わってしまう。 「ああ、これガチのやつかも……」 シャワーを止めて、髪から顔に垂れてくる水気をこする。 これまで気付いてすらいなかったのが不思議なくらいだ。 オレは、超がつく鈍感だった。他の誰かに限らず、自分自身の気持ちにも。 情緒とか、思いやりとか、そういうのも苦手分野の1つだ。努力や技術でコントロールできない、厄介なシロモノ。ホモ・サピエンス・サピエンスの初期不良。それが感情だ。 事実は望んでいる結果と必ずしも一致しない。このせいでバグって人生が詰む可能性すらあるのに、修正プログラムは存在しない。 「…………」 自覚してしまうと、今度は解消したくて仕方がなくなる。初めて、タロちゃんをヤッてしまいたいと思った時みたいに。 台所のシンクで歯を磨いているタロちゃんに近付いて、話を持ちかけた。 「オレさ、タロちゃんの後輩になりたかったかも」 「なに急に?」 歯ブラシを口に突っ込んだタロちゃんが聞き返してきた。身長が10センチ以上違うから、タロちゃんは上目づかいになる。緑色の歯ブラシと白い泡が、頬袋に入っているみたいだった。 「何か、優しくしてもらえそう」 「俺優しくしてるじゃん。誰にでも優しいよ」 きょとんとして言い返してきた。真顔で冗談を言う時もあるが、少なくとも前半はマジだ。 「でも……終わった後すぐシャワー行っちゃうし」 そう言うと、タロちゃんは少し笑って、シンクに泡を吐き出した。 「終わったらシャワー行くでしょ、フツー」 と言いながら、歯ブラシを置いて歯間ブラシを取る。 悪びれる様子はない。向こうに悪気はないし、オレも別に悪いと言いたいんじゃない。 「いやそれは、そうなんだけどさ……うーん」 何を伝えようとしているのか、どう伝えればいいのか、自分でも分からなくなってしまう。 まだ濡れた頭を掻きながら、身長と同じくらいの冷蔵庫にもたれかかった。 確かに本人の言う通り、タロちゃんは優しくない事はない。その証拠に、オレたちの生活は上手くいっている。25年間陰キャとして生きてきたオレが、誰かと一緒に──それも憧れていた相手と暮らしているなんて、ほとんど奇跡だ。 ただ気づいてしまった。 後輩や女の子にするようにオレにも接してくれたらどうなるのかと。むしろそれ以上の関係に、オレはなりたいのだと。 言われるまま一緒に住んで、オレから頼み込んで体の関係を持つようになった。現状以上の期待値なんて無いはずなのに、はじき出してしまった結論が消えない。 タロちゃんはモテる。先輩から、後輩から、年齢も性別も問わず、人にモテる。それは持って生まれた魅力やコミュ力という一種の才能だ。 無自覚かと思わせるほど自然に、他人との適切な距離感を測って接するのがタロちゃんだった。それは遠目に見ていても分かった。心地よく居させてくれるから、皆、タロちゃんを好きになる。 しかもその距離感は相手だけじゃなく、タロちゃん本人にとっても心地のいい距離なのだろう。 そこを、そのラインを、オレの一存では踏み越えられない。だから言葉で伝えるしかないのに、伝わる言い方が見つからない。 「鋼兵?」 呼ばれて顔を上げると、タロちゃんがまっすぐにオレを見ていた。 どれくらい考えて黙っていたのか、タロちゃんは歯間ブラシも終えて、口をすすぎ終わっていた。着替えた黒のTシャツの袖で口を拭いて、下から見上げてくる。 「俺何か変な事した? 嫌だったなら謝る」 タロちゃんは優しい。自分が悪くないのに謝ろうとするほど、オレに歩み寄ってくれる。オレのことを考えてくれる。 オレの一存で踏み越えられないラインでも、タロちゃんが許してくれるなら、越えられるかも知れない。そう思った。 成功する可能性が0じゃないなら賭ける価値はある。やった事がないならダメ元だ。 「あの……オレたちの今の関係ってさ、何なのかな?」 思いきって聞いた。強く出したつもりだったけど、声が裏返りそうだった。 タロちゃんがさっきよりも驚いた顔をする。 「え? ちょっと、なに変なこと言ってんの?」 いきなり聞かれて、戸惑うのも当然だ。 「いや、変なことだから逆にハッキリさせときたいの。分かる?」 「分かんないよ、何? 関係も何も……友達でしょ」 タロちゃんが眉間にシワを寄せた。少し迷惑そうな、それから少し怖がっているような表情だ。 「うん、いや、確かに友達だけどさ。もっと何か、他にあると思わない? 俺とタロちゃんの──」 「そんな悩むならやめよう」 タロちゃんが珍しく、人の言うことを遮った。 「いや……えっ?」 今度はオレの方が驚いて言葉を続けられなくなってしまう。 「あれでしょ、エッチするようになって、変な感じになっちゃってるやつでしょ? じゃあもうしない方がいい。もともと鋼兵が言い出したんだし、嫌ならフツーの友達で居ようよ」 タロちゃんが立て続けに言葉を並べてきた。少し早口で、間をあけずに一方的に。 そんなことをするタロちゃんを見た事がなかった。 と同時に、この話題に触れたくないのが、ミントの匂いと一緒に伝わってきた。 これ以上踏み込むと、タロちゃんに不快な思いをさせる。今度こそ嫌われてしまう。それは分かるが、オレも引き下がる気にならない。 何としてでも結論を出したい。それを立証できる答えが欲しい。 「違う、聞いて、タロちゃん。オレ……」

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