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3.逆に疑問なんだけど(前)
それからタロちゃんは、1週間の出張に行ってしまった。間の悪いタイミングだった。
わざわざ連絡はしない。向こうは仕事中だし、オレもどんな内容を書けばいいのか分からない。伝えることは伝えたし、あとはレスポンス待ちなのだから。
外出中は気にならない。オレにも仕事や用事くらいある。たとえ同居人みたいにキラキラと充実してはなくても。
それらを終えて、家に帰った瞬間に、タロちゃんの居ない現実が可視化する。電気の消えた家は、思っている以上に寒い。餌を求めてボタンを押す空腹状態のマウスなんて、ここでは飼育してない。
「そういうトコだよ。マジで、そういうトコだよ……」
暗い中でブーツを脱ぎながら、タロちゃんの残していった言葉を何度も反芻する。どんな顔をしていたのかは覚えていない。
「……いや、そういうトコってどういうトコよ」
問題を解決しようとして、また新たな問題を生み出してしまった。“そういう”に含まれた可能性が多すぎて、疑問を解消するための手がかりは少なすぎる。
付き合えるか付き合えないかを答えるだけで良いのに、何であんなにゴネたのか。考えさせてと言っても、オレを傷つけない言い方以外に、何を考えるのか。優しい気づかいなんてオレにはいらないと言ったのに。
確かに、さすがのタロちゃんもいきなり告られて、ビックリしたかも知れない。
でもフられなかった。フッてもらう事すらできずに何日も放置プレイだ。画面上での既読スルーより、一世一代の告白に対する保留のほうがハードルが上がるのに、何を考えているのか。
リビングには行かず、廊下に服を脱ぎ捨てて、シャワーを浴びる。すでに昨日、一昨日と同じ動作をした形跡があって、服やズボンが散乱していた。
1人しか居ないのに、洗濯物が溜まっていく。タロちゃんが戻って来る前に回しておかないと。
タロちゃんがいないと、オレはどんどんズボラになる。学生の頃に戻ったみたいになる。食費を削ってでも服や靴を買いたかったし、誰も呼ばない部屋が汚れても気にしなかった。エアコンをつけ忘れて倒れたのも、実は1回や2回じゃない。
今みたいに人と一緒に住んで、ようやく人並みの生活といった感じだ。よく死んでいないなと、自分でもたまに思う。
ルームシェアをするにあたって、家事の分担は決めていなかった。
得意不得意の偏りが大きすぎるオレが唯一、好きと言うかできる部類に入るのが料理だ。2人以上で暮らすなら、自炊で作り置きするのが安上がりだと思う。
ただそうは言っても、タロちゃんは外食も外泊も多いし、メシのタイミングが合う方が珍しかった。結局行き着いたのは、オレが食べたい物を多めに作って、残りを冷蔵庫に置いておく方式だった。タロちゃんが勝手にチンして食べて、食器を洗っておいてくれるまでが一連の流れ。もし何日かしても残っていればまたオレが食べる。
食器洗いを含め、片付けや掃除はすごく苦手。その行為自体が面倒だし、どうせまたすぐ汚れるのにと思うと、綺麗にする意味が分からなくなる。
たまに本気を出して片付けても、今度はどこに何をしまったのか忘れて、見つけられなくなってしまう。
共用スペースはタロちゃんがメシのお礼にと綺麗にしてくれる。洗濯や洗い物を通算すれば明らかに過不足があるような働きぶりで。
頭を洗いながら考える。
「そもそもタロちゃん、何でオレと一緒に住んでんの? 何でオレに……ぶっ!」
顔を流れてきたシャンプーが口に入って、メンソールに襲われる。鼻がスーッとして、唇がヒリヒリして、口の中が苦い。
シャンプーを吹き出して、口腔内と泡だらけの頭髪をすすいだ。
「住宅手当、メシが出てくる、実家 からの差し入れ、グッズ共有、高い物取れる……あとはー、えーっと……」
今度は指折り数えて、タロちゃんにとってのオレといるメリットを挙げてみる。そしてそれらに、体と引き換えにするほどの価値があったのかを詰めていく。
でも、オレの中のタロちゃんの価値観や判断基準が明確じゃないせいで、全然納得できない。
オレがいない事は短期的なデメリットになる可能性はあっても、損害というほどではない。そもそも持っていないのが、向こうにとってのデフォルトだから。
初めてヤらせてと頼んだ時、向こうはすっぱり断らなかった。キモいの一言で済んだのに、あの時もそうしなかった。その事実があるから、より問題が複雑化している。
1歩下がって見方を変える。人間の行動原理とはもっと打算的で、効率的じゃないのか。
別の仮説が別角度から噴き出してくる。体を差し出す事自体に、何かメリットがあるんじゃないか。
「身体的な接触そのもの? 触覚刺激の機会増やして、オキシトシン増やすのが目的とか?」
タロちゃんが自分の心身の健康のために、オレとのセックスを利用していると仮定してみた。何せシてる時のタロちゃんは、よくオレの体を触るから。
ヒトに限らず、2つ以上の個体が肌を触れ合わせる行動を取ると、視床下部でオキシトシンが産生されて、下垂体後葉から血中に分泌される。オキシトシンはオスのラットの脊髄に投与すれば性機能が活性化するようなペプチドホルモンだ。何かにつけて母性とか、妊娠や出産、育児と結び付けられがちだけど、男にだって関係ある。出した後の、あの幸福感の正体の1つでもある。
脳内エンジンで検索をかけると、目を通した事のある情報が一気に出てくる。ラットの研究結果以外にも、チンパンジーの実験資料も候補に上がってくる。
「幸福感の獲得、免疫力の強化、うつ予防、社交性の向上……」
オキシトシンの及ぼす効果を、また指を折って数える。どれもタロちゃんに効いていそうなものばっかりだ。ヒトの脳の重さの半分以下の体重のラットどころか、体重20グラム以下のマウスですら本能的に知っている。だから社会的なアクションを起こそうとするのだ。
そんなオキシトシンは人を思いやって、優しくする事でも分泌されるらしい。エロくないただのマッサージでも、感謝でも、とにかく1人じゃできない事。人の輪の中心にいて、タロちゃんは生まれつきそれを知っているのかも知れない。幸福感はタロちゃんの中を循環し、さらに社会的な活動を活性化させる。だからあんなに幸せそうにしている。
そう考えれば整合性も取れる。終わった後のオレには、他の誰かみたいに優しくしない事も。
オレと恋人にはなりたくないけど、フッてしまえばそんなエネルギー源とも言える補充ルートが途絶えてしまう。だからそう簡単に返事ができなかった。
「はい来たそういう事ね! 理解理解!」
納得できる答えを導き出せて、思わず樹脂の壁を叩いた。バンという音と、自分の声と、シャワーの音が反響していく。
「…………」
理論上は納得できたはずなのに、何だかモヤモヤする。左脳だけで突っ走ってシカトしてきた部分、言葉で説明できない“物体X”が右脳にちらついているみたいな感覚。
「……エッチすんのが目的なら付き合ったっていいじゃん。オレ絶対浮気しないし」
たぶん、無理ゲー。
そう心の中に浮かんでくるが、口に出す前に気づいてのみ込んだ。シャワーから流れた湯がまた口に入って来ていた。
考えと感情が一致しないせいで、言動の一貫性すら保てない。左脳と右脳を繋ぐ脳幹がショートしてちぎれて、ついでに頭と体もバラバラになりそう。
自分のことなのに、制御できない。オレという人間を動かすシステムの中で、感情という1部分だけ正規品じゃないパーツみたいで気持ち悪い。四捨五入して30歳にもなるのに、“こんな事”で悩んでいるのも、それこそキモい。
「タロちゃん、早く帰ってこないかな……」
今のオレには、オキシトシンが足りていないかも知れない。こんな致命的なバグから、早く解放されたい。
5日目の夜、いつも通り夜食にラーメンを作った。ざく切りキャベツとモヤシ、缶詰のコーンのトッピングも付けて。
二口あるコンロの片方で先に野菜に火を通して、もう片方で鍋で袋麺をゆで始めた時、脇に置いたスマホで流していた動画が途切れた。一拍遅れて、通話の着信画面に切り替わる。表示された名前は、『Taro Sasaki』だった。
タロちゃんはネットに本名や顔を出すのに抵抗がないタイプだ。
見慣れたアイコンは、どこかの山の尾根で青空をバックに写ったタロちゃんの他撮り。社会人になって最初のGWに、フットサルチームとトレッキングに行った時からこれだ。何でフットサル以外の活動をしているのか、アウトドア派の行動原理は理解に苦しむ。
初めてサシ飲みに誘われてから、名前が表示される着信なんて、数えるくらいしかなかったかも知れない。
トイペの買い置きが切れたとか、メシを冷蔵庫に入れておくとか、最近は特にそんなメッセージの履歴しか残っていない。
菜箸を持ったまま、人差し指の関節で電話マークをスライドさせる。
『あ、鋼兵? 今大丈夫?』
タロちゃんからの数年ぶりの通話は、やっぱりただの業務連絡だった。リスケしたら出張が1日短くなった事や、帰ったらしたい家の事だ。
『明日の夜には帰るから、洗濯機空けといてね。あと家居るならお風呂も溜めといてほしいな。先入っていいから』
わざとらしいくらい、その話題には触れなかった。
オレはまた耐えられなくなって、菜箸を置いて、スマホを耳にあてて切り出した。
「あのさ、ねえ、タロちゃん! オレ反省した!」
『…………』
聞こえているはずなのに、タロちゃんからの応答はない。かと言って通話を切られる事もない。
スマホを両手で握りしめて、この5日間で考えたことを話し続ける。
「いや、だって、あんなこと言ったら困るって。タロちゃんにも色々考えてることあんでしょ? けどオレ、言わないと頭バグるとか、マジで自分の都合ばっかりで……」
たちまち色んな感情や考えがぐちゃぐちゃになって、胸がいっぱいになって、言葉が出てこなくなる。そう言えば着信画面が表示された時から、ドキドキしていたのかも知れない。
研究発表やプレゼンなら問題なくできるのに、ディベートやGDなら負けた事がないのに。それと同じ、考えを説明するだけなのに、何でこんなに難しいのか。
気持ちが絡むだけで、難易度が爆上がりする。やっぱりオレには、コミュニケーション自体が向いてない。
「オレこんなんだからさぁ、やっぱどうしても、ハッキリさせないと、無理で……」
『鋼兵』
タロちゃんの真剣な声が呼んできた。
コンロの前に座り込んだ。他の事が手につかないから。何とか言葉をのみ込んで、続きを待つ。
『俺もね、色々考えたよ。て言うか、今も考えてる。まあ……こんな電話1本で解決できる事じゃないよね』
せっかく2人で住んでるんだし、と言って、タロちゃんが吐息だけで笑った。マイクに吹きかけられた電話越しの息に、ドキッとしてしまう。
タロちゃんの出張は珍しいイベントじゃない。これまでにも何度もあった。今回はやっぱりおかしい。
たった5日離れただけで、何でこんなに、苦しくなるのか。会いたいと、顔を見て話したいと思ってしまうオレが居る。
『帰って荷物片付けたら話すから、待っててくれる?』
逆に、タロちゃんは何で冷静に話せているのか。それも気になって聞こうとしたけれど、聞けなかった。そういうトコだよ、とまた言われる気がして。
『どうせラーメンばっか食べてるんでしょ。1人だからって、好きなもんばっかじゃだめだよ』
ビデオ通話でもないのに、言い当ててきた。
『じゃー、一応、そんな感じで。何かおいしいお土産買って帰るから。おやすみ』
今度は、きゅうっと、胸が締め付けられた。おやすみなんて言われたのは、一緒に住み始めた頃以来かも知れなかった。
「あっ、うん……また!」
声が裏返って、思わず通話を切ってしまった。
おやすみすら言わずに暮らしてたのに、今更になって彼氏になりたいだなんて言い出したのは、確かにどうかしていた。
それなのに、焦らされて、待ちくたびれて、落ち着きを失なってしまった。
改めて、タロちゃんのアイコンをタップして眺める。
トレッキングと言うよりほとんど登山に近い服装で、両手を上げて、こっちを向いている。3年後でも高校生に間違えられる事なんてまだ知らない、爽やかでキラキラした笑顔。相変わらずオレの知らない誰かといるタロちゃんは楽しそうだった。
大学の時、初めて連絡をくれた頃の名前は『ささき』だった。アイコンは、ちょっとピンぼけしたモフモフのトイプードル。勝手に実家の犬だと判断して、聞きもしなかった。マウスの方が似てるよ、とも言わなかった。
ゆですぎた袋麺と湯が吹きこぼれてきて、鍋を放置していた事を思い出した。
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