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3.逆に疑問なんだけど(後)
タロちゃんが帰ってきたのは、音で分かった。
鉄コンの廊下を、キャスターがゴロゴロと転がる音。コツンコツンという革靴の音。オレはベッドにあお向けになって聞いていた。直接出迎えられるような精神状態じゃなかった。
タロちゃんの顔が見たい。会って話したい。
でも今はできない。多分、問い詰めてしまうから。早く答えが欲しくて。抱えている問題と、出した結論の正しさを証明したくて。
玄関の開く音がして、ガサガサ物音がする。スーツ姿のタロちゃんが、替えのスーツや紙袋、バッグを提げて入ってくるのが目に浮かぶ。
『ただいまー』
声が聞こえただけで、心臓が爆発しそうだった。部屋から出られなかった。おやすみも言えなかったのに、おかえりなんて言えない。
『寝てんのー? おーい』
何でいつもと変わらない様子でいられるのか、もはや不思議だった。電話の時も、オレが切り出さなければ連絡だけ済ませて切っていたのかも知れない。
オレはしばらく、家の中なのに居留守を使った。寝てるフリをしながら息をひそめて、タロちゃんの生活音を聞いていた。
『鋼兵?』
ドアがノックされて、向こうからタロちゃんが呼ぶのが聞こえた。
「んあっ、ハイ……!」
慌てて起き上がり、返事をする。
寝たフリをていたら本当に寝てしまっていた。コンタクトが乾いて目玉に貼りついているみたいでゴロゴロする。
ヘッドボードの目薬を取る拍子にデジタル時計を見ると、夜11時を回っていた。
「起きてた?」
手ぐしで寝癖を直していると、タロちゃんが部屋に入ってきた。
「ちょっと、寝落ちしかかってたかも……」
相手の顔を見ないように、コンタクト用の目薬をさしながら答えた。ベッドの上を移動して、タロちゃんの座れるスペースを作る。
「ごめん、飛行機遅れて、遅くなって。明日にする?」
「ううん、いい。もう一生寝れない」
「何それ。フツーに寝れるでしょ」
男物のシャンプーの匂いと湿った空気が部屋に流れ込んで、オレにもまとわりついて来る。それだけでドキドキしてしまう。
同時に、その反応を変に思うオレもいた。こんなに、だったっけと。
「明日仕事?」
タロちゃんがベッドに座って聞いてくる。
近づいただけで、体温まで伝わって来そうだった。いつもの白いTシャツとジャージの格好で、首にタオルをかけていた。風呂から上がったばっかりで、短い髪もまだ濡れていて、赤っぽくなった肌がつやつやしている。
「仕事、だけど……午後から行くから。大丈夫」
膝をかかえて答えると、タロちゃんも小さくうなずきながら、そっか、と返してきた。
「あ」
と急に切り出されて、ビクッと体が跳ねる。タロちゃんはそんなオレを見ても平気だ。
「あの洗濯機と風呂、ありがと。キッチンも。洗い物溜まってるかと思ってたけど、全然散らかってないし。ちゃんとできるようになったじゃん」
「い、いや、うん、まあ……」
返事をにごすと、タロちゃんがすぐ気づいて顔をのぞき込んでくる。
「鍋しか使ってない?」
「…………」
言い当てられて、目を見れなかった。
「出たよ。また立ったまま食ってたんだ」
「……そうです」
行儀が悪いと言われても、どうしても、かけなくても済む手間をかける気になれなかった。
ラーメンや炒め物を作った後、食器に移すのがメンドくさいのだ。どうせ1人しか使わない。台所に立ったまま、鍋かフライパンから直接菜箸で食べて、調理器具だけ洗って、それをまた翌日も使うの繰り返し。
そんな生活が、タロちゃんにはお見通しだった。
「まあ、いいや。今回は」
タロちゃんが話を終わらせて、それからしばらく、2人で沈黙する。
「…………」
「…………」
オレには、タロちゃんの返事を待つという選択肢しかない。
「あのー、まあ、電話でも話したけどさ」
そんなオレに向かって、ついにタロちゃんがゆっくりと切り出してきた。
「俺もね、結局どうしたらいいか分かんないの。申し訳ないけど。出張先でも、寝ずに考えたけど」
そう言うタロちゃんの目の下には、確かにクマが出来ていた。夏の間に日焼けしていて、うっすら見えるくらいだが。
「そ、そっか……」
何と答えていいか分からなくて、ただあいづちを打つしかなかった。そんな答えを求めているワケじゃない。それは向こうも分かっているはずだ。
「鋼兵はさ、俺のこと──」
タロちゃんがベッドに足を上げて、体を向けてくる。
「──俺のことコミュ強とか根明 とか言うけどさ、一緒なんだよ。人に嫌われるの怖いし、今までの関係が壊れて、大事な友達失くすのが嫌なの、一番」
何を言われているの分からなかった。
「きっ、嫌ってない、嫌わないよ……好きって、言ったんだよ?」
かかえていた膝をほどいて、同じようにあぐらをかく。ほんの少しだけ、近くに行った。
タロちゃんがまっすぐにオレを見る。
「分かんないじゃん。明日明後日 の話じゃないんだよ? 5年後、10年後も俺のこと好きでいられる? 今は好きでいてくれても、今後嫌いになったらどうすんの?」
そんなことを聞かれるとは想定していなくて、何も答えられなかった。
オレは、今の苦しさから解放されたかっただけだ。ただ、タロちゃんを自分のものにしてしまいたくて、ちゃんとした関係になりたかっただけ。その先の事になんて頭が回るはずなかった。
タロちゃんが続けてくる。
「もし付き合ったとしてもさ、結婚っていうルート無いんだよ? 今のこの社会で、そういう男として生きていく覚悟あんの? そりゃ鋼兵は……それでいいのかも知んないけどさ。50年後、どっちかが死ぬまでジジイ2人でお手々つないで、彼氏なんじゃーって言って暮らしてる絵面 、俺には想像できない」
話し方は静かだが、熱量がすごかった。
オレに比べてタロちゃんは、もっと広い社会のことや、ずっと先の未来を見ている。それもかなり本気で。
そこから来る持論があって、どうする事もできないと述べているのだ。
どうやら例の仮説は、見当違いだったらしい。
オキシトシンの分泌とそれに付随する健康効果が目当てじゃない。誰かに優しくするために、オレとの接触でホルモンの補充をしているワケじゃなかった。
着眼点が違いすぎて、ぽかんとしてしまった。
そうやってオレが答えられずにいると、タロちゃんはベッドに片手を置いて、オレを説得し始めてしまう。
「それだったら──いずれ別れて友達ですらなくなるくらいなら、俺はずっと友達で居たい派なの。この先もっと給料貰えるようになって、別々に暮らす事になっても、多少そういうコトはしたけど、友達としての楽しかった思い出だけ持ってたいの」
友達という単語を強調する。オレともこのまま、たまにエッチもするルームメイトという感覚のまま、友達でいたいという意味なのだろう。それは何とか理解できた。
「だから付き合うとか、そういうのはちょっと……」
フられていると分かった。ある程度は遠回しな言い方で、精一杯オレを傷つけず、タロちゃん自身も後味の悪くならない伝え方。向こうなりに考えてくれた答えだ。
やっぱりオレとタロちゃんでは、同じ問題に対しても、着眼点も解決までのアプローチも違う。
そしてタロちゃんは、肝心なポイントを見落としている。
「……タロちゃんはさ、オレのことどう思ってる?」
声は震えなかった。情緒的な苦手分野から、議論のモードに入っているのを自覚した。
「え? だから──」
「付き合うとかは置いといて。単純に、オレのこと、その……アリかナシか」
それだけでも明確にしておく必要がある。タロちゃんの考えは聞いたけど、“気持ち”はまだ聞いていない。
タロちゃんが嫌そうに眉間を寄せた。
「……それ聞いてどうすんの?」
「知りたいだけ」
「でも、もし好きって言ったら、結局付き合えってなるんでしょ? 鋼兵のことだから。0/100 だもん」
まだしぶって聞き返してきた。どんな方向に話を持っていくかも、お見通しだと言うように。
そうなるだろうな、とオレも思う。お互いに好きなら付き合える。それ以外の選択肢が思い浮かばない。
「いいじゃん、それで。てか、何でそこまでオレと友達貫 きたいのか逆に疑問なんだけど。そもそも何で付き合う前から別れる前提なの? オレ何となくフられかかってるけど、すごいモヤモヤする」
「フッてないよ。俺はこのままがいいって言ったの」
「このままとか。続けてけないよ、オレは。もうタロちゃんの言うような友達関係とか無理。だから告ったの分かんない?」
明確な返事を貰えないのがいい加減もどかしくて、オレの主張はだんだん激しくなってしまう。
「またタロちゃんに彼女ができて、そん時にオレが遠慮すんのもヤだし。現時点でオレの方が先に好きって言ったのに、その返事スルーされて、何で後から来た知らない女の子に譲んなきゃダメなの?」
「また彼女作るかなんて分かんないよ」
「じゃあ別れるかどうかも分かんないでしょ。男同士でも結婚できるようになるかもじゃんか」
間髪入れずに言い返した。タロちゃんが譲らないから、オレだって譲らない。
ただすぐに気づいて、一部だけ訂正する。
「……いや、違 くて。結婚とかは仮の話。でもフられたとしても一緒に暮らせないし。どっちみちタロちゃん次第なんだよ」
そこまで言うと、タロちゃんがムッとしたのが分かった。
「待ってよ、何その言い方。ズルくない? ここでフッたら俺が追い出すみたいじゃん」
「いやそうは言ってないけど。別にいいよ、それでも。オレしばらく職場に泊まるし。最悪会社の寮にも行ける。独身だから」
それくらい覚悟を決めていると分かってもらいたかった。脅しじゃない。オレがこれだけ真剣なんだから、タロちゃんも真剣に返事をするべきだというだけだ。
「俺は良くない。気分悪いよ、そんなの」
タロちゃんが小さい唇をとがらせてきた。高校生に間違えられるような童顔で怒られても、ヒゲの剃り跡まで何だかネズミっぽいなと思うくらいだ。
「何でそうやって勝手に色々決めちゃうの? 俺にも拒否権とか黙秘権とかあっても良くない?」
「いや、オレのこと拒否る権利はあるよ、でも使わなかったじゃん。今もさんざん黙秘してんじゃん」
低い高さで指差して言い返した。
向こうは容疑者じゃないし、こっちも警察じゃない。でも、欲しい答えを言わせようとするオレと、言わないタロちゃんは険悪ムードになっていた。
「違うよそんなこと言ってない。鋼兵のこと拒否りたいとか一言も──」
「じゃ何の拒否権なの? 今そんな話してなくない?」
「だからぁ……」
そこで、タロちゃんはめんどくさそうにため息をついた。
また話を逸らそうとしているように見えて、逃げ道を塞ぎに行きたくなってしまう。
「ごまかしてもダメだよ、意味ないから。これから先もモテるよ、タロちゃん絶対。付き合う付き合わない以前に、そうやって相手にもしないで逃げんの?」
すると急に、タロちゃんの眉毛がつり上がって、くりくりした目つきが恐くなった。黒目の中の丸い光が無くなる。
「逃げるって言うか……誰のことも傷付けたくないだけ。意味分かるでしょ、これ以上言わせないで」
「それさぁ、リアルに自分が傷つきたくないからでしょ? ズルなのはタロちゃんじゃん」
あぐらをかいて、向き合ったまま、指摘した。
一番言われたくないであろう点を突くのは議論の鉄則だ。性格が悪いと言われようが関係ない。
ただ、顔は見られなかった。視線を下げて、タロちゃんの服を見ながら詰めていく。
「こっちは傷つくの覚悟してるんだよ。たぶん重症だし、自覚したら病むの分かってたけど。お茶と間違えてめんつゆストレートで飲んだ事ある? 5日で麺類8杯食った事ある? そんくらい真剣なんだよ。何で向き合ってくんないの?」
「……悪いのかよ」
タロちゃんが小さく答えた。これまでと明らかに声質が違う。
おそるおそる視線を上げると、血走った目でオレを睨んでいた。
「お互いが傷付く前に、モメる前に、避けるのがそんな悪いのかよ。人のこと選り好みして付き合って、好き勝手言うだけのおまえとは違うんだけど」
〈おまえ〉なんて言葉を、タロちゃんが使ったのは初めてだった。これはそうとう言われたくなかった地雷なのだろう。
「ホント勝手なんだよ、おまえ。ややこしい問題ふっかけといてすぐ返事欲しいとかさ。オレこんなに病んでるとかアピってさ」
あぐらの上に肘を置いて、こんこんと責めてくる。
「俺も一生懸命考えた上でどうしたらいいか分かんないって言ってんじゃん。俺が真剣に向き合ってないと思う? 言われた側の気持ちとか最初に考えないわけ?」
普段の明るくて元気で優しい姿を知っているから、そんな人に、こんなに静かに言われるのがどれだけヤバいのかはオレにも分かった。
けど、オレの言いたいことは分かってもらえていなくて、頭を搔きむしった。
「いや、だから……!」
論点がズレていた。気持ちは気持ちでも、オレのことをどう思うか聞いてるのであって、タロちゃんがどう感じてるかは問題じゃない。
「タロちゃんの気持ちを聞いてるんじゃん! なに被害者意識出して来てんの!?」
向こうの態度に反射するみたいに、オレも逆ギレしてしまった。
ベッドを指で差しながら言い返し続ける。
「考えさせてって言うから、オレ6日待ったんだよ!? 仕事だったからこの事ばっかりに時間使ってられないだろうし、その件に関してはお疲れ様だけど! 悩ませてごめんとも思うけど!」
毛が逆立ちそうなくらい頭に血が上って、自己主張と相手へのねぎらいの混ざった、意味の分からない言い方になってしまう。
「どうすればいいか分かんないって、そんなの、答えになってないから! それ言ったらオレの方が分かんないんですけど! だから聞いてるんですけど!」
言葉が止まらなかった。一方的に責めても、それこそ意味ないのに。
これは2人のことだから。向こうの引いたラインを飛び越えるにしろ、そうさせてもらえないにしろ、タロちゃんの返事が必要なのに。
「だからっ……あえて言わないようにしてるんだよ!」
今度はタロちゃんが拳を振り下ろして、どすんとベッドを殴った。
「今好きならそのままで居てくれればいいんだよ! 付き合うとか、わざわざ形にしたらいつか終わりが来るだろ! 友達じゃなくなったら……いつかおまえともそうなるの、嫌なんだよ!」
「いや、だからそれはっ……そんなの、やってみないと分かんないじゃん!」
気づいたら枕を抱きかかえていた。殴られそうなのが恐かったのかも知れない。枕を盾にして、顔を半分隠すようにしながら言い返す。
「いつかいつかって、何にビビってんの? その謎理論マジ意味不 だわ! 的中率100% の予知能力とか持ってるんですか!?」
「何回も失敗してるから言ってるに決まってんだろ!」
がばっと膝立ちになったタロちゃんの勢いに押されて、腰が引けてしまう。
「おまえは大学からの俺しか知らないだろうが! 何をもってコミュ強とか、言われるようになったと思ってんだよ!」
痛い所を突かれた。相手の主張に至った経緯は確かに盲点だ。
タロちゃんのいつもと違う声が、耳にビリビリと響く。
「色んな人傷付けて、期待裏切って後悔して反省して……俺なりにようやく見つけたやり方なんだよ! 俺がどれだけしんどかったか考えもしてないくせに!」
タロちゃんの主張通り、オレは過去なんて知らない。生まれた時からそんな感じじゃなかったのか。なんて、今は言えなかった。
よく冗談を言うし、ふざけて軽い嘘もつく。でもタロちゃんは、自分の保身のために事実をねつ造したり、心にもないことを言ったりするような人間じゃない。
ほとんどあお向けに近い体勢で見上げながら、こんな風に言い合いになるなんて思わなかったと、冷静に感じるオレがいる。オレでも、タロちゃんでもない、他人になった気分だった。
「俺昔から相手の気持ちとか、何求められてるかとか分かるけど、応えすぎて何回も潰れて来たんだよ……。だから気ぃ回して、はぐらかして、やって来たのに……」
怒っているはずなのに、タロちゃんの声や話し方は途中からよわよわしくなっていった。
「何で、よりによっておまえが、こんな事するんだよ……こんな所でそのしつこさ出してこなくていいって……」
それからまたあぐらに戻ると、片手で目元を隠すようにして、うなだれてしまった。
「俺から鋼兵まで取らないでくれよ……」
泣きそうな声で言うのが聞こえた。
鋼兵というのは、オレの名前だ。
オレが離れていくのは嫌なのだと言いたいのは分かる。オレの“勝手な”判断で、タロちゃんからオレが離れていく。それが嫌なのだと。
急に怒りが冷めて、オレもどうすれば良いのか分からなくなった。
タロちゃんの中でどんな思考の変化が起こっているのかがまったく見えない。それでも目が離せなくて、つむじを見ながら、とりあえずゆっくり起き上がる。さっきと同じ、向かい合う位置で座り直した。
「俺がおまえをどう思ってようと、俺の気持ちなんか、どうだっていいだろ……しつこいんだよ」
これだけしてもタロちゃんは、肝心な部分を見せてくれない。初めて見せてくれたのは、オレに向かってキレる所だけだ。
「……ごめん」
怒られて、謝るしかなかった。
確かに聞き方はオレが強引で勝手だったかも知れない。けど、好きか嫌いか、ただの2択問題の答えを聞きたいだけなのに、何で頑なに教えてくれないのだろうか。
ハッキリしたのは、タロちゃんがこれまで同じパターンをくり返してきたという事。それはタロちゃんにとっては失敗と呼ぶべき結果で、オレとも同じパターンに陥りたくないから答えられない、という主張。
また1つ、仮説が浮かぶ。
もしかするとタロちゃんもタロちゃんで、前のオレと同じように、“物体X”をかかえてるのかも知れない。自分でも触れたくないし、他人にも触れられたくない場所に。
その物体Xとは、自覚すらできない本心のことだ。
枕を置いて、ベッドの上で四つん這いになった。様子を見ながら、また少しだけ近づく。タロちゃんの手をどけさせてまで表情を見る勇気はなかったが、
「……でもさ、ねえ、聞くだけ聞いて。お願い」
しつこいと言われようが、嫌われようが、もはや関係なかった。この仮説の正誤を解明して、問題解決に近づきたいと思った。
「タロちゃんが他の誰かと100回失敗してようがオレには関係なくない? だってオレと付き合ったこと、1回も無いじゃん」
そもそも前提条件が間違っている。1回も試さないうちから、成功する可能性は0だと言われても、納得できる人間はいない。
でも、そんなあやふやで不確実なデータを、タロちゃんはなぜか信じ込んでいるのだ。
1世紀の4分の1しか生きていないヒトが、この世のいついかなる時でも通用する理論を確立するなんてありえない。
正解率50パーセントの問題すら解けない、いや回答を放棄して、チャレンジすらしなくなってしまうような考え方が、正しいワケがないのに。
「メンデルだっていっぱい失敗して電気発明したんだよ。タロちゃんだって、オレとなら今までなかった大発見するかも知んないじゃん。もしくはフられるにしても、やっぱちゃんと返事として聞いてから出て行きたいんだけど」
「……エジソンね」
ぽつりとそう言ったきり、コミュ強のタロちゃんは黙り込んでしまった。
どれくらい時間が経ったのか分からないほど、2人とも黙りこくっていた。
しばらくして、タロちゃんが下を向いたまま、ふー、と大きく息を吐いた。冷たい空気がベッドに跳ね返って分散する。正座になって待っているオレの髪を小さくゆらす。
「……鋼兵と居るのは、すごい気が楽」
目元は隠したままだが、さっきのどなり声でも、泣きそうな声でもなく、よく知っている声が言った。言葉のひとつひとつが分かりやすい音になって、耳に流れ込んでくる。
「ただ、たまに人がスルーしようとしてるのに、正論で核心突いてくるトコがすっごい嫌」
「だってそれは──いや、うん、ハイ」
そうしないと話が進まないから、と言いかけて、のみ込んだ。また嫌がらせてしまうところだった。
「でも俺は、今の、こういう生活も……終わらしたくない」
これに関してはタロちゃんの言うことに完全に同意で、黙ってうなずいた。
「…………」
自分の膝に置いた手を握りしめる。あれだけ待ち望んでいたのに、今は結論を出されるのが怖かった。
タロちゃんがゆっくりと顔を上げる。
「……もし付き合ったら、まだここに居てくれる?」
少しだけまつ毛を濡らした目が、まっすぐにオレを見ていた。
「付き合っ……えっ?」
信じられなくて、聞き返した。
タロちゃんは咳払いをして、オレに合わせるように座り直す。
「いつかダメになるのも怖いし、結婚とかもできないけど……今すぐ鋼兵がどっか行っちゃう方がやだよ、俺」
あの佐々木汰郎の口から、そんな言葉が出てくるなんて思いもしなかった。それも、オレに向けて。
「それだったら、鋼兵の言う通り何か発見ある方に賭けてみるのもアリかな。……それが俺の気持ち。分かってくれる?」
いつもの優しいタロちゃんに戻っていた。話し方も、表情も、匂いも、全部。これこそがタロちゃんの本心だというのは、エスパーみたいに伝わってきた。
「いや分かるよ、分かるけど……」
理解が追いつかない。つまりどういう事なのか。この認識で正しいのか。望んでいた結果だと、認識してしまっていいのか。やっぱり経験が足りないから、分からない。
リアクションに困っておろおろするオレに、タロちゃん本人が分かりやすく解説してくれる。
「俺と付き合って。俺の、彼氏になってください」
そう言って、ぺこっと頭を下げてきた。
変な声が出そうになった。
ぶわーっと、体の内側を色んな感覚が込み上げてくるのが分かった。オレの細胞の1つ1つが反応するような、何が1番強いのか分からないほど、色んな感情が。
絶対に、確実に、嫌な気分じゃない。でも、それ以外は認識できる余裕がなかった。
口は動かせるのに、言葉を出すまでに時間がかかってしまう。
「つ、つき、付き合う……付き合うよタロちゃん! オレ、タロちゃんの彼氏になる!」
やっと言えた頃には、タロちゃんを抱きしめていた。
嬉しい。そんな感情を自覚する前にニューロンが働いて、筋肉が反応した。さらにインパルスが軸索を駆け回って、暴走したシナプスが出しちゃいけない物質まで出ていそうだった。末梢神経や運動神経どころか、記憶も言葉も止められなかった。
「大事にするから、マジで! 5年後も10年後も……分かんないけど、いつか結婚しよ! こないだネットで見たんだけどさ、アメリカとかカナダとか行ってさ」
「あー、重いんだよなぁ……話飛びすぎ」
向こうはもうすでにいつものクールなタロちゃんで、呆れたように言うだけだった。
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