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5.できればワンチャン(前)

浴槽のへりに座って、タロちゃんが“後処理”をするのを見ていた。壁に向かって立ったまま、シャワーをあてながら、指でかき出す。排水口が詰まっているのを見た事がないから、掃除までしてくれているんだなと改めて気づいた。 「そんなじろじろ見なくても」 タロちゃんが顔を向けて言ってきた。 「……あっ? ああ、いや、スイマセン」 反応するのが遅くなって、ボーッと見ていたのに気付く。でもまだ目が離せない。 「大変なんだな、と思って」 「そうだよ」 タロちゃんはまた壁の方に向き直ってあっさりと言う。濡れた後ろ姿が湯気の中にある。 「……何で許してくれたの?」 つい、聞いてしまった。 「え?」 タロちゃんが聞き返してくる。 何気ない世間話を振れないし、向こうが返してきても上手く乗っかれない。何か言わなきゃと思って焦って、おかしなことを口走ってしまう。 そんな悩みすらもカバーしてくれるから、コミュ強は色んな人に好かれるのだ。特にオレみたいなやつにも。 「マジで今更だけどさ。ド頭でヤらせない選択肢あったでしょ。あん時オレのこと好きだったの?」 「あの状況で許さない選択肢とか無いから。断る方がきつかったよね、色々と」 こんな風に、急に話を振っても、見えない脈絡を察したように返してくる。 多分タロちゃん自身は今でも、本心かどうかなんてどうでもいいと思っている。ただ会話のキャッチボールが続いて、相手に嫌な思いをさせないのが、第一優先事項だと。 「オレじゃなくてもそうしてた?」 「俺のこと誰だと思ってんの」 タロちゃんはそう言いながらようやくシャワーを止めて、オレに向き直った。水滴のついた白い肌と黒い毛が目の前に来る。 「皆大好きタロちゃん」 と答えると、 「そうだよ」 と当然のように返してくる。ちょっと笑ってしまった。 「ビッチじゃん」 「そんな事ない。相手がその気ないオーラ出したら察して離れていくもんだよ、フツーはね」 タロちゃんは淡々とシャワーヘッドを壁のフックに戻して、オレの隣に来た。浴槽のへりに片手を突いて、もう片方の腕で追い炊きしている風呂をかき混ぜ始める。 さっき風呂から上がった後、タロちゃんは残り湯を洗濯に使っていなかった。洗濯機も回さず、オレの部屋に来てくれたのだ。こうして温め直して一緒に風呂に入る事を予定していたワケじゃない。 かいがいしく働くのを見ながら少し考える。 「え、あれ? その理論で行くとオレ普通の人じゃないんだけど」 気づいて言うと、タロちゃんは笑った。 「フツーなわけないじゃん。それも無自覚?」 文面だけを聞くとキツい内容でも、無邪気に笑って言うから、キツく聞こえない。 それがタロちゃんの魅力で、武器でもあった。他の人ならケンカになりそうなことでも、タロちゃんなら許してもらえるし、だからタロちゃんの言うことは皆が聞く。 「こーへいは鈍感とか言う次元じゃないよ。強行突破したくせに」 そう言いながら、タロちゃんは当たり前のようにオレの脚を開かせた。排水口のカバーを踏んでいた足をどけさせて、中にあったネットをはずす。口ではお喋りをしながら、当たり前のように掃除を始めている。 明らかにタロちゃんのじゃない長めの髪や、どっちのか分からないちぢれた毛、シャンプーにも似ている白い塊がこびりついたそれを持って、タロちゃんはいったん風呂場から出て行った。 「いや、でも、それもタロちゃんが許してくれてんじゃん。許してくれてんのは何でって聞いてんの」 浴槽のへりに座って脚を開いた体勢で、脱衣所に向かって大きめの声で聞き直した。 「そんなこと気になる?」 同じく大きめの声で聞き返してきたタロちゃんは下半身ビショビショのまま、脱衣所のゴミ箱の前にしゃがみ込んでいる。 華奢な肩と、その下にある肩甲骨が動く。刈り込んだうなじは細くて、首の後ろは日焼けの色から白い背中に向かってグラデーションになっていた。今年の夏は、水着を着なかったらしい。 それからすぐに、綺麗にしたネットを持って戻って来た。 「鋼兵みたいに難しいこと考えながら生きてないから、何でって言われると困っちゃうな」 「別にオレも行動の1コ1コ考えて生きてないよ。むしろ全然別のこと考えてるし。すぐ頭と体が分離しちゃう」 考える必要のある事に対して、何気なく過ぎていく日常は優先順位が低いから仕方ない。脳のストレージ配分が下手なのは自覚済みだ。そのバランスを少し変えられれば人間的な生活に近づくのだろうけど、できないから現状こうなっている。 「でも何でそうなるのって言われたら説明できるんでしょ。俺それはすごいと思うよ」 タロちゃんが排水口カバーを閉じて、軽く手を洗ってから、オレの脚も閉じさせる。 「タロちゃんの行動原理マジで謎だわ。解明したい。無理だけど」 されるままになりながら言うと、タロちゃんが顔を上げた。遠くの音を聞くネズミみたいな動きで。 「……まあ、これもう言ってもいっか」 少し悩んだ後、何かを決めたように言う。 「俺ね、実は知ってた」 「へっ?」 急に言われて、何の事か分からない。 タロちゃんはオレの隣にしゃがんだまま話し始める。 「初めて飲んだ時あるじゃん。こーへいが潰れて、俺の部屋来た時」 「あ、ああ、うん……」 「あの時にね、言ってた。言葉まではちょっと憶えてないけど──俺も酔ってたし、でも、俺のこと好きー的なこと」 視界がクラッと揺れた。それくらいの衝撃があった。 「は? えっ、うそ」 「ほんと。これはマジでホント」 タロちゃんが真顔で繰り返す。 「次の日記憶無かったの憶えてる? それからもう何にも言って来る感じじゃなかったし、隠してるつもりなんだろうなと思って触れなかったの。そういうのは自分のペースで行きたいでしょ」 あっさりと説明されるが、信じられなかった。理解が追いつかなかった。 「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってちょっと待って! オレ自分でも自覚したの最近なんだけど」 思わず立ち上がると、タロちゃんも怖い話をするように聞き返してくる。 「じゃあ、俺が連れて帰ったのは……?」 「いや、ホラーにしなくていいから! ほぼ確でオレだろうけど……でも、自覚もなくそんなこと言うってありえなくない? オレ“あの時”だってすごい勇気出して……」 オレがこんなに焦っているのに、タロちゃんは平然と見つめてくる。 「酒入ると素直になれるタイプなんじゃない。パッと見蟒蛇(うわばみ)っぽいけど」 「ウワバミ?」 「大酒飲みの人のこと」 ちょっとした高嶺の花、佐々木汰郎とのサシ飲みの時は、確かに醜態を晒した。でも本来のオレのアルコール耐性からすれば、許容量より少なかったはずだ。今思えば緊張していたからに他ならないが。 「鋼兵はもうちょっと、に興味持った方がいいよ。人体じゃなくて」 「何で冷静なの怖いんだけど!」 声が壁に反響する。近所迷惑を考える余裕もなくなって、質問が止まらなくなってしまう。 「えっ、待って、何でそんなやつルームシェア誘ったの? ヤバくない?」 「何で? 俺別に、嫌なことされてないもん」 相変わらずきょとんとしている。目を丸くした顔がハツカネズミに激似だが、今はそんな事はどうでもいい。 「気まずいとかないの? 相手が自分のことどう思ってるか分かっててさ」 「嫌われてるなら気まずいけど、好かれてる分には困る事ないじゃん。それより一緒に住んで上手くいくかの方が大事じゃない?」 座りな座りな、狭いから、と浴槽のへりに戻らされてしまう。衝撃の事実ばかり発表されて、頭が混乱していた。 タロちゃんはまだ風呂に入らず、その場の床に座り込んだ。壁に背中をもたれて、左膝を立てた、リラックスした体勢。白っぽい裸の中に、黒い毛と下を向いた股間が見える。お互いに、今さら隠す気もない。 「実際問題うまく行ってたしさ。だから余計に、そういうコトすれば今の関係で居させてくれるならって……許しちゃったのかな」 片膝にほおづえを突いて、タロちゃんは口元を隠しながら言った。何かを考えるみたいに、目線はよそを向いている。 自分のことなのに疑問形なのが不思議で、ちょっとあぶない感じもした。 「いや、タロちゃんモテるんだから、もっと自分を大事にしないとダメだよ。好きって言って来たらヤらせちゃうんでしょ」 「どの口が言ってんの、それ」 秒で言い返されて、ぐうの音も出ない。確かにお前が言うなという感じだが、今のオレは真剣にタロちゃんのことを想っているから、言う権利もあると思う。 タロちゃんは一度こめかみの汗を二の腕で拭いて、 「そういうのは俺が女子だった場合に言ってあげてよ」 と笑った。 もしタロちゃんが女子なら、オレは付き合えていない。と言うか、口もきかなかったかも知れない。現状を考慮した感じ、男子でもギリだったのだから。 でも、もし仮にタロちゃんが女子だったら、オレが告ったとしても、付き合う事に対してあんなにしぶらなかったかも知れない。 頭の中に、考えが広がっていく。もし、仮に、こうだったら?というたった1つのヒントだけで、発想は自由に、無限に紐づいていく。 「まあリアルな話、経験人数自体は鋼兵が想像してるほど──何人て思ってるか知らないけど、多くないと思うよ。さっさと出せば終わっちゃうし」 反対に、タロちゃんの声がスーッと遠のいていく。 目の前に裸があるのに、今は触りたいと思わない。 ただ、その下腹をぼんやりと見つめてしまう。ヤッている時に触った感じだと、へそのすぐ下にも毛が生えていた。メガネやコンタクトをしていなくても分かる距離にある、水滴のついた白い肌に黒い毛が生えているのを見つめて、その奥に隠された“何か”を探る。 もしタロちゃんが女子だったら、今頃誰かに妊娠させられているだろう。オレ以外の誰かと、とっくにデキ婚してしまっていたかも知れないのだ。 タロちゃんが男だから付き合えたのは間違いない。だから、今までこの腹が膨らむ事はなかった。 入ってきた情報から、連想ゲームみたいに、いろいろと考えが拡大して行ってしまう。 肛門に、生殖の機能はない。だから生殖器には該当しない。けれど、代用する事は可能だ。腸の一部を、不完全な膣の形成に使用した例は実際にある。 「男でも妊娠できる薬、開発しようかな……」 思い付きで言ってみると、タロちゃんが不審がるような顔で見てくる。 「なに急に。できんの?」 もしタロちゃんが女子だったらという発想から飛躍して、男子でも妊娠できるという可能性に着地していた。 「さあ。でも企画部に話分かる人いるから、巻き込んで企画だけでも上げてみようかな。とりま基礎体温上げつつ、子宮の代わりになるレベルで腹膜厚くできればワンチャン」 実現可能でなければ意味が無いのに、アイデアだけは無限に湧き出てくる。文字通り溢れそうになる。頭蓋骨や大脳皮質の枠を取り払って、爆発させて、中身を見せたいくらい。 「胎盤さえ出来れば環境は整うはず、理論上は。あーでも、そもそも卵細胞をどう調達するか。いや、後天的にホルモンいじって体質変えるのは反則な気が……」 実現するためのパターンがあれこれ出てきて、構想が止まらない。ふわーっと周囲の景色が消えていく。 「鋼兵、職場泊まらない方がいいよ。ヤバい顔してる」 「あらかじめ腸壁に乗せておいて、ヤッたら一回取り出して移植……いや、それだと体外受精と変わらない……」 そこで、急に息ができなくなった。目や口に、水流が入ってくる。それから少し遅れてザーッという音と、肌に叩き付ける感覚に気づいた。 何が起こっているのか分からない。ビックリして立ち上がる。 「ちょっ……ぶはっ! ゲホッ、いや、何してんの!? ちょっと!」 鼻や喉に入った水にむせながら聞き返した。頭から足元まで全身びしょ濡れだ。 知らない間にタロちゃんが立ち上がって、仁王立ちになっていた。フックに戻したはずのシャワーヘッドを握ったまま見上げてくる。 「世界の平和を守ったんだよ。マッドサイエンティストが居たから」 人にいきなりシャワーをぶっかけて平然としている方がずっと“マッド”だ。むせているから言い返せなかった。 「そんな薬発明したら世界中で暴動起きるじゃん。国際指名手配だよ」 まるで常識が正義かのように言ってくるが、そんなのは邪魔なだけだ。変化する事や未知の事にビビって挑戦しないのは、正義でも何でもない。 「……いいよ別に。欲しいって思う人絶対いるから、マジで」 まだ鼻の奥や喉がスッキリしない中、何とか言い返した。 必要としている誰かという需要があって、実現可能なアイデアがあるのなら、それは使われ、供給されるべきだ。たとえ大多数が正しくないと言ったとしても、間違っているとは言い切れない。価値観なんてすぐ変わる。 タロちゃんが何かに気づいて、嫌そうに顔をくちゃくちゃにする。 「……俺飲まないよ?」 「えっ、あっ……じゃあ企画終わり」 その一言で、有用性は消えた。咳がおさまって、熱も冷めてしまう。 言われるのは何となく分かっていたけど、やっぱりちょっとへこむ。好きな人に、将来の計画を拒否られるのは。 しょんぼりしてまた座り直すと、タロちゃんがたしなめてくる。 「だから話飛びすぎだって。さっき付き合う事になったばっかなのにさ。まずデートとかして、親に挨拶行って……何やかんやしてからようやく子供でしょ、フツーは」 「デートね! その発想はなかった」 そんな単語で元気づけられるオレは、けっこう単純だ。

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