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「いや、だってさ……え、そんな、いきなり『できるでしょ』みたいなテンションで言われても困る……」  何度吐いたかわからない重い息の合間に言葉を垂れ流すと、電話向こうの相手は豪快にわははと笑った。 『いやぁ、何度聞いてもおもろいわ。ごめんだけど、おもろいわ……。佐塚くんがさぁ、そんなにヘロヘロしてる事なんか――あ、嘘、あるか。修羅場中は結構わかりやすくヘロヘロしてるか!』  無駄にでかい声が耳に痛い。しかしこの馬鹿でかい声とにやにや笑いが海野満子のトレードマークなので仕方ない。 「ヘロヘロしてる、かなぁ? 編集中はさ、あれって疲れてるだけじゃないっすかね」 『んー。ふふ、そうかもなぁ。で、今は疲れてるんじゃなくて、困ってる? って感じ?』 「そりゃそうですよ。だっておれ、女性向けなんか撮ったこともないし、見たことすらないもん……」  ベッドの淵に腰かけた佐塚は、ふらつく頭をなんとか支えるように額に手を添えた。何度話題にしても頭が痛い、と感じてしまう。もはやため息と共に胃液がせりあがってきそうな程だ。  三日前、何故か社長に呼び出された。  佐塚には何の心当たりもなかった。仕事は普通にこなしていたし、納期も完璧に――少々無茶な残業はあったものの――クリアしていた。残業代のお小言だろうか? しかし佐塚が叱責されるのならば、彼よりも無茶な働き方をしている瀬羽あたりにも声がかかるはずだ。  首を傾げながらノックして入室した簡素な社長用の小部屋の中で、佐塚が告げられたのは、予想外すぎる一言だった。 「当社では新たに女性向けのシリーズを作りたいと思っている。ぜひきみに、一本撮ってほしい」  その言葉を聞いた佐塚の感想は、『え、無理』というごくシンプルなものだった。  そもそも社長に呼び出された時点で、多少嫌な予感はしていた。アットホームな職場とはいえ、それは同僚同士の気の置けない関係のみの話であり、社長と和気藹々と雑談をするような間柄ではない。まず一対一で会話する機会がない。  AV制作メーカー『アッパーズキャストスト』の売りは自由奔放な作風であり、その奔放さはある意味『放し飼い』状態の監督たちの功績で、放任主義の社長の色など一切組み込まれていないのだ。  良く言えば放任主義、悪意を持って表現すると投げっぱなし。  とはいえあまり協調性のない面々が揃っている。あれこれと口出しをされるよりは、サポートなどなくても黙って仕事だけやらせてもらえたらそれでいい。そういう監督が多かったせいで、アッパーズキャストの社長と従業員の間で揉め事が起きることはほとんどない。  半年前に一か月程度、唐突にディテクターが変わったせいでひどいパワハラが蔓延したが、めでたく彼が他部署に移動した今となっては酒の肴の笑い話だ。そういえばその際も、社長は微塵も助けてくれなかった。  ――いやぁ、でもさ、俺にもほら、面子があるから……もうちょっとの辛抱だからさ、ちょっと我慢してよ。  そんな風に表面だけの苦笑いを滲ませていた。……別に今さら過去の事を蒸し返してどうこう言うつもりはない。けれど、『この人、思いのほか言葉通じない方の人種だな』と思った事だけは明確に覚えている。  一度がっかりすると、その後はもうどうでもよくなる。  佐塚の対人好感度は減点方式で、一度幻滅するともうほとんど会話を続ける気も起きなくなった。  とはいえ嫌いになったというわけでもない。ただ、うっすらと期待しなくなるだけだ。言葉を投げて、それに応えてもらえるはず、という期待をしなくなる。会話ができるはずという期待をしなくなる。  一応返事はする。仕事だから。  やれと言われたことはやる。仕事だから。  その程度の適当さで社長に接していたものの、今回ばかりはストレートに愚痴が出る。 「ていうかなんでいきなり女性向け作ろう、なんて思ったのかわかんないんですけど、おれが抜擢されたのはもっとわからない」 『いやぁ、うーん、それさぁ、あれじゃないかなぁ。佐塚くんの作品て中出し、ぶっかけ、強制フェラあたりがほとんどないから、女性も見やすくてファン多いんじゃね?』 「……だって中出しに興味ない……」 『きみはそうだろうけど(笑)』  満子の言いたいことは一応頭に入ってくるものの、腑に落ちない。納得できない。  女性向けアダルトビデオ。  勿論存在は知っている。佐塚は業界の動向を一応確認しているし、情報収集癖の強い同僚とも懇意だ。あれこれ喋っている間に耳に入る情報も多い。  そういうモノがあることは勿論知っている。  だが、特別興味があるわけでもないし、中身を視聴したこともない。  何故ならば佐塚は自他共に認める取り返しのつかない程の足フェチであり、基本的に足以外に興味がないからだ。  男性向けのAVでさえその調子なのだから、女性向けなど推して知るべしだ。  どう考えても人選ミスとしか思えない。  女性向けAVを見たことはないが、ネットのアダルトコミック広告の傾向でなんとなく予想はつく。女性向け風俗は基本的には恋愛要素ありきだ。  三十過ぎて伴侶どころか恋人も居ない、その上恋愛そのものにほとんど興味がない。そんな佐塚が女性向け某を制作できるわけがない。  一応己の主張を口にしてみたものの、社長も社長で『きみが適任だ』の一点張りだ。  仕方なくその場は折れたものの、一晩悩んでも企画の内容はさっぱり浮かんでこなかった。  一応ざっくりアダルト動画サイトのランキングを確認し、適当に何本か流し見てみた。  わからない。さっぱりわからない。どうやら女性は男性に優しくされたいらしい……ということくらいしかわからず、どこが視聴者の琴線に響くのか想像もできない。  あまりにもわからな過ぎて、結局佐塚は寝不足の頭のまま同業者である満子にSOSを飛ばした。  話を聞き終えた満子はやはりわははと声を張り上げて笑い、そういうことなら協力してあげよう、と、わざと偉そうに含み笑いを零した。彼女はいつも、尊大な振りの中に優しさを隠すのがうまい。 『まぁね、わからんよね、妙齢女子の性事情なんてねぇー。佐塚くん、恋愛どころか人間に興味ない宇宙人だし』  まるで電話口の満子の声に連動するように、左目の瞼がひくひくと痙攣する。昨日もほとんど徹夜でモザイクかけをしていたし、いい加減身体が休息を求めている。  手持ち無沙汰な状態でベッドの上に居ると、そのまま寝てしまいそうだった。様子見という名目で好奇心を隠さずにかかってきた満子の電話は、佐塚の時間つぶしには最適だ。 「宇宙人は失礼ですよ。一応足も人体の一部だし大分類は『人間』でしょ」 『逆に宇宙人に失礼だと思うくらいだよあたしは。宇宙人は人間の個に興味を示してくれそうだけどね、佐塚くんは足しか見てないじゃん』 「そんなことは……………うーん……」 『わはは! 悩むなよ否定してよ! ほんと面白いなぁきみは~』 「いや、まあ、面白がって笑って流してくれるなら別にいいですけどね……気持ち悪い、は、言われ慣れてるけど、ミツさんに言われたらちょっと悲しい」 『言わないよ~言うかよ~こちとら女に腹パンスカが性癖ど真ん中よ~』 「ミツさん、なんで純愛系女性向けAV作ってんの……?」 『え、会社の方針。そっちの方が売れるから』 「世知辛いー……」 『世の中自分じゃない人間の方が大多数だよ、そんなもんよ。結局「大衆」が強いんだから。まあいいじゃないの、あたしの純愛系女性向けAVのキャリアが佐塚くんの手助けになるかもしんないんだもの』 「本当にこの度は大変お世話になりまして……」 『いやいや、大したことしてない、マジで。あたしがしたのは紹介だけ、あとは佐塚くんの取材力次第よ』 「取材ねぇ……おれ、取材とかしたことないんだけど、大丈夫かなぁ」 『大丈夫、大丈夫。フェティッシュは信頼できるお店だし、今回お願いしたセラピストくんの事もちゃーんとよく知ってるから。イイ子だよ。イケメンだし。女風のセラピストの中だと結構うまい方だし』  女風とは、女性向け風俗店の俗称だ。  女性向の何もかもがわからん助けてほしい、と泣きついた佐塚に対し、満子が紹介したのは『フェティッシュ』という風俗店だった。  いっそプロに聞いてみたらいいじゃん? というあまりにも軽い提案で、本日午後、女性用風俗店『フェティッシュ』のセラピストに会うことになったのだ。  お店には一応、事情をすべて説明したうえで了承を得た。担当してくれるセラピストという人はどう思っているかわからないが、佐塚はもう他に縋れる藁がない。  事前に記入を求められたオーダーシートの質問項目をザっと見ても、あまりにも住む世界が違いすぎて慄いた。  正直なところ、どうにでもなれ的なネタ半分の行動だった。しかしオーダーシートの『してほしい事はありますか?』の項目に『プレイはしなくていいので話を聞いてほしい』『優しくしてほしい』などの回答項目があり、思わず姿勢を正してしまった。  まずい、本当に男性向けの世界とは感覚が違う。  男はエロを目的として消費する。エロいことをして、射精して、気持ちよくなりたい。だから風俗に行くし、AVを見る。女性のエロい体と顔をピックアップしておけば最低限それでいい。映像の技量やシナリオなどにまで言及する視聴者は少ない方だ。  けれど女性にとってのエロとはおそらく、相手と触れ合う手段に近いのだろう。それは愛の一種で、セラピストと過ごす時間すべてが娯楽なのだ。  佐塚は背筋を伸ばし、真剣にオーダーシートに記入し提出した。  できるだけ本当の女性に接するような対応をしてほしい。佐塚の希望するプレイはそれだけだ。  三十三年の人生で、男性と性的な接触を持ったことはない。一応童貞ではないけれど、そもそも女性ともそういう行為をあまりしない。最後に誰かとベッドを共にしたのはいつだろう。十年くらい前だったかもしれない。  普通に撮影で見慣れているので、男性の身体や性器に対する嫌悪感はない。そんなものを意識している余裕があるような現場ではないし、あまりにも身近なもの過ぎてもはや羞恥心も忘れた。  とはいえ、相手がどう思うかは別だ。  満子は気にしないで全部任せて平気だと言うが、担当セラピストのプロフィールには『二十五歳』の文字が並び、佐塚を絶妙に不安にさせる。  二十五歳にとっての三十代など立派なおじさんだ。  佐塚は痩せてはいるし、小汚い外見でもない筈だが、イケメンかと問われると自分でもうーんと首を傾げる。まあ、普通の部類だろう、と思う。  おれを女だと思って! というには無理があるのは百も承知だ。あとはもう二十五歳のプロを信じるしかない。  ゲラゲラと笑う満子との通話を切り、ホテルに備え付けの小さなデジタル時計をじっと見つめる。  午後二時五十五分。約束の時間まであと五分――。  デジタル時計の表示が目に焼き付きそうな感覚を覚え始めた時、佐塚のスマホの通知音が響いた。  事前に連絡先を交換していたセラピストから、『ホテルの部屋の前に着きました』との連絡が届く。時間は三分前。仕事に真面目で、きっちりとした子なのだろう。  一度だけ深呼吸をしてから、ドアを開けに行く。 「……あ、『フェティッシュ』のええとー……ナギサくん?」 「はい。本日はご指名ありがとうございます」 「どうも、佐塚亨です。……とりあえず入って」  ナギサという源氏名の青年は、佐塚が想像していたよりもかなり見目麗しい、すっきりとした男前だった。  細身のパンツとカジュアルなジャケット。前髪は長めだが、きちんとスタイリングしてあるので清潔感がある。鼻筋がすっと通る顔は少々薄味で目がきつめだが、表情全体が柔らかいイメージがあり、怖さよりも端正さが印象づいた。  日本人の平均身長より若干高いか? という佐塚より、十センチ程目線が高い。百八十センチを超えているだろう。それでも圧迫感がないのは、男臭くなくすらりとした立ち姿だからかもしれない。  ……なんか、大陸あたりのアイドルっぽいな。  バイトの子が『推しです!』と見せてきたダンスグループの男性に似ている。なんとなく。どのグループの誰、とかではなく、全体的なイメージの偏見だ。  なんとなく、緊張感が増す。別に相手の顔で態度を変えるようなことはない。イケメンだろうが何だろうがどうでもいいというのは本心だ。ただ、『えーこの子すごいイケメンだから人気なんじゃないのかなぁおれこの子のファンとかに殺されないかなぁ』というどうでも良すぎる不安だ。  いや、不安と言うのならば、彼の方が不安だろう。  普段とは違う、異質で特別な客である。無茶を言っているという自覚もある。せめて誠実に不快感を与えないようにがんばろう。と、久しぶりに緊張感を継続する。  何と言っても佐塚は『宇宙人』である。  いつ不躾なひとことで彼の気分を害してしまうか、わかったものではない。  立ちっぱなしの佐塚に柔らかな笑みを向けた青年は、どうぞ座ってください、とベッドの淵を示した。促され大人しく腰かけると、椅子を移動させた彼が佐塚の右隣あたりに腰を下ろす。 「この度は当店『フェティッシュ』のご利用、ありがとうございます。セラピストのナギサです。海野様のご紹介と伺っていますが――」 「あ、はい。ミツさんに無理を言ってごり押ししてもらいました。本当にすいません、こんな依頼受けてもらって恐縮です」 「いえいえ。確かに変わり種ですけど……でも、オーナーが了承した仕事ですから、僕もきちんと務めさせていただきますよ。どうぞお気遣いなく、リラックスしてください。一般のご利用の際と同じようにサービスにご満足いただけるように頑張ります。ええと……普通に、いつもどおりやっちゃって大丈夫、でしたよね?」 「あ、はい。全然、もう、おれのことは気にしないでというか、無茶だと思うけど二十五歳OLだと思ってもらっていいんで」 「ふ、は! それはちょっと、無茶ですね……!」  あはは、ときれいに笑う。  軽やかな優しい笑い声だ。ナギサは笑うと、少し眉が落ち気味になる。きつい雰囲気の顔がより一層柔らかになり、親しみやすさが増した。 「それに、二十代のお客様は実はあんまりいらっしゃらないですね。ウチの店のみの話になりますが、ご利用される方は三十代から四十代が多いです」 「お。そういう話嬉しい……けど、おれに言っちゃって大丈夫なやつ?」 「個人情報じゃないですから、平気ですよ。オーナーには出来る限りご協力するように、と言われていますし」 「うっわ、申し訳ない……でもありがたいです、うん、ありがとう、いやほんとごめんねこんなおじさんがお客さんの中につっこんできちゃって……」 「三十代はおじさんじゃないですよ。佐塚さん、同い年って言われても僕は疑わないと思う」  ナギサはそう言ってくれるが、三十代はおじさんの入り口だし、同級生は子育てを始めている年代だ。  けれどこのトークも、女性向け風俗特有のリップサービスの一環かもしれない。 「AV監督の人が取材にって言うから、ちょっと身構えちゃってたんです。なんとなくこう……エロいおじさんが来ちゃうのかなーと思って。でも佐塚さん、すごくスマートなお兄さんでびっくりしました。喫茶店とかで読書してそうなカッコよさがあります」  喫茶店にはあまり行かないが、褒めてくれていることはわかる。佐塚の自認がどうあれ、かっこいいお兄さんと言ってくれるナギサの気持ちは嬉しい。悪い気はしない。  男性向けAVで女性を褒めることはあまりない。おっぱい大きいね、などは誉め言葉ではなく言葉責めの一種だ。成程、ナギサの接客は一挙一動が一々参考になる。 「いやおれも、自分で頼んどいてなんだけどどんな人が来るのかなぁってびくびくしてたから、かっこよくて優しい子が来てくれて嬉しい、かな。えーと……じゃあ、あの、今日はよろしくおねがいします」 「あはは。こちらこそ、がんばりますね」  目を細めて笑う。  おっとその顔は今まで一番かわいいな、と、珍しく足以外の部位に好意的な感想を持ったことについて佐塚本人はあまり自覚していなかったし、この後ひどい醜態をさらすことになるとは夢にも思っていなかった。

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