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 どう考えても出来上がっているカップルだった。  昨日の事を反芻するたび、佐塚は何とも言い難い、尻の座りが悪いような気持ちに苛まれる。  後悔しているとか、反省しているとか、そういった意味合いではない。  佐塚はいつも通り自分が思うように行動し、思った事を口にした。その結果、誰がどう見ても両想いの恋人状態が出来上がってしまったというだけである。  さすがに鈍い佐塚でも、『いやぁ、あれは、うん、デキてたよね』と思う。  己の気持ちはさておき、汀は確実に佐塚を求めていた筈だ。何度もキスをねだられ、最終的に汀は佐塚の家に行きたいと言った。もう、誰がどう見てもそういう意志があったに違いない。あの時の汀は『これからあなたとセックスがしたい』という意志を、一切隠していなかった。  結局彼の姉の介入により、予定は崩れてしまったわけだが――あのままデートを続行していたら、普通にセックスになだれ込んでいた自信がある。  佐塚はまだ、汀とセックスをしたことがない。  別にオーラルでもセックスに違いないと思っているが、汀は一度も射精したことがないし、なによりほとんどの場合下着すら脱がない。佐塚が経験した彼との行為はすべてフェティッシュのサービスであり、お互いの身体を愛撫し合うセックスとは別のものだ。  熱っぽい彼の視線を思い出すたびに、落ち着かなくなる。  しかも今晩、佐塚は汀の訪問を快諾していた。となれば、今晩セックスになだれ込むことはもう目に見えている。  たぶん、佐塚は汀の事が好きだ。  いまだに『たぶん』などという言葉を使ってしまう自分が情けないが、恋などというものに縁があるとは思ってもいなかったので仕方がない。佐塚はほとんど恋を知らない。だからこの、甘ったるいようなそわそわとする感情が果たして恋なのか、いまいち判断がつかないだけだ。  かわいいと思う。昨日もずっとかわいかった。かわいいなぁと思ったらキスがしたくなった。なんなら少し興奮した。これはもう、恋と言いきってもいいものだろう。  勘違いでなければ、汀もどうやら佐塚の事を憎からず思っている筈だ。佐塚のことなので『三割くらいは勘違いの可能性が無きにしも非ず』とは思っているものの、嫌われているということは絶対にない。そのくらい、昨日の汀の好意はストレートだった。 (……好きだよって、言っちゃっても、いいのかなぁ)  佐塚の好意は、汀にとって迷惑ではないだろうか。  汀の好意と、同じものなのだろうか。  そんな些細なことに悩んでしまい、そのうえ自分は足フェチの少し変な大人であることも踏まえ、どうにも二の足を踏んでしまう。  朝からそんなことばかり考えていたせいで、見事に仕事に集中できない。  何度もキーボードを打ち間違えるし、普段やらないような凡ミスを繰り返す。  最終的に今日の自分の無能さに苛立ちすぎた佐塚は、すべての作業を中断して飲むヨーグルトを吸いながら天井を眺めていた。 「佐塚ァ、おまえこの前のレンタルスタジオの申請書類出し――っこわ!? え、なに、コダマでも乗り移ったのかよこっわ!?」 「もののけ姫ってもう三十年前の映画なんだってね……ネタが古いって言われちゃうんじゃない……?」 「ジブリは全人類共通の教養だーっつの。つか仕事終わったのか!? うそだろ!?」 「終わってない」 「じゃあなんでさぼってんだよ……」 「終わってないけど、今日はもう無理、みたいな日あるじゃん? それ」 「あー……いやまあ、わからんでもねえけどよ……じゃあ帰れよ」 「待ち合わせの連絡待ち」 「はーーーん。おデートうまく行きやがりましたって訳かァ! まぁな! 辻やんのコーデは完璧だったもんなァ!」 「なんで瀬羽がドヤるのかはわかんないけど、仰る通りだよ。ワックスとか意味あんのかなって思ってました。いまはあのべったりした整髪料に大変感謝しています」 「おうおう、人間の感情覚えて混乱しちまってんのか?」 「言いえて妙……ていうか、あー、うん、そうだね……仰る通りで腹が立ってきたかもしれない……」 「八つ当たりじゃん」  ぎゃははと笑う瀬羽の声が耳に響く。不躾で、少し不快なくらい豪快な彼の笑いはしかし、あの電話口から漏れてきた汀の姉の声と比べると、不思議なくらいに優しく思える。  ――汀は、大丈夫だっただろうか。  明日は夜まで店を開けていると思うので、終わり次第連絡します。そう言った彼と別れたまま、その後連絡は来ていない。  別に普段から毎日やりとりとするような関係ではなかった。佐塚は筆不精な質だし、汀はとにかく毎日忙しい。  昼間に送ったメッセージには、一応既読はついている。たぶん見ているし、生きていることは確実だ。だが、七時を過ぎても汀からの連絡はない。  無図痒いようなそわそわした気持ちに、若干不安が混じり始める。ずるずるとヨーグルトをストローで吸い上げながら見上げた時計は、いつの間にか八時を回っていた。  もう一回連絡入れても大丈夫だろうか。ウザイおっさんだなと呆れられないだろうか。  今までほとんど体験したことのない不安が逐一湧き上がり、だんだんと胃まで重くなってくる。  知らなかった。恋とはかわいくて胃が痛いものらしい。  瀬羽の声を聞き流しながら、相変わらず天井を見ていた佐塚だが、左手で握りしめていたスマホが震えてびくりと正気に戻る。  慌ててメッセージを確認し、首を傾げる。うーん? と唸る佐塚の様子に、聞いていないと知りつつも現場の愚痴を羅列していた瀬羽は一瞬口を噤むと、眉を寄せて口を曲げた。 「んだよ。こえー顔やめろ、機材トラブルか? 女優のドタキャンか?」 「いやプライベートの連絡……えーと、これは、ドタキャンかな」 「やーい振られてやがるってぇガキみてえに囃し立てたいとこだけど、あー……ま、そういう事もあんだろ。俺も予定つかなくてライダー鑑賞会蹴ったことあるしなぁ」  瀬羽の言っていることもわかる。実際佐塚も『撮影が終わらなくて』とリスケをすることもある。  けれどどうにも、汀が心配でならない。  ――ごめんなさい。今日行けません。また連絡します。  彼の文面はそれだけで、普段の行き届きすぎている心遣いや、柔らかな文章とは違い、まるで捻りだしたかのような端的な事実だけだった。  これは、どっちだろう、と佐塚は頭を捻る。  我儘を言ってもいいよ、と佐塚は言った。汀は苦笑のような優しい笑顔で受け入れてくれた――と、佐塚は認識している。  彼のこの行動は、彼の本心なのだろうか。また、我儘を飲み込んでいるのではないだろうか。 「…………瀬羽、ちょっと相談に乗ってほしいんだけど」 「あぁ? なんだよ、恋愛相談は辻やんにしとけよ、俺ァ後輩の惚気を揶揄うのは嫌いじゃねえけど、同僚のレンアイ事情なんざゴジラKOMの人間ドラマパートくらい興味ねえっつの」 「ぜんぜんピンとこない例えしてくる……。辻丸くんこんな時間に連絡したらご迷惑でしょ」 「おまえ、ほんと変なところで絶妙に常識的だよなァ……」 「おれの常識の大半は瀬羽に叩き込まれたヤツだよ。常識の先生としてお伺いしたいんだけど、ドタキャンしてきた相手に『理由を教えてほしいな』ってご連絡チャレンジするのはご迷惑?」 「……なんでそんな普通の事で悩んでんだよおまえ本物の佐塚か……?」 「過去との持続性については自分では証明できないけど、一応入れ替わった自覚はないよ。普通のことがわかんないんだよ、社会性がミジンコだから」 「いや社会性はあんだろ。恋愛初心者なだけだろ。中学生かよって思うけどよ、別に経験がないなら培っていきゃいいだけなんだからそれはそれとして、普通に悩んでる佐塚はきめえな……」 「失礼のハードルなんていくらでも飛び越えていいから答えを教えてほしい」 「あー……いや別に、普通に電話して訊けよ……」 「ご迷惑じゃない?」 「しっらねーよ。ご迷惑だったとしてもゴメンネの一言でどうにかなんだろ信頼関係あんならよー。そこはお互いの関係性の話だろ。大人なら信頼しろ。あとテメェの人間性をもうちっと信じろ、馬鹿正直な佐塚に対して、一々苛つく奴はお前の周りにそもそもとどまらねえよ」 「…………瀬羽さ、大学どこだっけ?」 「は!? なんで大学!? 知らんけど俺ァ地元の静岡だぜ!?」 「そっかー。大学時代に瀬羽に会ってたら、バードウォッチングしなくても自分を見つけられたかもしれないのになぁ」 「俺ァ嫌だぜ二十歳そこそこで宇宙人の世話しなきゃなんねーなんてよ……」 「ふふ。仰る通りだ」  自分はやはり宇宙人で、瀬羽くらいはっきり言ってくれないと困ることが多い。だからやはり汀には、もっと我儘になってほしいと思う。  この先も彼を助けたいと思うから、もっともっと、我儘を言ってくれないと困るのだ。  なんだか微妙にげっそりとした瀬羽は、柊也に呼ばれて自分の作業部屋に帰ってしまった。  誰も居ない職場の一室で、佐塚は電話のアイコンをタップする。たぶん、彼に電話するのは初めてだ。 『…………佐塚さん?』  立て込んでるかなぁ邪魔かなぁと思っていたが、予想に反し汀はすぐに電話をとってくれた。いささかびっくりしている様子だが、怒っている風ではない。だが、微妙にいつもより声が低い。 「あ、ごめんね、急に」 『いえ……僕もその……電話しようか、迷ってたんで、丁度良かったです。ちゃんと謝ったほうがいいと思って……』 「謝る? え、何に……ああ! 今日無理ってやつ? それはあんまり気にしてないから大丈夫なんだけど――いや、違う、待って、気にしてないってのはどうでもいいって意味じゃなくて、きみの予定に合わせるから大丈夫気にしないでっていう意味で」 『大丈夫、わかります。佐塚さんはそう言ってくださるだろうな、って、ちょっと甘えてたから』  良かった。どうやら自分のつたない言葉は問題なく伝わっているらしい。  うだうだと悩んでいたのが嘘のように、気分が徐々に落ち着いてくる。一人であれこれ悩むくらいなら、こうやって本人と話した方がいいのだろう。佐塚がまた一段人間へのステップを踏み出したところで、汀がふと黙り込んだ。  珍しい。彼はいつも、こちらの空気を読んで、何かと話題を提供してくるタイプだ。  そういえば、電話の向こうはやたらと静かだということに気が付く。子供の声も、テレビの音も、何も聞こえない。そのうちにカンカンカン……と甲高い警報音が聞こえた。  線路の遮断機の音だ。  だが汀の家の周辺に、線路は通っていない筈だ。 「……汀くん、いま、何処にいるの?」  唐突に湧き上がる別の不安に、思わず顔が強張る。声も硬くなったのだろう。普通の人間ならば佐塚の微妙な変化になど気づかないだろうがしかし、汀はすぐに察して苦笑する。 『外です。ええと、公園のベンチ。隣に線路が通ってて、その音がちょっとうるさいだけなんで、……飛び込んだりはしないですよ』 「これから誰かと待ち合わせ? お仕事?」 『……いいえ。予定は無いです。実は昨日あのあと、家で色々あって』 「いろいろ」 『…………姉、再婚するんですって』 「え」  思わず、佐塚の息が止まる。  その後に首を捻り、どの言葉が適切なのかと考えて、結局わからず思ったままを垂れ流す。 「あ、そう? ええと、おめでとう、ございます……?」  佐塚のぎこちない反応に、電話口の汀がすこしだけ笑ってくれる。とりあえず泣いていない様子で良かったと思う。 『うん。たぶん、めでたいんです。ちょいちょい、夜に外出するなぁとは思ってたんですけど、まさかデートだったとは知りませんでした』 「いやぁ、シングルマザーの再婚に、特に思うことはないけど、子守を弟に押し付けてデートって、どうなのかなぁ。え、まさかお子さん置いて再婚するの?」 『まさか。三人とも、再婚相手の方の了承を得てきちんと育ててもらえるみたいです。その上、姉の借金もお支払いしてくださるとのことでした。どうも、ちょっといい会社の、いい役柄の人みたいです』 「はー……シンデレラだね。主婦向け無料漫画のあらすじみたい。……ええとじゃあ、あの店は汀くんのものになる?」 『いえ、お店は畳むそうです。実は厨房を任されていた飯山さんと姉はなんというか、そういう関係だったので、彼も辞めるそうで。だからまあ、端的に言うと「再婚して家をたたむから出ていけ」と言われてしまいました』 「…………わぁ……」 『まあ、それ自体はどうでもいいんですけど』  どうでもいいのか。……どうでもいい、と思えてしまうのか。  そこまで自分の不幸に慣れてしまっている青年に、佐塚はかける言葉が見当たらない。迷っているうちに、汀の声が震えだす。 『……本当に、どうでもいいんです。元々、裕福な暮らしじゃなかったし、実家に思い入れもないです。一人暮らしの方がたぶん楽だろうな、と思うくらいですから。……うん、めでたいんです。子供たちも、お金の心配なく学校に行けるだろうし、再婚相手だと言う方は、とても、しっかりした人だったし……でも、じゃあ、僕の三年間ってなんだったんだろうな、と思ってしまって』  汀は必死に働いてきた。文句も言わずにすべて飲み込んで、姉への情と子供たちへの愛情だけで金を稼ぎ、彼らの面倒を見てきた。  彼が家から解放されることは、喜ばしい。  けれど、汀の苦労は、誰にも褒められることはなく、評価されることもなく、ただなかったことにされた。  彼は使われるだけ使われ、そして放り出されたのだ。  おそらく、何の労いも、何の保証もなく、まるで捨てられるように。  ……よくぞ踏切の音を聞きながら、この世に踏みとどまってくれている、と佐塚は思う。思いながら、ハンズフリーにして上着を着こみ、鞄を掴む。 『だから、ごめんなさい、僕は今心に余裕がなくて……佐塚さんと笑ってお話できる気がしなくて、それで、断ってしまいました。来週くらいになれば、きっと、大丈夫なんで、』 「おれには、会いたくない?」 『――会いたい、です。でも、感情が、ぐちゃぐちゃで、わけわかんなくなってるから、駄目です。絶対に、会ったら迷惑かける』 「いいよ別に。我儘言いなよって言ったのはおれだよ。会いたくないなら引き下がるけど、会いたいって言ってもらえるならおれは、そっち行くよ。位置情報送って、迎えに行く」  嫌だと言われれば、家に帰るしかない。祈るような気持ちで汀の返事を待っていた佐塚だが、携帯電話の向こうからは鼻を啜る音と共に『うん』という声が返ってきた。  携帯をポケットにつっこみ、社用車のキーを掴む。瀬羽の明日の予定に買い出し(車A)とあったので、会社を出る前に『ごめん車貸して明日休むかも本当に悪いと思っていますウルトラマンでも仮面ライダーでもゴジラでもなんでも一日付き合います』と叫ぶと、廊下に顔をだした瀬羽に『もってけどろぼー!』と叫ばれた。  瀬羽は本当に気前がいい、というか、人として優しい。柊也が『尊敬する上司』として真っ先に名を上げるだけはある。  社用車Aもとい、少し古い型のワゴンはデート向きではない。  けれど、一刻も早く泣きそうな子を迎えに行く為には、佐塚にとって最適の車だった。

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