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白のワゴン車で迎えに来た佐塚は、『本当に散らかっててごめん』と言って扉を開けてくれた。
「会社の車パクってきちゃったから、ちょっと色々乗ってるけど勘弁してね。乗り心地は悪くはない、と思うけども」
その上ホッカイロと暖かいペットボトルのお茶を渡してくれる。すっかり冷えた指先は痛い程かじかんでいて、少しぬるいお茶の温度がありがたい。
「すいません、こんなところまで、来ていただいて……」
「え? いや別に、本当に全く迷惑じゃないから気にしないでいいよ。おれ、無理な時は無理って言うでしょ? だからね、無理って言わないときは、汀くんは微塵も気にしなくていいんだよ」
確かに佐塚は、嘘をつかない大人だ。
機嫌の良し悪しで相手を怒鳴ったりしないし、無視するようなこともない。察してほしくて心にもない事を言ったり、愛情を試すような言葉を吐いたりもしない。日頃機嫌の安定しない姉や、少々理不尽で面倒な客に振り回されがちな汀にとって、彼の誠実な言葉はとてもありがたかった。
汀は、佐塚の言葉を信頼している。
だから、こんなにも涙が出そうになる。
たった一人でも、自分の為に息せき切ってかけつけてくれる人がいるという事実に、驚く程救われていた。
泣くような事じゃない。
昨日から、何度も自分に言い聞かせている言葉だ。
ちょっと走るから、シートベルトしてね、と佐塚に言われた通りに車は緩やかに走り出す。密室であることの安心感からか、少し泣いた後の脱力感からか、汀の感情は思いのほか凪いでいた。
「……本当なら、喜ぶべきなんだろうなって、頭ではわかってるんですよね。今までの苦労から解放されるわけだから」
ぽつり、と汀が零した言葉に、佐塚はうーんと唸る。
「いや、でも、おれはちょっとどうなのって思ったよ。だってそもそも、お付き合いしてる人の存在すら知らなかったわけでしょ?」
「はぁ、まぁ……でも、僕も別に、姉にそういう話しないですし」
「でもきみだってさ、いざ誰かと結婚して家を出ていきますよって話になったとしたら、ちゃんと相談するでしょう。そんな事後承諾みたいなことされただけでも、『もしかして舐められてる?』っておれは思いそう」
「舐められてる、とは、思います。それは知ってたけど、なんか……そんなに一瞬でどうにかできるなら、僕が背負ってきた苦労って何だったのかなぁ、みたいな……勝手に背負った苦労と言われたら、それはそうなんですけど」
「無償の愛だったわけじゃないでしょう。向こうが手伝えって言って、散々こき使って、子供人質にしてきみの労働力を搾取してたんだよ。そんで自分の問題は解決したからもういらないよって言われたら、そりゃ怒る。怒っていい。おれも怒る」
「……佐塚さんって、怒ることあるんですね」
「あるよ。宇宙人だからね、スイッチは変なとこにあるかもしれないけど、でも普通に喜怒哀楽あるからね。そんでいまおれは怒ってる。きみが蔑ろにされてるから」
鼻の奥がつんと痛くなる。駄目だと思っても涙が溢れてきて、視界がじわりと歪んだ。
鼻をすする汀に、運転席の佐塚は少し慌てた様子で手を伸ばしてティッシュボックスを渡してくれる。
「ええと、誰が乗せたのかわかんないけどうちの備品は基本清潔だから安心してつかって――なんか、ごめんね、本当はきっと、めいいっぱい優しい言葉かけてあげるべきなんだろうけど、全然出てこない。おれが怒ってちゃ駄目だよね」
「いえ……怒ってくれて、嬉しいです。こんなことで勝手に悲しくなってるの、馬鹿みたいだなって思ってたから」
「そんなことないでしょう。なんならもっと泣いてもいいし、怒っていい」
信頼している大人である佐塚が、そう言ってくれる安心感が胸の内を緩やかに満たす。
喉の奥に何かが詰まっているような、もやもやとした苛立ちがあった。怒っていいよ、おれは怒ってるよ、と佐塚が言ってくれるから、そのもやもやを怒りとして消化していいんだな、と安心する。
汀もできれば怒りたい。けれど出てくるのは涙ばかりで、あまりにも心配した佐塚は一度車を停めて手を握ってくれた程だ。
そこでようやく泣きつくした汀は、ふと、周りの景色が見慣れぬ山であることに気が付く。
適当にドライブしているものだとばかり思っていた。しかしいつの間にか車は高速に乗っていたらしく、コンビニかどこかの駐車場だと思っていた場所はよく見るとサービスエリアだ。
「あの……佐塚さん、ここ、どこですか……?」
「え、どこだろう、埼玉? ちょっとどのへんかわかんないけど、たぶんあと一時間くらいで着くと思うから」
「どこに……?」
「星が見えるところ」
さらりと何でもない風に言われ、次の言葉が続けられなくなる。
普段の汀ならさすがに止めただろうが、今はどうでもよかった。佐塚と一緒に居られるのならば、何処でもいいし、何でもいい。いっそ遠くへ行きたいと思っていたので、むしろありがたいくらいだ。
――と、思っていたのだが。
「…………星が見える、ところ……?」
緩やかな夜のドライブの後、汀が車から降ろされた場所は山の上のコテージの前だった。
よくあるキャンプ場の端に密集している小屋ではなく、きちんとした別荘のような家だ。
不安になり振り返った汀と目が合った佐塚は、悪びれもせずに『いやぁ、他に空いてなくて』と零す。
「え、予約したんですか……? 宿泊の……?」
「うん。きみを掻っ攫っちゃおうと思った時に調べて予約入れた。この前色々観光地調べてた時にさ、星が見えるコテージもいいよなーってちょっと見てたんだよね。天の川銀河の旬は夏だから、満天の星空ってわけにはいかないけど、まあ、晴れてるからいっかなぁと思って」
「佐塚さんと、ここで一泊する、ってことです……?」
「うん。昨日はそのつもりだったんじゃないの? あ、気が変わっちゃった……?」
「変わってないです! けど、急にコテージに拉致られてびっくり、してます」
「おれもびっくりしてる。たぶん、なんかこう……遠くに攫わなきゃって思ったのかも。ウチだと汀くん最悪帰っちゃうだろうし」
「本当に拉致られたんですね、僕……」
「うん。ごめん。拉致った。でもあんまり後悔はしてない。……おれの我儘だと思って、明日まで付き合って。あ、フェティッシュの方の仕事あったらごめん、その時間までには解放する」
「ないです、大丈夫。ていうかしばらく断りました、今ちょっと、他人に優しくできないと思うから」
「いいんじゃない? 汀くんはさ、働きすぎでしょ。おれが言うのも何だけど……ちょっとゆっくりしたらいいと思う」
どうやら佐塚もその身一つでここまで来てしまったらしく、チェックインの手続きを済ませた後に『高いコテージで良かった』と苦笑する。
バスとトイレ付で、キッチンもある。その上冷蔵庫の中には酒の瓶が冷えていた。
珈琲とワインどっちが良いかと問われて、悩んでホットワインを選ぶ。
上着は脱がないでいいよと言われたのでそのまま待っていると、湯気の立つマグカップをひとつ手渡され、手を引かれてコテージの外に出た。
澄んだ冷たい空気が鼻先をかすめる。冬の山の冷気は、肌に少し痛い。
コテージの横に添えられたベンチの前には、焚火ができるスペースがあるが、生憎と佐塚も汀も火のつけ方がわからない。寒くてごめんと言う佐塚にマフラーを巻かれながら、暗い方が星もよく視えますよと笑った。
ようやく、少し心に余裕が出てくる。一回泣いてすっきりしたせいかもしれないし、現実離れした非日常感のせいかもしれない。
「ホットワイン用って書いてあったから素直にあっためたけど、ホットワインって甘いんだねぇ」
アルコールの匂いが立ち上るワインは、佐塚の言うように少し甘い。舌がゆるやかにしびれて、飲み下すと少し胃が暖かくなる。
見上げた空には、思いのほかぎっしりと星がひしめいていた。
ここが何処なのか、汀は結局聞いていない。少なくとも都内ではないのだろう。
都心の明かりがない為か、それとも田舎の空気が澄んでいる為か、普段は数える程しか見えない星が、不思議とハッキリと見える。徐々に暗闇に慣れてくると、空は濃淡のついた暗い色の水彩画のようになった。
「おれさぁ、天の川って、本当にそのまま、ひも状のなんかだと思ってたんだよね」
ぽつり、と佐塚が言葉を吐きだす。
「名前が悪いよね。天の川。そんなの細長いなんかだと思うよ」
「え。……違うんですか……?」
「いや宇宙に細長い星の川なんてないでしょう? SF映画とかでさ、『銀河系』とかってよく映るよね? ウルトラマンとかでもあるけど。なんか円盤みたいな状態のやつ」
「はぁ。ありますね」
「銀河って要するに星が密集している場所の事ね。地球とか太陽とかがある銀河の名前が『天の川銀河』。で、銀河って円盤状でしょ? フリスビーとか、どらやきみたいな」
「どらやき……」
「どらやきをさ、スパーンって真ん中で切ったら、断面は細長くなるじゃない?」
「……もしかして、あの天の川って、銀河の断面図……?」
「そう。正解。おれたちは銀河の真ん中から、断面を見てるだけであって、あいつは川じゃなくてどらやきの断面なんだよ」
「は……初めて知りました……」
「わかる。だってそんなのおれは理科の授業でやらなかったし。天の川ってのはさ、ほら、有名じゃん。七夕とかも結構みんなわいわいするし。まさか銀河の断面だとは思わないじゃん。なんかそういうさ、『え、知らなかった、すごい』みたいなのたくさんあってさぁ、そういうの見つけるの楽しくてよく博物館とか行くようになったんだけど、今回も結構似たような体験してる気がする」
今回? と疑問に思ったまま佐塚を見ると、ふと目が合った瞬間に柔らかに眉を落として笑う。
「おれべつに、アウトドアな性格じゃないよ。キャンプ場とか知らないし、行楽もわかんなかった。でも、この前デートの計画立ててるときにさ、あーこれもいいなぁとか、ここも行きたいなぁとか、汀くんに見せたいなー食べさせたいなー一緒に行きたいなぁーってところがたくさんあってさぁ。すごく不思議なくらいにわくわくした。きみと行きたい場所を見つけるの、楽しかったんだよね」
佐塚は汀が好きなふわりとした表情を保ちながら、とんでもない事を言い出す。
何か言葉を返したいのに、胸のあたりでつかえてしまって出てこない。代わりに涙が滲みだす。今日は駄目だ、涙腺が馬鹿になっている。
「おれはまだ全然宇宙人で、知らないことも、知らない感情もたくさんあるよ。でも、きみと一緒に居ると新しい事によく気づく。きみがぼけっと歩いていて段差に躓くだけでもかわいいし、きみが蔑ろにされるのは我慢ならない」
佐塚の言葉は相変わらず突拍子が無く、ほとんど汀には予測できない。けれどだからこそ、空気を読んで適当に口に出した言葉ではなく、彼の本心だと信じることができる。
確かに昨日、あまりにも緊張しすぎていて奥多摩で二回程転んだし、佐塚にぶつかった上に靴を踏んでしまった。そんな残念すぎる自分の所業を『かわいい』と言ってもらえるとは、汀は思ってもみなかった。
格好良くて、しっかりとした『理想の彼氏』を演じ続けてきた。
フェティッシュの客たちは皆、ただセックスの真似事をしたくて金を払っているわけではない。疑似的な恋人を求めていたからだ。
それに汀は、家でも自分の意見を飲み込む計活だった。理不尽な姉の言葉に反論しても、何も益などない。何か失敗をすれば、それだけで姉の機嫌を損ねた。
理想の男、理想の彼氏、そして完璧で口答えしない家族。
それが、汀が演じるべきものだった。ずっと演じてきた。でも今は、そんなことをしなくてもいい。素のままでいいよ、我儘言いなよと言ってくれる人が、隣に居る。
「……そう言う事、言われると、あー…………もーーーー………」
感極まりすぎて、もう逆にわけがわからなくなってくる。
冷たい彼の手を取って、きれいにほほ笑んで告白すべきタイミングだったのに、涙が滲んで恰好がつかない。今日の汀は完璧ではないから仕方ない。とはいえ、さすがに鼻声の自分は格好悪すぎる。
しかも佐塚はポケットティッシュを渡してくれて、楽しそうに笑う。
「あれだよね、素の汀くん、結構感情駄々洩れてていいよね。かわいいー」
「かわい、い、って言うの、やめてください……ときめいて死にそうになる……あー……もう、好き……」
「さらっと言っちゃったね」
「だって、もー、わけわかんないんです感情がごっちゃごちゃで……! 本当はこんな、逃げ場のないとこで僕の感情押し付けるのは良くないってわかってるし、佐塚さんは弱ってる僕を慰めてくださってる立場なのに、こんな、あーーーー」
「いやきみ、わりとおれでもわかるくらい顔に出てたし態度にも出てたけど……?」
「うそぉ……」
「昨日とか。どう見てもセックスしたいですって顔してた」
「っ、いや、あの! 言い訳させてもらうと、僕はあんまり、そういう行為ばっかり考えてる方じゃないんですけど、だって佐塚さんエロいし、好きだし、あんなのお預けすぎてもう我慢の限界で……!」
「いやぁ、プラトニックラブとか言われたら恋愛初心者にハードル高すぎるから、性欲感じてくれてる方がわかりやすくてうれしいよ。おれもセックスしたいし」
「え」
「あ、ごめん、言い忘れてた。たぶんおれ、きみのことが好き」
「たぶん」
この流れでまさかの『たぶん』という言葉に、さすがに涙も鼻水も止まる。というか流れも何もあったもんじゃない。さすがの佐塚だ。場所の雰囲気だけは完璧なのに、どうしてこの人は言いたい事をそのまま口に出してしまうのか。
本当に、そういうところが大好きだ。
「そう、たぶん。いやだって、真面目に人を好きになった経験がないからわっかんないんだよ。だから汀くん、おれとセックスしよう」
「前後の繋がりが、わかんなくて、混乱します……」
「大丈夫、一番おれのことよくわかってる同僚もいつもわけわかんねえから説明しろって言うからそれが普通。説明するとね、たぶん好きなんだけど、二割くらいは友愛かもしれないからセックスしたいって話で……」
「もしかしたら友人としてのライクだから、確認したい、的な……?」
「あ、違う。友愛だったとしたらちょっと一押ししたら愛に転がり落ちる自信あるから、いっそのっぴきならないところまで叩き落としてほしいなぁと思うんだよね。ほら、男ってチョロいでしょ? きみが本気出したらおれなんかいちころだよ。つまりおれは汀くんに落とされたいっていうか――」
「セックスしましょう」
「……ふは。きみ、本当にかわいいね」
どうやら佐塚は、残念でどうしようもなく子供な汀がお好みらしい。完璧でもなければ、理想のスマートな男でもない。年上の男の事が好きすぎて、理性なんて放り投げてしまいそうな汀の事を可愛いと笑うのは、おそらく世界でただ一人、この人だけだ。
「汀くんはさ、もっと堕落したらいいんだよ。ちょっと、完璧すぎるからね。もっとこっちに落ちてきちゃえばいいのにさ」
目を細める佐塚に手を取られ、思いのほか強い力で引き寄せられてキスをする。
冷たい舌がすこし甘い。勢いあまって抱きしめた身体は女子より硬くてしっかりとしていて、相変わらず汀を少し安心させた。
汀はもう、とっくに落ちている。
今は何も考えられなくて、考えたくなくて、ただ目の前の幸運を手放さないために、必死で抱きしめる事しかできなかった。
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