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第2話 ふたりのはじまり

ふたりのはじまり 「あ、あの新谷さん……桐山商事の佐川さんから一時に電話がありまして、商談二時にしてほしいと……」 「……は?」  出先から帰ってきた途端、後輩から言われた言葉に頭が真っ白になる。桐山商事の担当はアナログな人間で、スマートフォンを嫌う。だからいつも会社の方に電話をかけてくるのだ。しかも性格も昭和そのもので、とても横柄な態度を取る人間ときている。そんな人を待たせたらどうなるか、わかったものではない。 「……っ!」  腕時計を見る。時間は一時五十五分。あと五分で資料を集めて会議室を取り直すなんて無理だ。  ──どうすれば、どうすれば。いや、ここで悩んでいても何もならない。どうにかするんだ、動け!  朝陽は急いで資料を印刷し始めた。佐川はデジタルデータも嫌いなので、いちいち印刷してやらないといけない。だから準備には十分に時間を使っていたのに。そもそもデジタルが嫌いな人間にアプリの会社の担当をさせるのはどうかと思うのだが、それは言っても仕方がない。佐川がアプリのことをよくわからずコスパを無視して発注をしているのでこちらもクオリティの高いものを提供できている部分もある。  桐山商事は大口の案件。この契約が切れたら、最悪クビが飛ぶ。そんなことになったら。  ──オレは、終わりだ。駄目だ、絶対そんなの。  朝陽の心臓は、今までにないくらいうるさかった。 「新谷くん、がっかりだよ」  佐川の第一声はそれだった。資料を印刷して場所を取って、待たせたのは十分。できる限りの努力はした。したのだ。最大限がこれなのに。そもそも時間を勝手に早めたのは佐川の方だ。 「君は俺のことよくわかってくれると思っていたんだが……この前の飲み会で言ったよな? 待たされるのが何よりも嫌いだって」 「はい、それは、重々承知しております!」 「桐山商事とそっちの十分の価値は違うんだ。そもそも遅刻なんて社会人としてどうなんだね?」 「申し訳ありません……!」  佐川の言い分はあまりにも勝手だった。だがそれを言えるはずもない。朝陽はひらすら頭を下げる。  ──なんでこんな理不尽なんだよ。オレはできること全部やったのに! 「今日は商談する気も起きんよ。帰らせてもらう。君相手だからわざわざ出向いたのに、全く……」  前回こちらの本社を見てみたいと言い出したのは佐川の方だ。彼はわざとらしくため息を吐いて部屋を出ていく。 「……そちらさんとの契約、考えさせてもらうよ」  その一言で、喉がひゅっと悲鳴を上げた。  震える手でフォルダからデータを探し出す。営業先別の、手土産をまとめたリストを表示させた。朝陽は物覚えが悪いので、手土産のデータを作って何かあればすぐに取り出せるようにしているのだ。  ──まだ、まだだ。誠心誠意謝るポーズを取って、そうすればどうにかなるはずだ。  その中から桐山商事の──佐川の好きな菓子折りを見つけ出し、通販サイトのリンクをクリックする。このサイトは即日配送してくれるはずだ。だがそこに表示されたのは、『たくさんのご注文をいただいており、出荷まで四営業日を要しております』の文字。 「え……」  店があるのは本社から一時間以上離れた場所。しかも長蛇の列ができると有名だ。だからいつも手堅く通販をしてきたのに。謝罪は時間が勝負だ。もし桐山商事へ謝りに行くまでに菓子折りが用意できなかったら? また佐川に社会人失格の烙印を押されてしまったら? そうしたら、今度こそ終わりだ。  身体が震える。息がうまくできない。 「っ、ひ……」  パソコンにロックをかけることも忘れて、何かから逃げるように走り出した。自分の身体に何が起きているのかわからない。走って、走って、走って、走って。人気のないところを求めて辿り着いたのはフロアの隅にある今は使われていないトイレ。 「かひゅっ、ひゅーっ、ひゅーっ……!」  必死に喘ぐ。酸素を取り込みすぎているのに、まだそれでも息を吸う。涙がにじんできて、胸を押さえてうずくまった。  ──おかしい、なんだこれ、息ができない、怖い、なんで? 「ひゅーっ、ひゅーっ、ひゅっ……!」  このままだと死ぬ。そう思った。誰か、誰か。 「……あのー、大丈夫……?」  個室からうかがうような声。鏡を見ると、そこにはタバコを持って扉から顔を覗かせる津島の姿があった。 「っ、は……ひゅ、ひゅっ……」 「新谷!?」  津島が個室から飛び出す。彼は膝をついている朝陽の背中を擦った。 「ひゅ、ひゅ……」  どうしてここに、と言おうとしても言葉にならない。ひゅうひゅうと息が零れていくだけ。 「過呼吸? 待ってな」  津島はそう言ってカーディガンを脱いで朝陽の口と鼻に押し当てた。 「薬とかある? ……ないっぽいな。じゃあゆっくり息吐いて。上手、上手」 「ふーっ、ふーっ……」 「大丈夫、ゆっくり、ゆーっくり。辛かったな。もう大丈夫だから」  津島の言う通りに息を吐いていると、だんだんと呼吸が楽になる。数分もすると、まともに息ができるようになった。 「うん、大丈夫そうだな。じゃあ吸って、吐いて、吸って、吐いて……」 「すー……はー……すー……はー……」 「よくできました。お茶飲む? 飲みさしで悪いけど」  中身が半分くらい減ったペットポトルを渡される。そこではっと気づいた。よりにもよって津島に、パニックになっているところを目撃されるなんて。  ──他人に、こいつに、見られた! 「っ……!」 「あ、おい新谷!」  彼から逃げるように小走りでトイレから出る。先程とは違う焦り。どうすればいい。過呼吸になったことを言いふらされたら。きっと会社内での弱者に転げ落ちてしまう。それより、なにより。あの津島に、弱点を知られた。今まで誰にも弱味なんて見せてこなかったのに。  各フロアにある休憩スペースまで辿り着いて、自分が津島のカーディガンを持ったままだと言うことに気づいた。  返すにはまた顔を合わせなくてはいけない。けれど、デザイン部にカーディガンを返しに行ったらなにがあったのかと噂を立てられるだろう。  「…………どうすればいいんだ……」  朝陽はその場に立ち尽くすしかなかった。    二日後、朝陽はカーディガンの入った紙袋を持ってデザイン部をおとずれた。 「おい津島」 「あ、新谷。もう体調大丈……」 「ちょっと来い。話がある」  後ろで新谷さんが津島さんいじめる気だ……! なんてひそひそ話が聞こえる。そんなことを言っている暇があれば仕事をしろと言いたい。デザイン部は営業部以上に空気が緩い気がする。 「うん、いいよ」  新谷はふにゃりと笑って席を立った。  自動販売機がある休憩スペースのまたその奥、二日前駆け込んだトイレに向かう。誰もいないことを確認してから、朝陽はずいと紙袋を津島に差し出した。 「カーディガン、返す。クリーニングはした」 「え、クリーニングなんてよかったのに」 「汚れたままで返すわけないだろ。……口止め料も入れておいた。オレがあんなふうになってたこと、誰にも口外するなよ」 「俺も隠れてタバコ吸ってたんだから、お互い秘密にしてればいいだけだよ。口止め料なんて」 「オレの気が済まない。……それだけだ。じゃあな」  口止め料は、有名な高級チョコレートだった。昨日帰り道に駅で見つけ、ひとりで食べ切れるであろう量のチョコレートを買った。朝陽は甘いものを食べないので、取引先がごほうびでたまに食べると言っていた、気負いすぎないレベルのものを選んだつもりだ。  これで過呼吸になってしまったことを、津島の優しさごと全て忘れよう。そう思って、足早にトイレを去る。津島は追いかけてこなかった。  津島にカーディガンを返した日、朝陽は退社前に取引先から連絡が来て残業をした。ようやく仕事を終えたころには、誰もフロアに残っていなかった。  人気の少ないビルを出て、駅に行こうとしたその時。 「あ、いた。帰っちゃったのかと思った」  そこには、オータムコートを着た津島がいた。 「つ、しま?」  外はもうすっかり暗く、空気が冷えている。誰を待っているのだろう。 「こんな時間に何してるんだお前」 「ん? 新谷と話がしたくて。新谷は俺と話してるところ、あんまり他の人に見られたくないだろうし、仕事中に関係ない話したくないだろ?」  わざわざ、朝陽を待っていたのだろうか。もしかして、秋の寒空の中ずっと? 「っ……なんの、用だよ」 「お礼言い損ねたから」 「は?」 「カーディガン、わざわざクリーニングまでしてくれてありがとう。あと、俺がタバコ隠れて吸ってたことも内緒にしてくれてありがとう。チョコレートもありがとう。おいしくてひとりで全部食べちゃった」 「な、な……」 何度も繰り返される感謝の言葉に面食らう。ありがとう、なんて、滅多に言われたことがない。 「それでさ、もしよかったらなんだけど」  津島が手を差し伸べる。その手のひらは夜の風に晒されて冷たいであろうことはわかるのに、ひどく温かそうだと思った。 「もうちょっと、新谷と話したいなって思って。……これから、飲み行かない?」  朝陽と仲良くしてこの男にわかりやすい利益が出るとは思えない。だが津島は、一切裏のない笑顔でそう言った。  勝手に待っていたとはいえ、急に冷え込む秋空の下で待たれたことを考えると、断りきれない。  ──こいつ、結構したたかだな。 「…………和食があって、野菜と、肉があるところ、なら」  朝陽には朝陽なりに口にするもののルールがある。もしそれをダメだと言うようならこの男と一緒に食事など摂れない。  「和食ね。野菜って、温野菜? サラダ?」 「何でもいい」 「オッケー、じゃあ行こう」  朝陽は再び差し出された手を無視して、睨みながら早く案内しろと彼を急かした。    

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