4 / 68
第4話 零歩目
零歩目
「じゃあ、頑張らない練習していこうか」
「…………」
津島と酒を飲んでから一週間後の土曜日、朝陽は津島の家に来ていた。『頑張らない練習』──それを行うために。
「なんでお前の家なんだ? カフェとかで良かっただろ」
「人に会話聞かれてるかもって思ったらリラックスできないだろ? ここなら楽にできるから」
「…………わかった、早く始めてくれ」
こんなことしても意味があるとは思えない。けれど、一度やると言ってしまったのだ。早く終わらせていつもの日常に戻りたい。
──こいつ、さっさと飽きてくれないかな。どうせ暇つぶしだろ。
「うん。……本当はさ、ちゃんと心療内科行ったりとか、カウンセリングとか受けたりした方がいいと思うんだけど……」
「……!? そんなの行くわけないだろ!」
そんなところ、心が弱い人間が甘えたくて行く場所だ。朝陽に行く理由なんてない。
「そう言うと思ったんだ。……もしオレが本当に医療の力が必要だって思ったら、引きずってでも連れていくからね」
津島の目は優しいのに、それだけは有無を言わさない真剣さがあった。
「……何でもいいから早くしてくれ」
「じゃあ、まずは俺と手繋ごう」
そう言って津島が手を差し伸べてきた。
「は?」
「人の体温ってリラックスするんだよ、ほら」
「…………」
逡巡して、おずおずと津島の手に手を重ねた。じんわりと伝わってくる温もり。自分よりも津島の方が体温が高いのだと思った。
「うん。じゃあ触ってるところ意識して、俺の言葉、否定しないで聞いてね」
津島は優しい眼差しで朝陽を見つめて、言葉を紡ぐ。
「新谷、偉いね」
「……え」
「いっつも凄いなって思ってたよ。だから、まずは自分のこと、認めてあげて」
「な、何言ってるんだお前……」
──偉い、って、言ったのか、こいつ。
「新谷、一回でも、自分のこと褒めたことある?」
「褒める……?」
「そう。偉いね、よくやったって、言ってあげた?」
「それは……言わない。言わないだろ。だって、努力は、して当然のものだから」
「新谷」
津島が朝陽の手を包み込む。思えば、両親にだってこんな触り方をされたことがなかった。
「当然じゃないよ。努力ってすごいエネルギーを使うんだ。ずっとそれをし続けると疲れちゃう。どうしてもできない人だっているよ。だから新谷、今は頑張らないで、努力しないで。身体の力全部抜いてみて」
「……そんなの……無理だ……」
「どうして?」
だって、頑張らなかったら、誰も朝陽の価値を認めてくれない。朝陽には努力しかないのだ。生まれ持った才能も、津島のような優しさも持ち合わせていないのだから。
「……だって、努力しないオレに、意味なんてないだろ」
ほつりと言葉が零れる。そうだ、努力をしない朝陽には存在意義がない。
「努力して、努力して、努力して。そうすれば、いつかきっと──」
いつかきっと。その後の言葉が出てこない。気がつけば視界が滲んでいた。こんなこと、誰にも言ったこと無かったのに。
だが、そこまで思って気づく。
──努力して、オレはどうしたかったんだろう?
「そっか。新谷は、努力が報われて欲しかったんだね。だから努力しない人も、出来ない人も許せなかったんだ」
「っ…………」
そうだ。だって努力をしないことを認めてしまえば、自分の努力に全て意味がなくなってしまう。だから、だから。
「じゃあ、頑張らない練習よりも先に、こう言うべきだったんだ」
ぽす、と津島の手が朝陽の頭に置かれる。そして、ゆっくり、ゆっくりと髪を撫でた。
「頑張ったね」
「え……」
それは、誰にも言われてこなかった言葉。周囲の人間は、朝陽が努力をするのを自然であると、むしろ好んでしていることだと認識していた。いや、もしかしたら言われていたのかもしれないが、聞こえないふりをしていた。一度でも立ち止まってしまったらもう二度と走れなくなるから。
津島の表情は、幼い子どもを見るそれだった。二十六にもなってそんな目で見られるとは思わず、顔が赤くなる。
「っ、こ、子ども扱い、するな……」
「今の新谷に必要なのは子ども扱いだよ。やったこと褒めて、甘やかされるのが大事なんだ。そしたら、努力してない新谷のことを許してあげられるようになるよ」
そう言って津島は朝陽の頭を撫で続ける。
「いい子、いい子。新谷はいい子だね」
「……何も、してないのに? 今、少しも努力してないぞ……」
「そうだよ、何もしてなくてもいい子だよ。自分はいい子なんだって認めてあげて」
ふわふわの金髪が揺れて、津島が朗らかに微笑む。
「……いい、子……」
生まれて初めての優しさに困惑しながら、朝陽はそれを振り払うことをしなかった。
ともだちにシェアしよう!

