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第5話 息をするということ
息をするということ
「じゃあ今日は、呼吸に焦点当ててみようか」
「……呼吸?」
『練習』を初めて数度目の土曜の昼、日当たりのいい部屋で津島と向かい合った。
「そう、呼吸って実はちゃんとするのが難しくてさ、意識しないとつい浅くなっちゃうんだよ」
彼はそう言いながらいつものように手を握る。
──呼吸なんて、誰に教えられなくてもできるのに。何を言っているんだこいつ。
朝陽は思わず顔をしかめる。だが津島はにっこりと微笑んで、手の力を優しく強めた。
「とりあえず、騙されたと思って、ね? 目閉じて」
「……ん」
言われた通りに目を閉じる。視界が真っ暗になって、少し不安になった。
「まずは大きく息吐いて。はーって」
「……はー……」
肺の中の二酸化炭素を全て吐き出す。津島の上手、という声が聞こえた。
「偉いね。次は吸って」
「すー…………」
「うんうん、その調子。じゃあまた吐いて?」
「はー……」
こんなこと、小学生だってできる。なのに津島は本当に、心の底から朝陽を褒める。吸って、吐いて、吸って、吐いて。それを繰り返していくと、身体から力が抜けていくのがわかった。
強張っていた肩が緩んで、息が楽になる。心が凪いで、朝陽の全てが安らいでいく。
──なんか、気持ちいい。安心、する。
じんわりと、津島と触れている手に意識が集中する。まるで、世界にふたりしかいないような感覚。
それはひどく穏やかで、傷つくことがなくて、朝陽に優しい世界で。
「すー……はー……すー……はー……」
思えば、深呼吸をしたのなどいつぶりだろう。自分の呼吸に意識を割いたことなどなかったかもしれない。ただ息を詰めて、必死に努力して、それしかなかったから。
「ちゃんと深呼吸できてるね、新谷。じゃああと一回、大きく深呼吸しようか」
「……すー…………はー…………」
「よくできました。じゃあ、目開けて」
ゆっくりと目を開ける。そこには穏やかに微笑む津島がいた。
「どう? ちょっと身体軽くない?」
「……ああ……」
確かに先ほどより呼吸がしやすくなった気がする。それに、肩が軽い気も。だが、こんな子どもだましのことで?
「これなら会社で気軽にできるし、いいと思うんだ。誰にも変に思われないしね」
「……確かに、深呼吸ならできるかも……」
「もっとプロの人ならわかりやすく効果でるのかもだけど……俺がやるんじゃこれが限界かな」
津島の大きな手が、そっと朝陽の頭を撫でる。
「よくできたね、いい子」
「いや、こんなの誰でもできる……」
「誰でもできることだからって、誰もがやってるとは限らないんだよ。それができただけで充分なんだ」
「……」
「いい子、いい子。新谷はいい子だよ」
彼の慈愛のこもった声が、自分が本当に『いい子』であると思わせてくる。津島の言葉にはそういう説得力があった。
優しい彼の温もりが、人を許さなかった心に入り込んでくる。自分の変化に惑いながらも、朝陽はどうしてかそれを拒むことができなかった。
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