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第6話 禁断の果実に手を伸ばす勇気

禁断の果実に手を伸ばす勇気    何度目かになる『頑張らない練習』の最中、朝陽の腹がぐう、と鳴ってしまった。今朝あまり食欲がなく朝食を少なくしたのだが、今になって胃が動き始めたらしい。  腹を鳴らしてしまったのが恥ずかしくて、何も言えずに俯く。 「お腹減ったの? 昼にはちょっと早いし……あ、ストックしてあるミニドーナツならあるよ、食べる?」 「いい、いらない」 「お腹空いてたらリラックスできないよ? あ、もしかしてドーナツ苦手?」 「苦手かどうか知らない。そもそも、オレ甘いもの食べたらいけないから」 「? あ、糖質制限とか?」 「そうじゃなくて……家のルールで、甘いもの食べたらいけないんだ。砂糖は摂るなって父さんの教えで」 「え……?」  津島の顔が急に曇ってしまった。なにかおかしなことを言っただろうか。おやつを食べている同い年の子ども達を見て羨ましいと思ったことはあるが、仕方の無いことだったと思っている。 「それって子どもの頃の話、だよね……?」 「いや、今もだけど」 「じゃ、じゃあ、営業先でお菓子貰ったりとか、差し入れで貰ったりとかやつとかは? 結構甘いもの貰う頻度高いよね?」 「捨てるか……出先で食べなくちゃいけない時は、こっそり吐いてた」  本当は食べ物を捨てたくなどなかった。だが家の方針に逆らう方が朝陽にとって恐ろしかった。子どもの頃は大変だったが、今では吐くのにも慣れて指には吐きだこができている。 「お昼と夜の間とか、お腹空いた時とかは? もしかしてずっと我慢してたの?」  こく、と頷く。すると津島は困惑しながら、傷ついた小鳥を手に乗せるように朝陽の頬に触れた。  ──なんで、こんなに、優しく触るんだろう? 「……吐いてたって、いつから?」 「小さい時から。親戚の家で貰った食べ物とか、勝手に食べた物とか全部吐けって言われた。……父さんと母さん、オレに悪いもの食べさせたくなかったんだ。……津島?」  津島の手が震えている。他の家より多少厳しいかもしれないが、両親は朝陽を健やかに育てたい一心で口にするものを制限した。なのに何故、そんなにありえないものを見る目をしているのだろう。 「でも、新谷甘いもの好きだよね?」 「嫌い……ではない。甘い酒好きだし。けど甘い菓子は身体に悪いから……」 「それはあんまりにも食べ過ぎた場合だよ! 毎日のおやつくらいで健康に害なんて出ないよ!」 「けど……」 「食べたもの吐く方が身体に悪いよ。……決めた。新谷、今日は甘いもの食べる練習しよう?」 「えっ……」 「好きなもの食べるのも、自分を許してあげることのひとつだよ。大丈夫、俺が見守ってるから」  そう言って津島は戸棚から個包装の小さなドーナツを取り出した。 「俺のおやつ。これ食べよう」 「っ…………!」  ドーナツ。小麦粉を練った生地を油で揚げて、砂糖をまぶしたもの。父と母が忌避するものの象徴のような菓子だった。けれど、いつまでも営業先で貰った菓子を捨てたり吐いたりする罪悪感に苛まれたくないのもまた事実。  なにより、このおいしそうな菓子を食べてみたい。 「…………」  震える手でドーナツを受け取る。包装を破って、口に含もうとして。 『菓子を食べたのか!? お前は馬鹿になりたいのかっ! あんな身体に悪いものを食べるなど、どれだけ普段気をつけて食事を作らせていると思っている!?』  親戚から貰った菓子を食べてしまったと言った時の父の怒号が響いた。  ──父さんに、怒られる。 「っ…………!」  怖い。甘いものを食べるのが、怖い。食べてみたいのに。 「新谷」  名前を呼ばれて、顔を上げる。津島は慈愛のこもった目で朝陽を見つめて、手本のようにドーナツをひと口食べた。 「おいしいよ、一緒に食べよう」 「…………あ、」  その一言が、頭の中に響く父の怒号を打ち消した。  ──ああ、オレはずっと、誰かと一緒に甘いものを食べたかったんだ。たぶん、子どもの頃から、ずっと。  朝陽は、初めて自分の心の声に気づいた。  はく、とドーナツを食む。砂糖の食感、しっとりした生地。今まで味わえなかった分を取り戻すように、ゆっくりゆっくり咀嚼した。  甘い。とにかく甘い。そして口の中の水分が全て持っていかれる。特別なおいしさはなかった。ただの素朴な菓子の味。けれどそれは、ずっと朝陽が食べたかったものだった。 「っ、ふ、う……!」  おいしい、おいしい、おいしい。初めて自分の意志で食べ物を口にできたような気がした。普段摂るものは両親が食べてはいけないと言っていたものを血眼になって省いて食べて、営業先との飲み会では相手の機嫌を窺って食べて、終わってから吐いていたから。 「うっ……ううっ、うっ……!」  みっともなく涙を零しながらドーナツを食べる。包装が落ちてしまったので手で掴んだ。一口サイズのそれはすぐに食べきってしまい、砂糖に汚れた手だけが残る。 「これ、おいしいけど口の中パサパサになるよね。お茶いる? ……うち、ペットの緑茶しかないんだけどさ」 「っ、う……、い、る……」  涙声で答えると、津島は部屋の隅にある段ボールの中から五百ミリペットボトルの緑茶を取り出して、朝陽に手渡した。 「……あり、がとう……」  口の中を緑茶ですすぐと、ようやく水分が戻ってきた。 「もう一個食べる? さっきのはプレーンだったから、チョコのやつ」  そう言って津島は茶色いミニドーナツを差し出してきた。 「たべ、たい……」 「うん、自分のしたいこと言えて偉いね。いい子いい子」  津島の手が優しく朝陽の頭を撫でる。菓子を食べたいと言ったら褒められるなんて、決して考えられないことだった。 「これからもっとおいしいもの食べよう。なんでも付き合うよ。大丈夫。新谷の食べたいもの、ぜんぶぜーんぶ食べちゃおう」  大きな手が黒色を梳く。その温もりが、菓子を食べられなかった朝陽の全てをすくいあげてくれたような気がした。

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