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第7話 変化

変化   「え、待ってください、納期はまだ先ですよね……?」  営業のデスクに、日浦の焦った声が通った。彼は最近、沢山契約を取れるようになった。それを彼自身の努力の結果だと、本当の意味で考えられるようになったのは津島の影響だ。だが、彼は明らかにうろたえている。 「いえ、こちらは二十五日だと……! リリースが今日って、待ってください林さん、今から日程伸ばせませんか!?」  どうやらトラブルが発生したらしい。今までの朝陽ならば自己責任と放っていただろう。だが。 『新谷は優しい人だよ。俺、よく知ってるんだ』  津島の言葉を、裏切りたくないと思った。 「こちらは二十五日納期で動いています、この前お見せしたのはあくまでテスト用で、アプリはまだ完全じゃなくて……!」  電話から怒号が飛ぶ。『とにかく今すぐ納品してください!』と怒鳴られて、通話は切られた。 「日浦、何があった」 「あ、新谷さん……!」  青かった日浦の顔がもっと青くなる。先方との情報共有ができていなかったのは彼の失態だが、それを努力不足となじっても、何にもならない。いや、日浦は段取りこそ悪いが、ひとりひとりのクライアントの顔をしっかりと覚え、コミュニケーションを欠かしていなかった。彼を努力不足だと言うのは、違う気がしたし、努力でどうにもならないことだってある。 「そ、その……すみませ、」 「謝らなくていい。先方のアプリリリース日に納品が間に合っていないのか? どこの案件だ?」 「は、はい……。ミウラ工務さんです。テンプレートの顧客管理のアプリなんですけど……」 「データオレに共有してくれ。開発チームにどれくらいでリリースできるか聞いてみたほうがいい」 「え、あ……?」  日浦がぽかんと口を開けている。彼だけではない。営業の全員が、日浦を怒らずに手助けしようとしている朝陽に驚いていた。 「ぼさっとするな! 早くしろ!」 「は、はいっ!」  彼を助ける義理はない。けれど、困っている時に、誰かに手を差し伸べられる安心を、朝陽は知ってしまったから。  ──多分、津島ならこうする。オレがこんなことしても、今更って思われるかもしれないけど。  日浦は急いでパソコンを操作して朝陽に遠方のデータを送ってくる。それらに目を通して、どのような案件であるかを確認した。 「大体わかった。やっぱり開発チームに頭下げてこい。向こうが間違ってないって思ってるなら今納期変更は難しい。オレはデザインのほうに進捗確認してくる」 「し、新谷さん……」 「泣きそうな顔するな」  こんな時、津島なら何と言うだろうか。きっと、責めずに、現状を前に進めてくれる言葉を投げるはずだ。 「大丈夫だから」  大丈夫。それは、彼がくれた魔法の言葉だった。  朝陽は早足でデザイン部へ向かう。まだ取り返せるはずだと、自分らしからぬポジティブな嗜好を持ちながら。 「……日浦さんの納期の確認ミスで、納品を早めてほしいってことですか」 「ああ」  朝陽と津島の同期であり、今回の仕事の担当だという久米の言葉に頷く。彼女は朝陽を見て、はあとため息をついた。 「そんな急に言われても困ります。こっちにだってスケジュールがあるんですから。それに大元の開発ができてないとこっちだってデザイン調整できませんよ」 「今確認してもらったら八割方は出来ているそうだ。開発チームの確認が終わり次第デザイン調整してほしいんだ」 「……簡単に言いますけどね、そっちのミスをどうしてこっちが被らないといけないんですか? ていうか、何で新谷さんが来るんですか。日浦さんの担当なんだから、日浦さんが来るべきじゃないんですか?」 「……あいつは開発チームの方に行かせてる。それと、先方とのスケジュール調整もしてるから、オレが代理でこっちに来たんだ」  久米はまた大きく息を吐いた。朝陽と彼女は仲がいいわけではない。急に無理な頼みごとをしたって聞いてくれるわけがない。 「……無理です。私ももう一個納品近い案件あるので。日浦さんには悪いですけど──」 「頼む」  朝陽は深く頭を下げた。日浦は複数の仕事を抱えている。ひとつの仕事が遅れれば、それだけでキャパシティオーバーになるだろう。そうなれば多数の仕事でミスが連発するかもしれない。ここで納品を早めてもらうのが、最善の策だった。 「無理なことを頼んでるのは承知の上だ。でも、助けてくれないか」  助けてほしい、なんて初めて口に出した。朝陽の願いにデザイン部がざわつく。冷徹で無情な『鬼』と言われていた男が頭を下げて、人に助けを請うなんて思わなかったのだろう。 「ちょ、は……!?」  久米の焦った声が届く。きっとここで誰かを頼っても、その誰かに責められることはないのだと、そう思えた。だから朝陽は素直に言葉を紡げたのだ。 「あ、頭下げられても困ります……! 私ひとりじゃ今日中は無理ですって……!」 「じゃあ俺が手伝うよ。それなら間に合うんじゃない?」  ひょこ、と久米の後ろから津島が顔を出す。 「津島さん!?」 「ちょうどさっき納品終わってさ、手持無沙汰なんだ。だから手伝えるよ。俺と久米さんがやればすぐに終わると思うなあ」 「津島……」  津島の優しい笑顔は、久米に刺さったらしい。彼女は頭を上げてくださいと言ってくれた。 「……パソコンに張り付くので、差し入れお願いします。それくらいはしてもらわないと」 「ああ、いくらでも」 「津島さん、データ共有します」 「ありがとう、じゃあ新谷、栄養ドリンクと、おにぎりとサンドイッチと、ラムネ買ってきてくれない? パシリさせちゃって悪いけど」 「いや、大丈夫だ、行ってくる」  久米がデスクに座る。会社近くのコンビニに行こうと足を向けると、後ろから優しく肩を叩かれた。そして、周囲に聞こえない小声で囁かれる。 「ちゃんと助けてって言えたね。いい子」 「…………!」  その言葉が、胸に沁みていく。津島に褒められたことが嬉しい。頭を下げるなんて今までの自分ではありえないことをしたのに、じんわりと身体があたたかくなっていく。  ──こいつ、なんでいつも、こんなに優しいんだろう。 「……っ」  誉められたのが嬉しくて、誇らしくて。どうしてか朝陽の視界はほんの少しだけ滲んでいた。

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