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第11話 初めての恋の果て
初めての恋の果て
失恋をしてから初めての土曜日、練習を終わらせるべきだとわかっていたが、最後に一度だけ、津島に触れて欲しいと思った。初めての恋の思い出を、体温を、心に刻み付けたい。
その日は、津島の都合で昼ではなく、夜に練習をすることになった。
「じゃあ練習しようか。新谷、おいで」
練習の段階は進んでいき、今は自発的に人に甘える段階だった。津島が両手を広げて、朝陽を導く。
「…………」
最後。これで、終わり。もう二度と津島に触れることはない。ただの知り合いに戻って、それで、それで。
「新谷? どうしたの?」
「……何でもない」
ぎゅう、と津島に抱きつく。すると彼はふ、と微笑んで、優しく朝陽の頭を撫でた。
「うん、よく甘えられたね。いい子いい子」
穏やかな声が耳に届く。もっと甘えたい。この男に許されたい。愛されたい。特別になりたい。
けれど────。
『ないない。津島さんは『菩薩』だよ? 全人類に平等に優しいの』
『ま、それもそっかあ……でも津島さんのこと好きな人は多いと思うけどなあ』
『勘違いする輩は絶対にいるよねー』
『あーあ、津島さんにひたすら甘やかされたーい。恋人になりたーい』
「っ…………!」
朝陽は特別ではない。きっと津島は、他の誰かが求めたら、同じように抱き締めて、『いい子』と褒めて。
そして、津島の優しさは消費されていく。見返りもなく、ただひたすらに、食いつぶされていく。
津島ひとりが、救われないままで。
そんなことあってはならないと思っているのに、この世で一番津島を消費しているのは、まぎれもなく朝陽だった。
最低だ、最低だ、最低だ、最低だ。こんな恋は、存在してはいけないのに。
それでも尚、朝陽は赦しを、津島を求めていた。
──駄目だ、絶対、駄目なのに!
──なんで、なんでオレは、もっと抱き締めて欲しいって、思ってるんだ!
「っ、う、っ……! ぅ……! うぁ、あぁ……!」
嗚咽が漏れる。ただひたすら悲しかった。自分が最低な人間であることも、初めての恋が叶わないことも、津島が浪費されることも。
「新谷……?」
急に泣き出した朝陽を見て、津島が狼狽える。
「どうしたの? 悲しいことあったの? 触られるの、嫌だった?」
津島がまた朝陽を撫でる。その手が自分以外も撫でるのかもしれないと考えるだけで、胸が痛んだ。
「ぁあ、うぁあああああっ……!」
泣きながら津島を突き飛ばす。どうして、どうして、どうして。この優しさを覚えなければ、こんな痛みも知らずにいられたのに。
「お、お前が優しいの、オレ、だけじゃ、ないのに……!」
「新谷……」
「勘違い、して、好きになった……! もっと、触ってほしいって、甘やかしてほしいって、ずるいこと考えたっ……!」
許されない。結局朝陽は津島に優しくされるその他大勢と変わりなかった。それを特別だと、勝手に思い込んで勝手に好きになった。
「お前が、オレにだけ、特別に優しくしてくれてるんだって、思い上がって……! 部屋に呼んだのだって、オレだけとか、そういうの、他のやつらにもやってるって、わかってるのに……!」
「新谷、」
「最低だって、思っただろ……!? ちょっと大事にされただけで、ホイホイ好きになって……! お前はオレに優しくしてくれたのに、オレはっ……!」
嬉しかった。初めて、赦されてもいいのかもしれないと思えた。努力をしていない、ありのままの自分を、認めてもいいのだと。そうわからせてくれたのに、朝陽は、津島に劣情を抱いたのだ。
許さない。これは津島の優しさに対する裏切りだ。やはり朝陽は優しい人間などではなかった。本当に優しいのなら、好意を正しく受け取って、津島が望むように友人関係を保ったはずだ。
「こんな、オレなんかに好きになられて、搾取されてっ……」
津島がかわいそうだ。彼の優しさが報われないのは嫌だった。それなのに、こんな。
「っ……! ぅ、っ、ひ、っく……!」
ぼろぼろと涙が頬を伝う。彼に伝えてしまった以上、もう友人にすら戻れない。
「もう、練習やめるっ……! お前と一緒になんていられない! オレにそんな価値、なかったんだ!」
朝陽は弱い人間だ。彼から拒絶の言葉を聞きたくない。だから、津島から逃げるしかなかった。
だが、立ち上がって一歩踏み出したところで、後ろから強く抱き締められた。
「っ、離せ……!」
「──特別に優しくしてるって、気づいてくれてた?」
いつもと声が違う。津島の音は、愛おしさを孕んでいた。
「……え……?」
「新谷は特別。言ったじゃん、俺はそんなに優しい人間じゃないって。いくら仲いいからって、お前以外の人抱き締めたりしないよ」
「っ……わけが、わからない……なんで……」
「好きな子、特別扱いしちゃだめ?」
耳を疑った。好きな子? 誰が?
「好き、って、」
「うん、好きだよ、新谷。お前のこと大切にするから、付き合ってください」
「は……」
──今、 なんて。
信じられない。どうして、朝陽のような人間のことを、津島が。
「っ、嘘、つくな……! オレのこと憐れんで嘘ついてるんだろ!?」
津島は優しい男だ。必要なら嘘だってつくだろう。だがそんな憐憫は惨めだった。
朝陽は腕の中で必死に身体を動かす。すっかりと心に刻み込まれてしまった体温に溺れてしまう前に逃げたかった。
しかし、津島は抵抗する朝陽の顎を優しく掴んで後ろを向かせた。そして津島の好意を否定し続ける唇を、唇で塞ぐ。
「んっ……!?」
柔らかな熱。キスをされているという事実に固まっていると、彼は口づけをいっそう深くした。角度を変えて、何度も、何度も唇を食む。
「ん、んんっ……!」
粘膜が触れているだけなのに心臓がうるさい。朝陽は恋人を作ったことがない。なのでこれが正真正銘ファーストキスだ。それを、人生で初めて好きになった津島としている。まるで少女漫画のような状況に、脳味噌がついていかなかった。
何もできずにキスを受け止めていると、やがて唇がゆっくりと離れた。
「……俺、好きでもない人にキスできないよ。わかってくれた?」
「……ぁ、う……」
顔が熱い。はくはくと魚のように酸素を求める。
──まさか本当に? こいつが、オレのことを好き?
「好きだよ、……朝陽」
耳元で名前を呼ばれる。吐息が耳に当たってくすぐったかったけれど、そんなことは気にならなかった。
「な、なまえ、」
「朝陽も名前で呼んで。恋人同士になるんだから」
恋人。朝陽と、津島が。一生自分には縁がないと思っていた甘やかな関係を、この優しい男と始める。
それは朝陽の人生を大きく塗り替える出来事になるということだけはわかった。
「い、いち、ろう……?」
朝陽のおどおどとした声は、水に溶けた砂糖のようだった。
「うん」
「いちろう……」
津島の──一郎の名前を呼ぶ。繰り返し、確かめるように。
「いい子だね、朝陽」
そうして、またキスが降り注ぐ。
「っ、いちろ」
「朝陽、かわいい」
「かわ……!?」
生まれてこの方、そんなことを言われたことがない。顔を真っ赤にすると、一郎の手が朝陽の頬を愛おしげに撫でた。
「うん、かわいい。たくさん俺に甘えて。こんなに甘やかすのは、朝陽だけだよ」
「いちろう…………いち、ろう……」
「うん、もっと呼んで、朝陽」
蜜の如き声が、朝陽をどろどろに溶かしていく。朝陽にだけ特別に優しい男の腕の中で、朝陽はゆっくりと目を閉じた。
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