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第13話 踏み出す一歩

踏み出す一歩    一郎と付き合うようになってから、土曜日はデートをするのが習慣になった。  コミュニケーション能力の高い彼のことだから色々なところに連れ出すのかと思ったが、予想に反して家でのデートが多かった。頑張らない練習をして、一郎の作った料理を食べて、色んな話をして、おやつを食べて、夜は居酒屋で飲んで、また一郎の家に戻ってひとつのベッドで眠る。そんな穏やかなデートを繰り返している。  付き合って一ヶ月、一郎の家で彼に後ろから抱き締められていると、朝陽のスマートフォンが通知音を鳴らした。 「あ……悪い」  一度彼の腕から抜け出してスマートフォンを見ると、動画サイトの通知が届いていた。 「誰かから連絡?」 「いや、動画サイト。好きなアーティストのMVがもうすぐ公開になるって通知来た」  好きだと思えるものを増やしてみようというのは一郎の提案だった。だから前々から気になっていた音楽を知りたくて、朝陽は動画サイトのおすすめに流れてきたアーティストを見ては気に入ったチャンネルを登録するを繰り返していた。MVを出すというアーティストはその中でも一番好きな人たちで、先出しされたトレーラーはとても朝陽の好みに合っていた。 「一郎、その……MV、見てもいいか?」  恋人を放って動画を見るなど行儀が悪いことだとわかっている。だが、好きになってから初めての新曲だ。どうしても見たい。 「もちろん。俺も一緒に見ていい?」 「……うん」  朝陽は一郎にも画面を見せる。公開までのカウントダウンの数字はあと五分を指していた。 「ねえ、どんなアーティストなの?」 「作詞作曲してる人と歌ってる人のふたり組なんだ。元々ふたりともネットで活動してたらしくて、その頃の動画も好きで──」  気になって調べた情報を一郎に伝える。彼は朝陽を愛おしげに見つめながら、相槌を打ってくれた。  家では音楽番組など見れなかった。つけられているのはいつもニュースで、音楽プレイヤーを持つなんて考えもしなかったから、朝陽は同じ世代の人間に比べて音楽というものに疎かった。  だから、好きなものを作ろうと言われて、初めて自分の意志で音楽に触れた時には感動した。イヤホンも買って、通勤時間も音楽を聴くようになった。  朝陽は好きなものを一郎に伝えたくて、彼の顔を見ながらアーティストのことを話す。 「オレは『いつかの』って曲が好きなんだ。恋人との過去を振り返る歌なんだけど……」 「ふふ、朝陽、そろそろ始まるよ?」 「え? あっ」  カウントダウンは十秒前を示していた。急いで画面に視線を戻す。  動画が始まる。ピアノのイントロが始まって、透き通るような女性の歌が紡がれた。 『どうして貴方に会えないのでしょうか。私が咎人だからです。手を取る資格がなかったのです。恋をしたのが罪でした────』  許されない恋が鈴のような音で奏でられる。MVは虚空に手を伸ばし微笑んでいる男性を映していた。  ──これも、いいな。この人たちの歌、本当に綺麗だ……。  一郎に許されない恋をしていると思っていた朝陽には、とても共感のできる歌だった。心の柔らかいところにじわりじわりと沁み込んできて、ずっと聴いていたくなる。 『それでも貴方は、私を許すのでしょう────』  画面の中で、女性の手が男性の頬を撫でる。それで、映像は終わった。 「いい歌だったね」 「うん……今までの中で一番好きかもしれない」 「俺も後でもう一回聴きたいな。URL送ってくれる?」 「! 他のおすすめも送っていいか!?」 「もちろん。朝陽がいいなって思ったもの、知りたい」  嬉しい。好きな人と素敵だと思ったものを共有できるのが、こんなにも胸が弾むことだなんて。  朝陽はアーティストのMVをいくつか一郎に送った。そして、アーティストの公式サイトも送ろうとしてトップ画面のお知らせに目が行く。 「あ……」  そうだ、このアーティストのライブのチケットがもうじき販売開始するのだ。きっとこの新曲も披露するのだろう。素直な気持ちを吐露すれば、行ってみたい。できることなら、一郎と。 「い、いちろう」  それはほとんど勢いだった。腕の中で彼に向き合って真っすぐ鳶色を見る。 「ん? どうしたの?」 「その、ライブ、やるらしいんだ。チケット取れるかわからないけど……」  デートの提案をするのは初めてだった。声が震えて恥ずかしい。けれど必死に、一郎の服を掴んで言葉を紡いだ。 「一緒に、行ってみたい……駄目か?」  朝陽の願いに、一郎は嬉しそうに微笑んで額に口づけを落とした。 「うん、一緒に行こう」  一郎は悩むことなく応えてくれた。彼にだって予定があるだろうに。 「日程聞かないのか?」 「無理やりにでも開けるよ。朝陽とのデートだもん」  一郎はそう言いながら朝陽にキスの雨を降らしていく。耳や頬に唇が触れてくすぐったい。 「いちろ、くすぐった……」 「俺とデートしたいって思ってくれたの、すっごく嬉しい。朝陽、大好きだよ」  最後にちゅ、と唇同士が触れる。好きな人と、好きなものが溢れた空間に行ける。それはひどく幸福なことなのだと、甘やかなキスに溺れながら朝陽は心に刻み付けた。 『────ありがとうございました』  ボーカルが頭を下げる。アンコールが終わり、ふたりがはけていった。本日の公演は終了しました、とアナウンスが流れる。会場から出なければと思うのに、身体は動かなかった。  肌に響く音。その場で紡がれるメロディーと声。それに聴き入るたくさんの人たち。知らなかった。こんな世界があったなんて。心がびりびりと震えて、感動が収まらない。  特にアンコールは朝陽の一番好きな新曲だった。生で聴けたことが嬉しくて、さっきから涙が止まらない。 「すごかったね」 「うん……」  ごしごしと涙の痕を擦ると、朝陽が赤くなるよ、その手を止めた。 「グッズ買って帰りたくなっちゃったな。いい?」 「あ、オレも買いたい……」  確かまだ事後物販があったはずだ。同じように熱に浮かされた観客たちがグッズを求めて列をなす。朝陽と一郎はそれの最後尾に並んで、グッズ一覧を見ると、CDの先行予約もできると書いてあった。 「……CD,買おうかな……」  ぽつり、と言葉が漏れた。だが言ってから気づく。朝陽の家にCDを再生する機械はない。買っても無駄だ。 「あ、いや、やっぱいい……再生できないし」 「最近はパソコンに読み込ませてスマホにデータ入れられるよ」 「え……」 「お次お並びの方、どうぞー」 「ほら、行っておいで」  一郎にぽん、と背中を押される。愛想のいいスタッフにCDの予約を頼むと、用紙を渡されて名前や住所を書いた。先に金を払っておけば、CDが自宅に届くらしい。 「ではこちら控えになります」  手渡された紙を震えながら受け取る。人生で初めて、自分のために買い物をしたような気がする。  物販を抜けると、一郎が少し離れたところで待ってくれていた。 「買えた?」 「三か月後に届くって。……すごく、楽しみ」 「よかった。じゃあ、はいこれ」  そう言って一郎はアクリルキーホルダーを朝陽の手にのせた。 「おそろい。今日の記念にしよ」  歌詞の一節とMVのワンシーンが描かれたそれは、芸術作品のように綺麗だ。だがそれ以上に、一郎が朝陽にプレゼントしてくれたのが嬉しい。 「お揃い、とか……カップル、みたいだ」  キーホルダーを握り締めて呟くと、一郎が朝陽の肩を愛おしげに抱いた。 「カップルだよ。できたてのラブラブカップル」 「ちょ、ここ外……!」  外の冷気に触れていたはずの肌が一気に熱くなる。だが、周りを見回しても朝陽たちのことを気にする人はいなかった。 「ごめん、ちゃんとしたデート初めてだから、浮かれてるみたい」  ふにゃりと笑った一郎の顔をかわいいと思ってしまって、朝陽は照れ隠しに彼の頬を軽くつねった。

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