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第18話 新しい君
新しい君
「最近新谷さん、丸くなったっていうか、柔らかくなりましたよね」
金曜日。社内ルールである『おやつ休憩』という名目の十五分休憩の最中に、日浦がそんなことを言ってきた。このおやつ休憩は部署ごとに時間が決まっていて、営業は夕方四時だった。
「……は?」
朝陽は羊羹を食べる手を止めた。
──いきなり何を言い出すんだ、この後輩は。
「だって、前は十五分休憩の時も給料発生してるからって休まなかったし、おやつとか食べなかったじゃないですか」
「…………」
それはその通りだ。一郎との『練習』の影響で、朝陽は少しずつ力を抜くことを覚えた。適度な当分摂取と休憩は効率を上げることを学び、素直に休むことにしたのだ。
「……別に」
「あと、仕事中も優しいですし……前はミスがあるとどうしてミスしたって言ってたのに、最近は次間違えるなって言ってくれますし……」
「……間違ったこと責めても意味がないって思っただけだ。それより同じミスしないことの方が大事だろ」
「そこですよ。前はそんなこと言う人じゃなかったです」
「なあに、何の話~?」
話に入ってきたのは朝陽の上司である村尾だった。
「あ、村尾さん。新谷さんが柔らかくなったって話です」
「ほほう、そこを突っ込んでしまうかね日浦くん。確かに新谷くんは最近一気に雰囲気が変わったからねえ」
「……少し、考えを改めただけです」
そう言いながら、全て羊羹を食べきった。一郎と共にいることで、自分の価値観がどれだけ狭いものであったか思い知らされる。とてもひどいことをしてきたという自覚も生まれた。彼が気づかせてくれたことを、無駄にしたくないだけだ。
「それができる人間は少ないんだよ、大いに誇りたまえ」
村尾がぽん、と朝陽の肩を叩く。そして朝陽の手にチョコレートをひとつ乗せてきた。
「で、どんな子?」
「……は?」
村尾の顔がにまあ、と歪む。元から狐のような顔だが、より一層人を化かしそうだ。
「この美知お姉さんの目はごまかせないぞう? いい人ができたんだろ~? あの『鬼』を柔らか~くしちゃう人がどんな人なのか、興味あるなあ」
「……!」
ぴし、と身体が固まる。彼女は朝陽の変化が他者に影響されたものからきていると気付いていた。まさかバレるなんて。
「えっ!? 新谷さん彼女できたんですか!?」
「っ、馬鹿、声が大きい!」
フロアに響き渡るくらいの大声を出した日浦の口を思わず塞ぐ。周囲の視線が痛い。
「ほらほら、さっさと恋人のことを吐いてしまいたまえよ~。今言わなくても今度の忘年会でべろべろに酔わせて吐かせるけどなあ~」
「パワハラとアルハラです! 訴えますよ!」
「いいじゃないですか、教えてくださいよ!」
手をわきわきと動かす村尾に、目をきらきらさせている日浦。ふたりに圧をかけられて逃げ場はどこにもなかった。
「お名前は?」
「言いません!」
「はい、いるの確定」
「ッ!」
──しまった、ハメられた!
誘導尋問されたと気付いたときにはもう遅かった。朝陽の顔が羞恥に染まる。
「いつから付き合ってるんですか!?」
「言うわけないだろ!」
「恋人の可愛いところは~?」
「言いません! いい加減にしてください、もう休憩終わりますよ!?」
「いや~でもさあ、こんな楽しい話途中で止められないでしょ。情報吐かない限り上司権限で仕事に戻らせないよ~? 今急ぎの案件ないのわかってるからね」
日浦は苦手なおちゃらけたタイプだが、仕事は誰よりもできる。部下の仕事の進捗管理も完璧だ。
「ぐっ……本当に訴えますよ……!」
「新谷さんお願いします! 俺気になって仕事に手つかないです!」
「じゃあ詳細なプロフィールはいいからさ、どんな雰囲気の子なのかとか教えてよ~」
「ふ、雰囲気……?」
「そう、言葉にするとどんな子?」
雰囲気だけならば、一郎を特定されることもないだろう。朝陽はなるべく彼をうまく言い表せる言葉を探した。
一郎は柔らかな空気を纏っていて、優しくて──。
「あったかくて、ふわふわしてる……」
彼の体温と金の癖っ毛を思い出して、ぽつりと言葉が漏れた。彼に抱き締められていると陽だまりの中にいる気分になるし、髪の毛をくしゃくしゃにすると嬉しそうに笑うのが本当に愛らしいのだ。
「癒し系ってことですか!?」
「癒し……まあ、一緒にいたら安心はする……」
「へえ~! 新谷さんのイメージとはちょっと違いました! 仕事できる系のキャリアウーマンかと! タイプだったんですか?」
「タイプかどうか知らない。そもそも恋愛したことなかったから」
「へー! じゃあ初恋なんですね!」
「いいねえいいねえ、もっと聞かせておくれ~!」
「っ、もういいでしょう! 充分喋りました!」
「いやあここまで聞いたら馴れ初めも聞きたいっていうか」
村尾が朝陽の両肩に手を置く。これ以上は相手が一郎が相手だとバレてしまう。どうにか逃げなければ。そう思った時だった。
「すみません、村尾さんいますか?」
柔らかな声が耳に届く。そこにはタブレットを持った一郎がいた。
「おお津島くん。どうしたの?」
「ちょっと仕様を確認したくて……って、お休み中でしたか?」
「うん、おやつ休憩~」
「津島さん、新谷さんに彼女がいるって知ってましたか!?」
一郎に懐いている日浦が彼に余計なことを吹き込む。
「っ、日浦!」
「新谷さんの雰囲気が丸くなったの、その人の影響らしいです! あったかくてふわふわした癒し系らしいですよ! どんな人なのか気になりますよね!」
日浦の目の前にいるその男こそが朝陽の恋人なのだが。日浦はそんなことを知りもせずに言葉を紡ぐ。
「……日浦くん、あんまり新谷のこと困らせちゃ駄目だよ。日浦くんだってプライベートを急に聞かれたらびっくりするでしょ?」
「あ……す、すみません!」
日浦はようやく自分の暴走に気づいたらしい。これでようやく解放される。そうほっと一息ついた時だった。
「でもそうだなあ、きっと新谷の好きな人は、新谷のことすっごくすっごく好きだと思うな。そんな気がする」
ふ、と一郎が微笑む。今のは一郎が朝陽のことをとても深く想っているというメッセージだ。公衆の面前でそんなことを言われて、顔がかあっと赤くなった。
「っ、ば……!」
思わず馬鹿、と言いそうになったが、ここで彼を叱れば周囲から謎がられるだろう。
「~~っ、お前に言われなくても、そんなことわかってる!」
言ってから気づいた。もしかして今、とんでもない惚気を言ってしまったのではないだろうか。一郎はきょとんと驚いていて、日浦と村尾は心底楽しそうだ。
「……いいから、早く仕事しろ!」
「はあい。新谷も仕事頑張って」
一郎はにこにこと笑って、怒る朝陽に優しい言葉をかける。
「……ふぅ~ん……? ねね、津島くん」
「あ、はい」
「可愛い新谷くんのこと、大事にしなよ?」
「!」
にやりと笑って小声でそう言う村尾に、朝陽は気づかないままだった。
「ただいまー……」
朝陽は一郎の家の鍵を開けて、誰もいない部屋に向かってそう呟いた。今日は一郎と宅飲みをする約束だ。一郎からは少し残業をするから先に帰っていてほしいと連絡があった。
一郎の最寄り駅のスーパーで買った惣菜をテーブルに置く。宅飲みの日は一郎がつまみを作ることもあれば、スーパーの惣菜で済ませることもある。今日は後者だ。
『でもそうだなあ、きっと新谷の好きな人は、新谷のことすっごくすっごく好きだと思うな。そんな気がする』
夕方に言われたことを思い出して、顔から火が出そうなほど顔が熱くなる。会社であんなことを言うなんて、なにを考えているのだ。一郎は社内にファンが多い。万が一にでも付き合っている相手がいることがわかったら、数人の女性社員が病欠することになるだろう。
「一郎の、馬鹿……」
ぶつぶつと文句を言いながらスウェットに着替える。元は一郎のものだったが、今では朝陽がお泊りをする時の部屋着になっている。生まれてからこの方寝間着はパジャマだったので、最初はゆるくだらっとした着心地に驚いたものだ。
酒を冷蔵庫にしまい、スマートフォンをいじって時間を潰す。朝陽が帰ってから四十五分もした頃に、玄関の鍵が開く音がした。一郎は幼い頃家が空き巣に入られた経験があるらしく、家に人がいても鍵をかけるのが習慣となっていると話していたので、朝陽もそれに倣うようにしているのだ。
「ただいま……」
「おかえり」
少し小さな声。残業で疲れたのだろう。朝陽は早く食事を摂らせた方がいいと、立ち上がって買い物袋からパックの唐揚げを取り出して電子レンジで温め始めた。
「手洗ってこい。飯の準備しとくから」
「……うん、ありがと」
気にしすぎかもしれないが、やはり元気がないように見える。今日は酒を控えめにさせて、早く寝かせるのがいいだろう。電子レンジが音を立てたので、次いで春巻きを温める。
それにしても、一郎が元気がないなんて珍しい。仕事でなにかあったのだろうか。朝陽にできるのは話を聞くことくらいだが、何もしないよりましだ。
──あいつ、あんまり愚痴とか言わないからな。オレ相手に言うかわからないけど……。
後ろから一郎の足音が聞こえる。手を洗い終わったのだろう。
「なあ一郎、今日酒少なくしないか。お前疲れてるみたいだし、──ッ!?」
突然、後ろから強く抱き締められて言葉を失う。春巻きを温め終わった音が舌が、取り出す事なんてできない。
「……な、なんだよ、驚くだろ」
「…………」
一郎は答えない。縋るように朝陽に抱きついて、顔を見せてくれない。
「一郎……?」
おかしい、明らかに変だ。夕方は特に変わった様子はなかったのに。
「…………さみしい……」
「え?」
ぽつり、と一郎の口から言葉が漏れた。聞き間違えでなければ、寂しいといったのか。
──寂しい? 一郎が? なんで?
「朝陽が……他の人に優しいとか、可愛いって言われるようになって、みんなと仲良くなって……いいことの、はずなのに……胸の中がもやもやする……」
一郎の手が朝陽の胸に触れて縋る。彼の声は、今まで聞いたことのない寂寥を孕んだものだった。
「朝陽がみんなに好かれて嬉しいのに……俺が特別じゃなくなった気がして、さみしいんだ。こんなんじゃ朝陽に嫌われちゃう……」
「一郎……」
つまり、一郎は独占欲を抱いたのだ。あの『菩薩』が。世界中の人間全てに優しい一郎が。朝陽を独り占めしたいと、可愛らしいわがままを口に出した。
朝陽は抱き締められながら、自分の胸がきゅうと疼く音を聞いた。こんな一郎の姿、世界で知っているのは朝陽だけだ。
「……一郎、一回離せ」
「……嫌いになった?」
この世の終わりに直面しているような震えた声。朝陽に嫌われることがそんなに恐ろしいのか。多少丸くはなったが、真面目が取り得なだけのたったひとりの男に縋るなんて、一郎を知っている人間からしたらあり得ないだろう。
「違う。今のままだとオレが抱き締められない」
「……」
ゆっくりと一郎の手が緩む。腕の中で彼の正面を向くと、今にも泣きそうな綺麗な顔があった。
「なんて顔してんだよ」
「だって……俺、今まで何人かと付き合ったことあったけど、こんな気持ちになったことない……」
また、胸がきゅうと疼いた。この男は、どれだけ朝陽を特別にすれば気が済むのだろう。
──オレより背高いくせに、かわいいなこいつ。
「一郎」
一郎の両頬を包む。彼がいつも朝陽を包み込んでくれるように、一郎にもそうしてやりたかった。
「表に出てるのなんてほんの一部だ。お前しか知らないオレの方が多いだろ」
今日見せたのは照れた顔くらいで、一郎はその何倍もの朝陽を知っている。
「弱くて悩んでるところとか、寝起きとか、泣き顔とか……お前に甘えてる時の顔とか、絶対に一郎以外に見せられない」
「あさひ……」
「一郎はオレの特別な人だ。だからそんな不安そうな顔するな」
ふわふわの金の髪を撫でる。朝陽は直毛だから、彼の空気を含んだ髪が羨ましい。
「うん……」
ぎゅう、と強く抱き締められる。彼が弱いところを見せてくれたのが嬉しくて、彼になにかしてやりたいという気持ちが湧いてくる。
「一郎……ベッド、行くか?」
「え……?」
夜の誘いをするのはやはり恥ずかしい。けれど、彼が甘えてくれるのなんて初めてなのだ。なら、自分の全てを明け渡したくなるのも当然のことだった。一郎の首に腕を回して、朝陽なりに彼を誘惑する。
「その……お前がオレのこと独り占めしたいって言ったのすごい嬉しいし……そういうことしてる時のオレは、本当に一郎しか知らないから……」
言っていて恥ずかしくなる。朝陽はこれまで誰とも付き合ったことがなかった。閨事の朝陽を知っているのは、この世で一郎だけだ。あんな身体の奥まで拓かれて愛されて、あられもない姿を見せるのは目の前の男だけがいい。
「……余裕ないけど、いい? いつもより、優しくできないかも……」
「……ん」
一郎の目がぎらついている。朝陽を求めて、今にも食べてしまいそうだ。けれど、この男に食べられてしまうのならそれでもいいと思って、朝陽は彼の唇に想いを捧げた。
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