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第22話 生きる場所

生きる場所  パタン、と子ども部屋のドアを閉める。  このまま、父の言う通りにするしかないのだろうか。父の言い分から、仕事も辞めさせられるのだろう。  一郎にもう会えない。頭を撫でてもらえない。『いい子だね』と言ってもらえない。抱き締めてもらえない。あの鳶色の優しい瞳で、朝陽を見つめて貰えない。  一郎を甘やかせない。ふわふわの髪をくしゃくしゃにしてやれない。朝陽の肩にぐりぐりと頭を押し付けてくるのを受け止めて、キスをしてやれない。  この家に帰って、父の言う通りにして、好きでもない人と、一生を。 「…………っ!」  ぼろぼろと涙がこぼれた。  ──嫌だ。絶対に嫌だ。今すぐ、一郎に会いたい。一郎じゃないと、オレは駄目なんだ。  朝陽が共に生きる相手は一郎以外ありえない。父に逆らうなんて、絶対にあってはならないことだったのに。  嗚咽を漏らしながら、朝陽はスマートフォンを取り出して一郎の連絡先を出した。  数コールの後、世界で一番愛おしい柔らかな声が聞こえた。 『もしもし、朝陽?』 「……っ、ぅ…………!」 『? 朝陽、朝陽?』 「一郎っ、いちろうっ、オレ最低だっ……!」 『どうしたの? 実家帰ったんじゃ……』 「見合いさせられる……! 嫌だって言ったら、父さんに、叩かれてっ……!」 『見合い? 朝陽、ゆっくり呼吸して? お父さんに叩かれたの? もうちょっと詳しく──』 「きゅ、急に、見合いしろって言われて、好きな人がいるから、嫌だって言ったんだ……! そしたら、今すぐ別れろって、会社もやめろって言われて、オレ、最低なこと、考えて……!」 『朝陽、最低なんて言わないで。いきなり見合いなんて言われてびっくりするのは当然だよ。大丈夫だから──』 「違う、違うんだっ……! オ、オレっ……」  ひぐ、と子どものようにしゃくりあげる。 「父さんが怒っても諦められなくて、お前と一緒がいいって……! 父さんが喜ぶことより、自分のこと、考えた……! さい、ていだ……!」  世界で一番最低の息子だ。父は朝陽の幸せを考えてくれたのに。朝陽の幸せを、自分の幸せだと言ってくれたのに。  父の考えを理解せず、父の幸せを捨ててでも、一郎の元に帰りたかった。最低だ、最低だ、最低だ。  やっぱり朝陽は優しい人間になんてなれない。救いようのない人間だ。きっと一郎にだって嫌われる。優しい彼が親を捨てるなんて選択肢を取らせるはずがないのだから。 『朝陽』  優しい声。それだけではない。喜んでいるのが電話口でもわかった。 『俺のこと、選んでくれるの? あんなに尊敬してるって言ってたお父さんより?』 「っ、選ぶ……一郎のこと、選ぶ……!」 『……じゃあ、朝陽は、お父さんがいなくても、自分で自分の幸せを考えられるようにになったってことだよ。親離れするタイミングなんじゃないのかな』 「おや、ばなれ……?」 『うん。朝陽、朝陽の幸せは朝陽が決めていいんだよ。親だからって口出しする権利はないんだ』 「でも、オレがちゃんと結婚しないと、父さんは幸せになれないのに……?」 『世界中みんな幸せになれたらきっと幸せなことだけど、誰かの幸せのために誰かが幸せじゃなくなることはあるよ。俺は朝陽のお父さんより朝陽になってほしいから、帰っておいでって言う』  帰っておいで。その言葉で気づいた。朝陽の帰る場所は、この勉強机だけの子ども部屋ではない。一郎が待っている、東京のワンルームだ。 『朝陽、朝陽の好きなごはん作って待ってるよ。だから早く帰ってきて。一日しか離れてないけど、もうさみしいんだ』 「……っ、この前の、豚肉酸っぱく炒めたやつ食いたいっ……!」 『あー、レモン炒め? あれ適当に作ったから再現難しいんだけど……うん、頑張って作るよ。だから、朝陽も頑張れ』 「うん、っ……いちろう」 『なあに?』 「……ありがとう、大好きだ……」  通話を切る。朝陽は涙を拭って帰り支度を始めた。今ならバスの最終時刻に間に合う。  荷物を持って居間に降りる。父は新聞を読んでいた。 「父さん、さっきのことなんだけど……」 「ああ、もう先方に連絡を入れた。五日の十三時だ」 「ごめん、見合いはしない。オレは好きな人と一緒にいる」  朝陽のきっぱりとした言葉に、また父の眼光が鋭くなった。 「……聞き訳がないな。申し分のない相手だぞ。探すのにどれだけ手間をかけたと思ってる?」 「……会ったことない人より、オレはオレが好きだって思う人と一緒にいたいんだ」  一郎がいい。一郎でなくては嫌だ。一緒に生きて、日々を過ごすのなら、それは彼以外ありえない。 「お前はどれだけ父さんを悲しませれば気が済む? 出来の悪いお前の面倒を見てやっているんだぞ」  出来の悪い子ども。父の中の朝陽は、その程度の認識だったのだ。それがとても虚しかった。 「っ……父さんの気持ちは嬉しいよ。けどオレは幸せになりたいんだ」 「お前を甘やかすだけの女といることが幸せだと!? どうして父さんの言うことが聞けない!?」  父が立ち上がって声を荒らげる。母が朝陽の肩に手を置いて身体を揺すった。 「朝陽、お父さんに謝りなさい! 貴方の幸せのためにお父さんがどれだけ……!」 「……父さんも母さんもオレの幸せって言うけど……一回も、オレのことを褒めなかったよね」 「……は?」 「え?」 「何しても、一番になっても、もっと努力しなさいって、それだけだった。オレがどれだけ頑張ったかを見てはくれなかったんだね」  さみしい。頬にひと筋涙が伝った。幼い頃に泣きながら二学年上の漢字ドリルを夜通しやったことを思い出す。夜中にひとりで、暖房もつけずに頑張った。終わらせたことを告げたら、父は次はこれをやりなさいと二学年上の計算ドリルを渡してきただけだった。次の日朝陽が風邪を引くと、自己管理が鳴っていないと熱に喘ぐ朝陽を見下ろしていた。 「……?」 「『偉い』『頑張った』『いい子』って──そう言ってくれるだけで、オレは幸せになれたよ」 「何を言ってるんだ、お前……?」    父は困惑していた。本当に朝陽が何を言っているのか理解できないらしい。幼い頃に必死に求めたものはこの世のどこにもないのだと、そう思い知らされた。 『いい子』。一度でいいから、そう言ってほしかった。何もせずに生きていていいのだと、このふたりに認めてほしかった。だが、それは叶わないのだ。 「オレは、オレのこと幸せにしてくれる人のところに行くよ。だからごめん」  父から離れる。自らの意思で。涙を拭って、玄関に向かおうとした。 「ふ……ふざけるなっ! この親不孝者がっ! 二十六にもなって反抗期のつもりか!? どれだけ父さんがお前にしてやったと思っている!?」  悲しい。きっと父にとっては、朝陽にしてきたことこそが愛なのかもしれない。けれど、その愛は朝陽にはもう理解のできないものだった。  父が立ちはだかる。罵声を浴びせてくる。この人に許されないことがなによりも怖いはずだった。  けれど。  『朝陽、朝陽の好きなごはん作って待ってるよ。だから早く帰ってきて。一日しか離れてないけど、もうさみしいんだ』  ──帰りたい。オレは、一郎のところに帰るんだ。オレの生きる場所は、ここじゃない。  それよりも、あの優しさを失うことのほうが怖い。だから、父の横を通り過ぎた。  世界で一番敬愛していた、世界で一番恐ろしかったはずの男は、小さい肩を震わせて激昂する。 「朝陽──────!」  朝陽は、父と母を背にして家を出ていった。もうここに戻ることはないのだと、そう思いながら。

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