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第26話 第一章 もうひとつの最終話 救われた男
一郎視点です。
一郎には、ずっと心に残っているしこりのようなものがある。きっとこれは、永遠になくならない背負っていかなければいけないものだ。
それは、朝陽に家族を捨てさせたことだった。
──朝陽は、絶対、俺以上に重荷を背負ってる。育て方は厳しかったらしいけど、朝陽は両親のこと大好きだったんだから。
だがその両親は朝陽の幸福を否定した。朝陽を狭い世界に閉じ込めて、彼らの思い通りに生きさせようとした。だから、一郎はそれらを捨てて自分を選んでほしいと望んだ。
──最低だなあ、俺。自分が選ばれたいからって。
朝陽に親を捨てさせたのが正しい選択だったのか、正直わからない。けれど、どうしても嫌だったのだ。親の幸せを子になすりつけるような人間が、朝陽のこの先を永遠に決めるなんて。朝陽を、一郎から奪うなんて。
「一郎?」
「……あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「どうせ仕事のアイデア考えてたんだろ」
「違うよ。朝陽のこと考えてた」
「……その割には、怖い顔してたぞ」
朝陽が菓子箱に手を伸ばしてフィナンシェを取る。
──ああ、朝陽に食べさせてあげたかったのに。
朝陽は一郎の手からものを食べる時、小動物のような顔をする。それが見たくてケーキ屋の焼き菓子セットを買ってきたのだ。
「ん」
そう思ったが、朝陽は一郎の口元にフィナンシェを持ってきた。
「ちゃんと糖分摂取しろ。ほら」
「……うん」
朝陽には大きな変化が現れた。わかりやすく一郎を甘やかすようになったのだ。
人を甘やかすのは、自分に余裕がなければできないことだと思う。きっと彼は優しくされて甘やかされて、それを人に返せるくらい満たされているのだ。それが嬉しくて、彼を甘やかしたいという気持ちと同じくらい、朝陽に甘やかされたいという気持ちが生まれてきた。
──甘えるなら、朝陽がいい。朝陽に愛してほしい。
「あーん」
一郎はそれに甘えて、彼の手づからフィナンシェをふた口で食べる。ほどよい焼き目の食感にバターがじゅわりと染みて、舌の上が甘さで満たされた。
「ん、ふまいね」
「……なんか、バカップルみたいだ」
「バカップルじゃなくて夫婦、でしょ?」
ぎゅう、と触れ合い始めたころより肉づきの良くなった身体を後ろから抱き締める。一郎の手料理と甘いものを摂取するようになった影響だ。元々細いのだから、健康のためにもっとふくよかになってほしいという密かな願いがある。
朝陽は一郎にすり、と身体を擦り寄せて甘えてきた。まるで猫のようだ。
「いちろ……」
「なあに? 朝陽」
「もっと……」
「うん」
「もっと、抱き締めてほしい……キスもしたい……」
「うん。よく言えたね。いい子、いい子……かわいいよ、朝陽」
どろどろのチョコレートみたいに、腕の中の存在を甘やかす。
柔らかな口に触れてそっと唇を重ねると、彼はうっとりと目を閉じて身を一郎に委ねた。
──ああ、俺に、全部預けてくれる。俺を信じてくれる。こんなに幸せなことがあるなんて。
どんな人に出会っても、どんなに尽くしても、みんな最後にはそれを恐れた。
『優しいだけ』『優しすぎて逆に怖い』『優しく出来れば誰でもいいんでしょ』
そんなことを言われて、誰にも想いを信じて貰えなくて。きっと自分は誰かひとりを大切にしてはいけないんだと、そう思った。
そこで、苦しんでいる朝陽を見つけた。彼は誰にも助けを求められず、今にも壊れそうだった。最初は善意だったかもしれない。だが、どちらにせよ一郎は自分の『誰かを幸せにしたい』という気持ちを利用して、朝陽に尽くしたのだ。それに思慕が重なって、やがて情欲を抱いて、今は彼を腕の中に収めている。彼の弱いところにつけこんでいるのはわかっている。けれど、どうしても朝陽が欲しかった。朝陽に求めてほしかった。
朝陽は一郎のことを優しい人間だと言うけれど、それは違う。一郎はどこまでも自己中で、自分のために他人を幸せにしたい人間だ。
朝陽はそんな一郎を受け入れてくれた。甘やかされて、好きになってくれて、今は一郎を甘やかしてくれて。
────ねえ、朝陽。朝陽は俺に救われたって言ってくれたけどさ。救われたのは、俺の方だったんだよ。
──朝陽に言っても、きっと「何言ってんだ」って呆れるだろうけど。
「好き、大好き、愛してるよ、朝陽」
ボキャブラリー貧弱な自分が恨めしい。詩作などに挑戦すれば、この想いを少しでも伝えられるだろうか。
「ずっと傍にいるよ。……絶対に、朝陽を離さないから」
誓いの言葉を、彼の鶯色の瞳を見つめながら告げる。重いと思われたって仕方がない。一郎が朝陽に捧げられるのはこれだけなのだから。
「……うん、オレも、愛してる」
朝陽は応えて、一郎の手を優しく握ってくれる。
──朝陽に尽くすことしかできない、弱い俺を愛してくれる君を、何があっても愛しているから。
──だから、一生、俺に甘えてね。
窓から入る光が、ふたりの指に嵌っている結婚指輪に反射する。
人の形をした一郎だけの太陽は、隣でいつまでも一郎を温めてくれた。
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