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第二章 第6話 愛成分充電
デザイン部に足を踏み入れた瞬間、そこに陰鬱な雰囲気が漂っているのがわかった。
一郎が家に帰ってこなくて、もう三日経つ。彼らしからぬ困り果てた様子のメッセージによれば大口の案件で納品後に致命的なミスが見つかり、デザイン部全員でその修正に追われている、とのことだった。
三日も帰れないほど忙しいのは流石に心配で、差し入れの名目で顔を見にきてしまったのだ。
「……これは、修羅場ってるねえ」
隣の村尾がぽつりと呟く。これまで他者に厳しくしてきた朝陽が急に差し入れなどしたら驚くだろう。理由だって見当たらない。なので、村尾にデザイン部が大変であることを伝え、共に差し入れを渡してほしいと頼んだのだ。ちなみに金は朝陽が全て出そうとしたのだが、村尾は財布に一万円札をねじこんできた。
「あ……村尾さんと新谷さん? すみません、今急ぎの案件があって、打ち合わせとかできないんですけど……」
一郎の後輩の保住が朝陽に気づいた。彼女の目の下にはくっきりとクマが浮かんでいた。
「いや、打ち合わせじゃない。デザイン部が大変だって聞いたから差し入れに来たんだ」
「えっ!? 差し入れ!?」
保住ががたりと立ち上がる。今にも泣きそうなほど目が潤んでいる。
「みなさーん! 営業の村尾さんと新谷さんが差し入れくださいましたー!」
彼女の声で全員がこちらを向き、わらわらと集まってくる。
「あ……新谷……差し入れ持ってきてくれたの?」
一郎も他の社員と同じく目の下にクマを作っていて、いつもよりげっそりして見えた。
「……オ、オレじゃなくて、村尾さんが」
「俺のメッセージ見て、心配してくれたんでしょ? それくらいわかるよ」
「ほらあ、だから言ったじゃん新谷くん。私のこと建前にしてもすぐバレるよって」
「っ……いいから、ちゃんと飯食べろ! 金出してくれたのは村尾さんだからな!」
一郎にビニール袋を押し付ける。作業中も食べられるようにと、おにぎりやサンドイッチなど片手で食べることができるものを選んだつもりだ。飲み物はコーヒーに紅茶、緑茶とほうじ茶、ジュースなど色々な種類を選んだので、おそらく間違いはないはずだ。
「優しいなあ、新谷は」
一郎がふにゃりと笑って、朝陽の頭を撫でる。恐らくいつもの癖がとっさに出てしまったのだろう。
だが、成人男性が成人男性を撫でるという光景に、デザイン部の多くがざわついた。
「っ! ば、かっ! 頭撫でるなっ!」
「えへ、ごめん」
一郎はビニール袋を受け取って、保住に皆に配ってほしいとそれを渡した。
「あのさ、新谷。ちょっと相談のってくれない?」
「……? オレじゃデザインの相談はのれないぞ」
「それでいいんだ。ちょっと別の視点からの意見が聞きたくて。向こうで話そう」
「……わかった」
一郎に続いてデザイン部を後にする。朝陽が力になれることならしてやりたい、と思った。
「……あれは充電しに行ったなあ」
村尾の独り言は、朝陽には届かなかった。
一郎が朝陽を連れてきたのは、ふたりの始まりのトイレだった。
「なあ、なんでここなんだ……っ!?」
彼が朝陽の手を引いて個室の鍵をかける。そして後頭部に触れながら腰を引き寄せ、朝陽の唇に食らいついた。
「ん、んーっ!」
人が来ないと言っても、ここは職場だ。キスをしていいわけがない。一郎を引き剥がそうとしても彼の力が強くて離れようとしない。
──何考えてるんだ、こいつっ……!
「っ、ん」
「んっ、んぅー! ぁ、んんっ……!」
くちゅり、と一郎の舌が差し込まれる。熱いそれが朝陽の咥内を余すところなく舐めて愛撫する。まるで、それ自体が交合であるかのような深い口づけだった。
「ぁ、ん、っ……! ん、ん……」
会社の誰も来ないトイレで、一郎と深く触れ合っている。その事実に背徳感を覚えているのに、一郎に甘やかされることを教え込まれた身体は、彼からのキスで融かされて思考を奪われる。
くらくらとした感覚。自分がどこに立っているのかよくわからなくなって、必死に一郎に縋る。
──駄目、だ。駄目なのに、頭、くらくらする……。
「っん、ふ、っ……!」
「っ……ん……」
気づけば朝陽は自らキスを深くしていた。一郎の舌に舌を絡めて、唾液を交わらせて、粘膜を何度も触れ合う。
かくんと膝から力が抜けてしまうと、一郎は朝陽の腰を強く抱き留めてかき抱く。
一瞬にも永遠にも感じられる時間。やがて一郎の唇が離れて、口から酸素を取り込めるようになる。
「んっ……は、ぁっ……」
「は……ごめん、我慢できなくて……」
一郎が朝陽の顎を掬う。彼の瞳には勤務時間中にあってはならない思慕が溢れていた。
「馬鹿……! 誰か来たらどうすんだ……!」
「こんなところ、誰も来ないって。……朝陽のかわいい声、誰にも聞かせる気ないよ」
「っ、仕事中にこんなことっ……!」
「それはほんとうにごめん。でも許して。朝陽に会えなくて気が狂いそうだったんだ……」
一郎がこつん、と額を合わせる。疲れがにじんだ顔はやけに大人な雰囲気がして色っぽく見える。朝陽は、普段見ることのない新たな彼の一面に胸をときめかせてしまった。
「……ねえ、朝陽、今すごくかわいい顔してるから、落ち着いてから仕事戻ってね?」
「っな……! かわいい顔なんてしてない!」
「してるよ……。あー……ごめん、流石に疲れてる……もうちょっと充電させて……」
一郎が朝陽を強く抱き締めて、肩にぐりぐりと額を押し付ける。よほど修羅場なのだろう。
「仕事……あとどれくらいで片付きそうだ?」
「ん……今のペースだと明日、うまくいけば今日の夜終わりってところかな……はあ……」
今日は金曜日。いつもならば次の日が休みだから一郎と共に眠れる日のはずだった。五日間待ち望んだそれがなくなってしまうのは、朝陽も寂しい。
「一郎、終わった後にご褒美あれば……もう少し頑張れるか?」
「んー……ご褒美ってなあに……? 朝陽からのキス……?」
一郎が朝陽の肩を吸いながらたずねる。いつもしているキスだけでは頑張れないだろう。だから、とても恥ずかしいが効果的な提案をすることにした。
「ベッドの中で……すぐできるように準備して待ってる。お前がしたいこと、なんでもしていいから……頑張れ」
あまりにも即物的な餌。自分で言っていて恥ずかしくなってくる。けれど朝陽が与えられる褒美はこれしかないのだ。
「っ!」
一郎が勢いよく顔を上げる。その瞳には生気が戻りつつあった。
「そんなかわいいお誘いある?」
「……疲れてるから寝たいとかなら、別に……」
「ううん。絶対する。速攻で終わらせるから。……どろどろの、ぐちゃぐちゃにしていい? 一晩中朝陽のこと甘やかしたい」
「っ……」
男の目に情欲が灯る。今夜自分がされることを予告されて、胎がきゅうと疼いた。
「何する気だよ……」
思わず快楽を感じてしまった自分の身体を抱き締める。昼間から会社で劣情を覚えるなんて、いけないことなのに。は、と小さく漏れた息は艶を纏っていた。
「……やっぱりダメだ。朝陽、しばらくここにいよう」
「は……? そろそろ戻らないとまずいんじゃないのか……?」
「朝陽置いて戻れるわけないよ。お願いだからこんなとろとろの顔、俺以外の誰にも見せないで」
とろとろの顔とはどんな顔だ。だが一郎の真剣な顔に、人に見せてはいけないのだということはわかった。
「……わかった……」
こくりと頷いて少しでも一郎に元気を分けてやろうと、彼の身体を抱き締める。きっと一郎は宣言通り仕事を今日中に終わらせるのだろう。朝陽は不意に、寝室に置いてあるコンドームが残り少ないことを思い出した。
「コンドーム、もう少なかったと思う……。どれくらい買っておけばいい……?」
「何個使うか分からないから、五箱くらい買ってくれる?」
確か一郎が使っているものは一箱六個入りはずだったはずだ。それを五箱も。
「ぜ、全部使う気じゃないよな……?」
「どうだろ。でもなくなっちゃって途中で終わるの嫌でしょ?」
「……それは、そう、だけど……」
確か、コンドームは駅前の大型ドラッグストアが一番安いと一郎が言っていた。帰りはそこに寄ることになりそうだと思いながら、朝陽はなかなか上気した頬を戻せずに俯いた。
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