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第二章 第八話 纏うものと君

纏うものと君 「…………」  土曜のお昼、朝陽はじいっと一郎を見つめる。 「? 朝陽どうしたの? ごはんおかわり?」 「いや……」  顔をそらす。言いたいことがあるのだが、口に出すのにかなり勇気のいることだった。 「い、一郎、あの……」 「ん? なあに?」 「……なんでもない、ごめん」  言おうとして、また口をつぐむ。自分を許せるようになっても、まだできないことは多いのだと実感させられてしまう。  昼食を食べ終わり、ソファに座りながらまた一郎を──正確には彼の全身を見つめていると、彼が隣に座って頭を撫でた。 「あーさーひ。何か言いたいこと、あるんでしょ?」  どうやら彼にはお見通しのようだ。けれど、あと一歩勇気が出ない。 「……オ、オレが言うの、変な気がして…………」 「大丈夫、変じゃないよ。言ってみて」 「…………」  朝陽は、一郎の鮮やかな青色のトップスをきゅうと掴んだ。 「オレ、も……一郎みたいに、おしゃれしてみたい……」  朝陽の私服にはレパートリーがない。白いシャツに黒のズボン、寒い時期にはそれに黒のカーディガンを着る。その一パターンしかないので、クローゼットの中は白と黒しかない。  対して一郎の私服は鮮やかだ。いろんな服を組み合わせてコーディネートしている。最初はなんとも思わなかったが、さまざまな服を着ている彼を見て、何だか楽しそうだと思ったのだ。  けれど、おしゃれというのは生きる上で必須のものではない。朝陽は二十六までそれを学ぶことなく過ごしてしまった。今さら挑戦してみても、もう遅いかもしれない。なにより、朝陽がおしゃれをするなんておかしいかもしれない。 「……そっか、じゃあ、新しい服買いに行く?」  そんな朝陽の不安をかき消すような、優しい声が耳に届いた。 「……オレがして、いい、のか。一郎みたいにかっこよくないのに……」 「ダメなことなんてないよ。おしゃれは自分がしたい時にするものだよ、朝陽。それに朝陽は世界で一番魅力的なんだから、俺の大切な人をかっこよくないなんて言わないで?」  ちゅ、と額にキスが落ちる。したい時に、する。そんな自由なことをしてもいいのか。 「でも何からしたらいいのかわからなくて……一郎なら、おしゃれの仕方知ってると思って」 「んー、俺が教えることもできるけど……。ひとつ聞きたいんだけどさ、新しい服買うのにあんまりお金かけたくない? それとも今持ってるものよりお金かけてもいい?」  今持っているものは誰に見られることもないと思って安いものばかりだ。安くて質のいいものもあるかもしれないが、せっかくなのだから金をかけてみたい。 「金かけても大丈夫だ」 「うん。なら俺の先輩の店に行かない? 自分のブランド持ってて、俺もよく買ってるんだ。あの人ならアドバイスちゃんとしてくれると思うよ」 「……うん。じゃあ、行く」 「ふふ、お買い物デートだ。楽しみ」  次は頬にキスが寄せられる。一郎は朝陽のやりたいと言ったことを受け止めてくれる。その幸せに溺れながら、朝陽は小さなキスを返した。   「雄介先輩、お久しぶりです」 「こら一郎! 店ん中で本名呼ぶなって言ってるだろ?」 「はーい。アイトさん」  都会の喧騒から少し離れた、こじんまりとした店でふたりを出迎えたのは茶髪の、いかにもファッション業界にいそうなテンションの高い男だった。 「朝陽、こちら石田アイトさん。ここのお店の店長で、デザイナーもやってるんだ」 「よろしくね~!」 「アイトさん、この子が朝陽です。俺のパートナー。おしゃれしてみたいって言ってくれたので、朝陽の好みを引き出して見繕ってもらえませんか」 「初めまして、新谷朝陽です」  ぺこりとアイトに向かって礼をする。アイトは朝陽をじいいっと見つめて何かを考えている。 「……あ、あの……?」 「えー……こんなにいい逸材連れてきてくれたの? 超楽しみだわ。清潔感ばっちりでスタイルいいし顔もバランスが整ってる。何着せても似合いそうだからこそ選びがいがあるなあ」 「な、えっ」  初対面の人間にいきなり褒められて顔が赤くなる。スタイルがいいなんて言われたことがなかった。 「ふふ、でしょ? 朝陽は性格もいいけど見た目もかわいくて素敵なんです」 「いいねえ、全力でやらせてもらうよ! ……っと、その前に朝陽くんの希望を聞かなきゃね。どんな風になりたいとかある? 好きな色とか、好きなシルエットとかでもいいよ」 「えっと……」  シルエットもなりたい理想もわからない。だが。 「一郎みたいに、いろんな色の服が欲しいです……。選んでる時、楽しそうなので。オレ、白か黒しか持ってなくて」 「オーケーオーケー、任せといて! じゃあ早速見ていこうか」  アイトがどうぞ、と朝陽を鏡の前に導く。朝陽はおしゃれのために服を選ぶという未知の体験に緊張しながら、一歩を踏み出した。 「いろんな色のトップス出してくね。赤に青、水色、緑にピンク、紫、オレンジなんかもあるよ」 「お、おお……」 「朝陽くんは何色が好き?」 「…………好きな、色…………」  思えば、好きな色など考えたことがなかった。朝陽はどうしたらいいのかと頭を悩ませる。 「じゃあ朝陽、この中で目を惹くのは何色?」 「えっ、と……じゃあ、この水色がすっきりしてていいと思う……」 「オッケー、ならまずそれだね」 「えっ、そんな決め方でいいんですか!?」 「そーだよー? 服は自分が気に入ったものを着ればいいんだから。ま、実際に試着してみて着心地とか似合うシルエットとかも確認しなきゃだけどね。他に気に入ったのは?」 「えっと、じゃあ緑を……」  普段ネクタイを緑にしているので、何となく選んでみる。 「はいはい。それと俺のイチオシはこのオレンジ! 朝陽くん肌白いから似合うと思うよ~? 気に入らなかったら全然いいから着てみて!」 「うん、すっごく似合うと思う。流石アイトさん」 「じゃ試着しようか。ズボンは色物との対比でシンプルなのがいいから、ブラックにしよう」 「は、はい」  試着室に案内されて、今まで自分が着てこなかった種類の服を纏ってみる。触ったときからわかっていたがとても肌触りがいい。それに軽くて、着心地もよかった。何より水色を着て鏡に写っている自分は真面目すぎる雰囲気が和らいで、いつもより柔らかく見えた。 「朝陽、どう?」 「……ん、と」  見せるのが恥ずかしくてゆっくりカーテンを開ける。 「こんな感じになった……」 「おおーいいね! 似合ってる似合ってる!」 「…………」  一郎は着替えた朝陽を見て、無言でぎゅうと抱き締めた。 「な、一郎っ!?」 「いつもの朝陽も素敵だけど、雰囲気が違っててまた別のかわいさがある……最高……」 「こらこら一郎ー? 人の店でイチャつくなー?」  アイトが小突いたので、一郎はしぶしぶといった様子で朝陽を解放した。 「じゃあ他のも合わせておいでー」 「はい」  朝陽は続いて緑とオレンジのトップスも試着したが、その度に一郎が抱きついてくるので怒る羽目になってしまった。  試着室を出てトップス三点とズボンを買うことを決め、そのうちオレンジのカットソーはそのまま着ていくことにした。三人がレジに向かおうとした、その時。 「あ……」  朝陽の目に、淡緑のスプリングコートが目に入った。フードがついた会社に着ていくものよりラフなデザインになっていて、何故だかひどく目を惹かれる。  ──これを着て、一郎と出掛けてみたい。 「お、それ気になる? 新作のスプリングコートだよ。今着るにはちょっと季節早いけど、羽織ってみるかい?」 「……はい」  スプリングコートに袖を通す。鏡の前の自分の顔が数段明るくなった気がした。これは自分のための服であると、そう実感できた。 「……これ、買います」  言葉は反射的に出ていた。値段も見ずに買うなんてと言ってから思ったが、いくらかけてもこれが欲しいと思ってしまったのだ。 「おっ、ありがとう。じゃあ店長権限で十パーセント引きしとくね~」  アイトはとても嬉しそうに微笑んでいる。朝陽以上に喜んでいるような。 「え、いやそれは!」 「いいのいいの。服が行きたい人のところに行かせるのが俺の役割なんだから」 「じゃあ俺はこの三着買うね。プレゼントさせて」  一郎までそんなことを言い出す。今日は全部自分で出すつもりだったのに。 「ちょっと一郎、お前が買っちゃったら着る時間短くなっちゃうだろ」 「? どういう意味ですか?」  朝陽は意味がわからなくて首を傾げた。 「んー、恋人に服を贈るのは『あげた服を脱がしたい』って意味があるとかなんとか」 「!」  ぶわ、と顔が赤くなる。アイトの前でそんな直接的な煩悩を言ったのかこの男は。 「ちょっと先輩。俺は純粋に朝陽に似合ってる服を着て欲しいだけですよ。脱がせたい気持ちなんてほんのちょっと……いや、半分くらいしかありません」  一郎は朗らかな笑顔でそんなことを言ってのける。 「あるんじゃねーか! ったくお前そんな即物的なやつだったか?」 「い、一郎っ!」 「ごめんごめん、じゃ、会計しよっか」 「……これも、着ていっていいですか」  今すぐにでもこれを出掛けて歩きたい。そう思ったのだが。 「……朝陽くん、そんなに気に入ったの?」 「朝陽、流石にそれはまだ寒いと思うよ……」  ふたりから突っ込まれて顔が赤くなる。確かに外はまだスプリングコートで充分なほど暖かくはない。 「でも、これ着て一郎と出掛けてみたくて……」 「焦らなくても大丈夫だよ、あったかくなったらそれ着てたくさん一緒に出掛けよう?」 「…………ん」  一郎が優しく朝陽を諭す。確かにこれから時間はいくらでもある。朝陽はこくんと頷いて、スプリングコートを脱いだ。 「はいこれ、俺の名刺ね。メッセアプリのIDも書いておいたから、服のことで悩んだらなんでも相談して。俺のところで買った服じゃなくてもいいから」  アイトはそう言って名刺を差し出してきた。確かに手書きでIDが書かれている。 「えっ、それは悪いです!」 「俺はさ、いろんな人におしゃれしてほしいの。そしたら服も着た人も幸せだろ? 趣味みたいなもんだから気にしないで」 「……じゃあ、何かあれば相談させてください……」 「うんうん。なんならふたりで服選びに行くのだっていいよ?」 「先輩、俺のパートナーとデートしないでください?」 「わーってるよ。ったく器小せえ男だな。誰にでも優しい津島くんはどこ行ったんだよ」 「朝陽は特別ですから」  ぎゅう、と一郎が朝陽を抱き締める。店先で抱き締められて、朝陽は頬を赤らめた。 「っ、外で抱きつくなっ!」 「えへへ、ごめん」 「ま、またのご利用お待ちしてますよ。朝陽くん、おしゃれ楽しんでね」 「……はい。ありがとうございました」  アイトに一礼して、店を後にする。ふと一郎が手を繋いできて、柔らかく微笑んでいる。  こんなに優しくて格好いい人の隣に立つのなら、誇れる自分でありたい。もっとおしゃれを勉強して、いつか一郎と互いをコーディネートしてみたい。  淡緑のスプリングコートを着て一郎と出掛けるおしゃれな自分の姿を想像して、朝陽の足取りはいっそう軽くなった。   

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