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第二章 第十三話 誰かに繋ぐ優しさ

誰かに繋ぐ優しさ  とある木曜日。朝陽が会社の廊下を歩いていると、向こうから歩いてくる女性社員が足をもつれさせて転んだ。 「……!?」  何もないところで転んだ女性に思わず驚いてしまった。何か声をかけるべきだろうか。しかし、変に心配して彼女に恥ずかしい思いをさせるのもどうかと思う。 「……っ、う……」  女性は瞳をうるませて、ぼろぼろと涙を零し始めた。流石に転んだだけで泣くのはどうなんだろうか。 「……だ、大丈夫か?」  思わず声をかけてしまった。女性は朝陽に気づいてこくこくと頷く。泣いてはいないが朝陽も会社で過呼吸になってしまった経験がある。なんだか女性を放っておけなかった。 「一旦落ち着いた方がいい。すぐそこの休憩スペース行こう。歩けるか?」 「っ、は、はい……!」  女性に手を貸して立たせて、自動販売機がある休憩スペースに連れていく。彼女はその間もずっと泣き続けていた。 「……転んで泣いた、ってわけじゃないよな。何かあったのか聞いていいか?」 「は、い……わ、私、上司の人とうまくいってなくて……いつも怒られるので辛くて……」 「……上司か……」 「私なりに仕事を一生懸命しているつもりなんですけど、それでもうまくいかなくて……この仕事向いてないのかも……」  正直、彼女の仕事っぷりを見たわけではないから、なんとも言えない。それに、一生懸命頑張っていても報われないことなんて社会人ではザラだ。朝陽は小さく息をついて、自動販売機でココアを買った。 「……多分向いてる仕事なんてこの世にほとんどないぞ」 「え?」  「とりあえず上司の人とよく話し合ってみろ。相手を怒らせてる原因がわからないとどうしようもないだろ」  そう言って彼女にココアを手渡す。一郎ならもっと優しい言葉をかけたのかもしれないが、朝陽にはこれが限界だ。 「それ飲んで落ち着いてから仕事戻った方がいい。上司になんか言われたら営業部の新谷に捕まってたって言ってくれ。じゃあな」  一郎のように、周りの人全員を笑顔にさせることなんてできないけれど、目の前で泣いている人を無視できるほど冷酷ではなくなってしまった。一郎に言わせれば、それが本来の朝陽らしいのだが。 「営業部の、新谷さん……」  女性の声がぽつりと休憩室に響く。彼女は朝陽の背中をいつまでも見つめていた。   「……寒い……」  朝の通勤時間、朝陽は鼻の頭を赤くしながら呟いた。二月も半ばを過ぎ、三月まであと少しだと言うのに一向に寒さが無くならない。  一郎と朝陽は同居がバレないためわざと通勤時間をずらしている。なので出勤はいつもひとりなのだが、こうも寒いと一郎の体温が恋しくなってくる。 「早く暖かくならないかな……」  本社のビルに入ってそう呟いた時だった。 「新谷さん!」  誰かから名前を呼ばれた。振り返ると、そこには昨日廊下で転んだ女性がいた。 「……あ、昨日の……」 「経理の小森です。小森真理です。昨日はありがとうございました!」  女性はぺこりと頭を下げる。心なしか昨日より顔がすっきりして見えた。 「あの、昨日すごく嬉しかったです。私、誰かに優しくされたの初めてで……」 「そ、そうか」  彼女の目は気のせいでなければ、なんだがうっとりとしている。熱でもあるのだろうか。 「よければ、お礼させてもらえませんか? 今度カフェでコーヒーでも奢らせてください」 「いや、礼とかいらないから……」  小森はずっと上目遣いで朝陽を見つめている。身長差はあるが、男女とは話す時に皆こうなるものなのだろうか。 「……悪い、そろそろ行かないと遅刻するから」  正確にはまだ就業開始時間まで十分あるのだが、ギリギリに着いて焦りたくないのだ。 「あっ、新谷さん! じゃあ、またお話ししましょうね!」  まだ話したかったのかもしれないが、それに付き合って仕事をサボるわけにはいかない。朝陽は彼女の横を通り過ぎてエレベーターへと向かった。 「……ってことがあった」 「……ふうん」  仕事が終わり夕飯も終えた後、リビングのソファで一郎に小森を助けたこと、彼女に感謝されたことを言うと、彼の顔がぷくっと膨れた。 「何だよその顔」 「……朝陽、それ言い寄られてるって気づいてる?」 「……は?」  小森は助けた礼を述べただけで、朝陽を好きとも付き合ってほしいとも言っていない。どこが言い寄っていることになるのだろうか。 「いや、それは違うだろ……」 「じゃあ聞くけどさ、その子熱っぽい目線で朝陽のこと見てなかった?」 「見てた……けど、熱があったんじゃないのか」 「上目遣いとかしてなかった?」 「なんで分かるんだ!?」 「……はあ、朝陽、人からの好意に鈍感なんだね。そういえば俺の時もそうだった。そういうところもかわいいけど……」  一郎が朝陽の身体をぎゅうと抱き寄せる。朝から触れたかった体温に触れられて、心が幸福で満たされていく。 「その子は朝陽のこと好きになっちゃったんだよ。だからわざわざ朝に朝陽が出勤するの待ってたの」 「そ、そう、なのか……。誰かに好かれたこととかないからわからなかった……」 「俺はカウントしてくれないの?」 「っ、そういう意味じゃなくて!」  とにかく困った。朝陽には一郎がいて、彼以外のことを好きになるなんてありえない。 「また話しましょうねって言ってたから、また話しかけられるかも……」 「普通に話すだけならいいんだけど、明らかにアピールされてるとちょっとねえ……」  一郎の膨れ顔は治まっていない。彼女と話すことで彼が嫌な思いをするのなら、それを避けたいと思ってしまう。 「……あ、そうだ。指輪見せればいいのか」  朝陽の左の薬指には結婚指輪が嵌まっている。小森も朝陽が既婚者だと知ればそれ以上アピールなどしてこないだろう。 「……ねえ朝陽、もし告白されても、ちゃんと断ってね?」 「当たり前だろ。お前以外と恋愛関係になる気ない」 「ふふ、よかった」  ようやく一郎の顔に笑みが戻る。一郎の嫉妬を困ったものだと思いながら、同時に愛らしいとも思ってしまう自分に呆れたため息を漏らした。  次の週の月曜日。予想通り、小森は朝陽のところにやってきた。  仕事が終わり帰ろうとしているところに、一緒に帰りましょうと営業部にやってきたのだ。  人目のあるところで結婚していますと言うのも恥ずかしかったので途中まで共に帰ることをsつ抱くした。  オフィス街をふたりで歩く。二月の風が肌に刺さって思わず目をつむった。 「新谷さんって、彼女いるんですか?」  小森が上目遣いでそうたずねてくる。こちらからどう切り出せばいいのかと思っていたので、ちょうどいい。 「彼女はいない」 「! あの、じゃあ!」 「結婚してるからな」  そう言って彼女に左手を見せる。ゴールドの花があしらわれた結婚指輪。それを見た瞬間、彼女の表情がぴしりと固まった。  ああ、やはり小森は朝陽に惚れていたのだ。一郎の読みは間違いではなかった。 「け、けっこん……?」 「ああ。つい最近だけど」 「じゃあ、その……お相手が、いるってことですか……?」 「そうだな」  彼女が嘘、と呟いたのがわかった。 「な、何かの冗談じゃないんですか、だって新谷さんは……」 「…………」  足を止める。彼女をその気にさせてしまったのは、正直申し訳ないと思っている。 「私に、優しくしてくれたのに……。わ、私じゃ駄目なんですか……?」 「小森さん……」  彼女なりに精いっぱいアピールしたのだろう。小森は今にも泣きそうに大きな目を潤ませている。 「私は新谷さんのことこんなに好きなのに……! 好きになってほしくて頑張って、たくさんお話したくて……!」  小森が朝陽のコートの裾を掴む。きっと世間ではその仕草をいじらしいと言うのだろう。 「……俺が好きなのは、あいつだけなんだ。悪いけどこれ以上あいつを不安にさせたくないから、一緒に帰るのはここまでで」  彼女のアプローチに、少したりとも心が動かない。朝陽は彼女の手を取って、離した。 「お互い、仕事頑張ろう」  それだけ言って最寄り駅までの道を歩き出した。やはり朝陽が好きなのは一郎なのだと、そう実感しながら。 

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