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第二章 第十四話 もうひとりの自分

もうひとりの自分  一言で言えば、朝陽の予想は当たらなかった。  小森を振った後も、彼女の姿が視界に入ってくるようになったのだ。話しかけてはこないが、熱っぽい視線を感じることが多い。さすがにそれを気のせいだと思うことはできなかった。彼女にだって仕事はあるだろうに、社食や就業中の廊下など、偶然で片づけられるギリギリのラインで、である。  朝陽が一郎に相談したところ、彼はあまりひとりにならないでほしいと朝陽に願ってきた。なので昼食を村尾や日浦と摂るようにして、帰りは一郎と待ち合わせて帰るようになった。 『ちょっとストーカーっぽいから危ないよ。過保護って思われてもいいから、安全な方法取らせて』  小森と朝陽では男女の体格差がある。何かあっても大丈夫だとは思うのだが──あまりにも真剣な表情でそう言われたので、頷くしかなかった。  小森のストーカーもどき行為が始まってから一週間。相変わらず彼女は何もしてこない。このまま朝陽への興味を失ってくれればいいと思いながら、朝陽は残業を終えて一郎宛てにメッセージを送った。 『仕事終わった。そっちはどうだ?』  すると数秒もしないで返信が来た。 『まだちょっと残業するかも。待ってて』 『わかった。じゃあ待ってる』  外は寒いのでデスクで座って待っていようと思っていたら、日浦に早く帰らないと奥さんかわいそうですよ! と言われてしまい、営業部の面々に追い出されてしまった。  一郎がどれくらい残業するかわからないので、カフェなどで時間を潰すのも微妙だ。そう時間はかからないだろうと踏んで、朝陽は本社ビルの外で待つことにした。  外はすっかり暗くなり、雪でも降りそうな寒さだ。吐いた息が白い。今日は温かいもの──例えば鍋が食べたい。そんなことを思っていた時だった。 「新谷さん」  気がつくと、目の前に小森がいた。 「こ、もり、さん」 「……ずっと、見てました。新谷さんのこと。それでやっぱり思ったんです。新谷さんは私の運命の人だって」  彼女はとても嬉しそうに言葉を紡ぐ。そのうっとりとした表情に、朝陽はどうしようもない恐怖を感じた。 「私のこと、幸せにしてくれるのは新谷さんなんです。そうに決まってます」  小森がぎゅうと朝陽に抱きつく。自分よりもか弱いはずの女性に抱き締められて、朝陽は背筋に寒気を感じた。  ──この子、おかしい! やばい! 「っ、離してくれ! オレには相手がいるって言っただろ!?」 「はい。聞きました。けどそれじゃ諦められないんです。新谷さんだって私と付き合ってくれれば、きっと私の方を選んでくれますから」  話が通じない。同じ言語を喋っているはずなのに意思の疎通ができない。  ──怖い、怖い、怖い、怖い! 「新婚の人たちに離婚しろなんてひどいこと言いません。……だから、私と不倫してください」  小森はそう言って、愛おしげに腕の力を強めた。 「そんなことするわけっ……」 「新谷さんだけだったんです。私に優しくしてくれたの。誰かに優しくされるのがこんなにも幸せだなんて、知らなかった……新谷さんが教えてくれたんです」  その言葉に、身体が固まった。誰かに初めて優しくされて、その人を好きになった。それは、朝陽と一郎の始まりと同じだった。 「どうしても……どうしても好きなんです。新谷さんの特別になりたいんです。お願いします……」  特別になりたい。そうだ、朝陽も、一郎の特別になりたくて。 『お、お前が優しいの、オレ、だけじゃ、ないのに……!』 『勘違い、して、好きになった……! もっと、触ってほしいって、甘やかしてほしいって、ずるいこと考えたっ……!』  優しさによって芽生えた恋を、一郎は受け入れてくれた。それは朝陽にとって一生の幸福で、愛で。  彼女は今、同じ気持ちを朝陽に抱いている。では、彼女の想いを断ち切ってしまったら?  ──あの時朝陽を襲った絶望と悲哀を、彼女に背負わせてしまう。それを、理解してしまった。 「────────」  動けない。少しも彼女を愛する気持ちなんてないのに。彼女を拒まないといけないのに。  優しさによって愛を得た自分が、それと同じものを否定していいのかと、思ってしまった。 「新谷さん、私、何でも貴方にあげます……だから、私のことも選んで……」  小森の手が朝陽の頬に触れる。逃げなければいけないのに、身体は動かないままで。  ────いち、ろう。  彼の名前を、呼んだ時だった。  ぐいと後ろに引っ張られて、小森と引き離される。温かな腕が朝陽を抱き締めていて、朝陽はその温もりを知っていて。 「──何してるの、朝陽」 「い……いちろう……?」  そこには、息を切らせた一郎がいた。彼らしからぬ怒りをにじませて小森を睨んでいる。 「なっ……なんなんですか貴方! 急に……!」 「君こそ何してるの。朝陽が既婚者だって知ってる?」  突然引き剥がされた小森は闖入者を責め立てるが、一郎がそれを遮った。 「わ、私はただ新谷さんと仲良くなりたくて……! 貴方に関係ありません!」 「朝陽と不倫したいってこと? それなら関係大ありだよ。朝陽にそんなことさせるわけにはいかないからね」  一郎の手は震えている。それが怒りからくるものなのかそれ以外なのかはわからなかった。 「朝陽。なんで抱きつかれたままにしてたの? もしかして不倫したかった?」 「っ、そんなわけ……!」 「さっきの奥さんが見たらそう思うよ。朝陽は奥さんより、その子を選ぶの?」  どちらを選ぶか、と問われたのなら、答えは決まっている。そんなもの考えるまでもない。 「あいつを選ぶに決まってるだろ……オレが好きなのは、あいつだけなんだから」  目の前の男を選ぶと、そう答えた。 「……そっか」  腕の力が強まる。一郎は冷たい目で小森をもう一度見た。 「本当に相手のことが大事なら、不倫してくださいなんて言わないよ。君、自分勝手すぎない?」 「っ、貴方に関係ないって言ってるでしょ!?」 「言っておくけど朝陽の奥さんは世界の誰よりも朝陽のこと愛してるからね。君が立ち入る隙なんて少しもないよ。だからもう諦めて」 「な……!」 「小森さん」  彼女の瞳をしっかりと見据える。この言葉は彼女を不幸にする。それはわかっている。けれど、朝陽が選ぶのはひとりだけだ。 「俺はあいつがいい。だから、君とは付き合えない」 「……!」  小森が地面にへたり込む。朝陽はそれに手を差し伸べずに、一郎と共にその場を立ち去った。  

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