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第二章 第十五話 一番大切なものは
一番大切なものは※R15
家まではお互い無言だった。少しも小森になびいてはいないが、抱きつかれて一郎を不安にさせてしまったのは事実だった。それをどう言葉を尽くして謝ればいいのかわからず、何も言えなかった。
ふたりの家に着いて、ドアが閉まる前にきつく抱き締められる。一郎はいつも朗らかで優しいのに、朝陽が誰かに何かされると独占欲をあらわにする。それが嬉しいけれど、申し訳ない気持ちもあった。
「……なんで、抱きつかれたままにしてたの」
一郎の声は震えていた。
「相手は女の子だよ。振りほどけたでしょ」
「そ……れ、は」
拒みたかった。けれど『優しさ』によって恋をした彼女を否定したら、あの時の自分も否定されてしまうのではないかと怖くなった。
「女の子の方が、よかったの?」
「……え?」
一郎の恐怖に震えた声が玄関に落ちた。顔は見えないが、もしかしたら泣いているのかもしれない。
「柔らかくて、ふわふわで、小さくて……俺なんかとは、全然違ったでしょ」
「っ、お前何言ってるんだよ! オレがお前以外に抱き締めて欲しいなんて思うわけないだろ!?」
朝陽が抱き締めて欲しいのは一郎ただひとりだ。小森に抱き締められた時感じたのは恐怖だけだった。感触なんて覚えてもいない。
「でも、だって」
一郎が朝陽に縋る。迷子の子どものように、それしか掴むものがないように。
「あさひが、女の子のところにいっちゃうかもって思った」
一郎の手がふるふると震えている。怖がっている。朝陽を失うことを恐れている。
「俺には、朝陽より小さくて柔らかい身体なんてない。一生、何があっても、朝陽が欲しがってもあげられない。女の子にはなれない」
「一郎……」
「でも嫌なんだ。朝陽のこと離せない。朝陽が選ぶのは俺じゃないと嫌だ」
強く、強く腕の中に閉じ込められる。一郎のエゴがどんどんと溢れていく。
「お願い朝陽、他の人のところに行かないで……」
その悲痛な声に、胸が痛んだ。彼をこんなにも不安にさせてしまった。悲しませてしまった。
「……行くわけ、ない」
ゆっくりと、一郎の頭を撫でる。
「オレが選ぶのは一郎だけだ。この先一生、ずっと。あの子の方がいいなんて、一瞬も思わなかった」
「じゃあ、なんで抱き締められてたの」
「……あの子が、オレが優しいから好きになったって、言ってたから」
「……どういうこと?」
一郎は訳がわからないと言うふうに言葉を紡ぐ。うまく説明できるかわからないが、朝陽は懸命に言葉を尽くした。
「オレは、一郎に優しくされて好きになったから……あの子の気持ちは昔の自分と同じだと思って、もしあの子を否定したら、昔の自分の気持ち否定することになるかもって……そしたら怖くて、動けなくなった。オレは一郎に幸せにしてもらったのに、自分の番になったら拒否するなんて……」
「朝陽のばか」
「なっ……!」
初めて一郎に罵倒されて思わず身体が固まる。
「あの子とどこが一緒なの? 朝陽は俺から離れようとしたじゃん」
「あ、あの時はお前に優しくされただけで好きになったのが許せなくて……だから離れようとして」
「ほら、あの子と違うよ。あの子は好きって気持ちを押し付けて、不倫なんて許されないことを一緒にしてくれって言ってきたんだよ」
「…………オレだって、同じこと、してたかもって思ったんだ……告白する前に、お前は皆に優しいんだって気づけたから離れようとしただけで……もしかしたらあのまま、告白して、好きになってほしいって言ってたかもしれない……」
もしかしたら、一郎に気持ちを押し付けて、認めてほしい、愛してほしいと縋っていたかもしれない。
「……もう、いろいろ突っ込みたいところあるな」
一郎の手が優しく朝陽の両頬を包む。その温かさがどうしようもなく愛おしい。
「まず、俺は朝陽を特別扱いしてたの。好きだから甘やかしてたの。わかる?」
「…………う、ん」
「うん。でね、あの子が告白して好きになってほしいって言うこと自体は悪いことじゃないんだよ。今回の場合は朝陽が既婚者って知ってるのに告白してきたことと、朝陽がその気がないって一回言ったのにアタックしてきたのが悪いの。全然状況が違うでしょ?」
「それはそうだけど……」
一郎の手がさらりと朝陽の頬を撫でる。
「……オレが優しくしたから、あの子はオレのこと好きになって……オレが、何か責任を取るべきだったんじゃないのかなって……考えた」
一郎が朝陽にそうしてくれたように優しさで誰かを救えたのならよかった。けれど結果的に彼女を傷つけ、一郎も傷つけてしまった。
「そっか。……じゃあ、今からひどいこと言うね」
「……?」
鳶色が、朝陽を真剣に見つめる。
「朝陽は俺のこと幸せにするって誓ったんだから、他の人の幸せよりも俺の幸せ考えて。他の人への責任なんてどうでもいいよ」
「……!」
それはあまりにもわがままな欲望だった。エゴだった。周囲の人間に幸せでいてほしいと願っている一郎が、自分の幸せだけを望んでいる。傍から見れば、どうしようもなく独りよがりな考えだった。けれど、その言葉が朝陽の胸につかえていたものを、ストンと落とす。
──ああ、そうか。オレが幸せにするのは、こいつなんだ。
「…………」
「卑怯なのはわかってる。でも……」
「……わかった。もう迷わない」
朝陽は一郎の後頭部に手を添えて、唇を重ねた。
「一郎が、一郎だけが、好きだ」
つくづく自分は最低な男だ。自分を好いてくれた女性を手酷く拒み、不幸にした。けれど朝陽が幸福にしたいのは一郎だ。一郎が朝陽を世界で一番愛しているように、朝陽も一郎を世界で一番愛している。
「朝陽……」
鳶色が揺れる。一郎は朝陽の肩に手を置いて、ゆっくりと顔を近づけてきた。
「んっ……」
「っ、ふ……」
熱を与え合う。舌が絡み合って、口の端から唾液が零れた。扉一枚の先には外の世界が広がっているのに、一郎は朝陽という存在を存在を欲望のまま求めた。
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