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第二章 第二十話 譲れないもの

譲れないもの  それは、穏やかな水曜日の昼初めだった。  社員食堂の入り口に着いたところで、社用のスマートフォンに一通の通知が届いた。見ると社内のチャットツールのもので、昼休みにそれが動くなんて珍しいと思ってタップする。  その内容を見た瞬間、朝陽はひゅっと息を呑んだ。  送られてきたのは一枚の写真。仕事帰りに朝陽と一郎がキスをしている瞬間を切り取ったものだった。  つい先週の金曜日、会社から少し離れたところで一郎が触れてきたのを朝陽はつい拒まずに受け入れた。その時のものに間違いない。  ──なんで、これ、誰が? 「新谷さん、これっ……」  同じものを見たのであろう日浦が駆け寄ってくる。思考が追い付かない。写真は本社だけでなく支社も含めた従業員全員が参加しているグループに流されている。年に一回か二回動く程度のグループだ。そんなところにこんなものが流されるなんて。  これを送った人間がどういう意図なのかわかりあぐねていると、メッセージが送信されてきた。 『本社営業部の新谷朝陽はデザイン部の津島一郎と不倫関係にあります! 既婚者でありながら社内で男同士で不倫しています。最低な人間です! みなさんはこれが許せますか?』 「──────」 「し、新谷さん、これなんですか!? 不倫って……!」  この告発をした人物は朝陽と一郎の関係を許されざるもの認識し、それを暴露したかったようだ。こんな内容のものが社内に広まったら、ふたりの社会的な立場は一気に足元から崩れてしまう。 『彼らは不倫はいけないことなどと言っておきながら、堂々と不貞行為に明け暮れていました!』  違う。これは不貞行為などではなくて。だがそれをこのメッセージを見た全員にどうやって伝えよう。朝陽は自分の手がカタカタと震えているのに気づいた。  これからこの先、好奇の目に晒されて生きなければいけないという現実が、背筋を凍らせた。 「っ……」  だが。 『菩薩津島一郎の正体はただの不倫男です。騙されないでください!』  そのメッセージを見た瞬間、頭がすうと冷えた。一瞬でおとずれた怒りが臨界点に到達すると逆に冷静になれるのだと、頭のどこか冷静な部分が分析していた。 「──────」  朝陽を貶めるのならただ恐怖するだけで終わっていた。けれど一郎を不倫男呼ばわりされるのは、それは許せなかった。彼はそんなことをする人間ではない。絶対に、どうにかしなければいけない。朝陽がどんなに絶望に叩き落されたとしても、一郎の名誉を守ることだけは譲れなかった。  冷静な頭で画面をよく見ると、メッセージを誰が送ったのか表示がはっきりと書いてある。送り主は『小森真理』。朝陽に不倫を持ち掛け、そして振られたあの女性だった。  朝陽は私用のスマートフォンを取り出して、一郎に電話をかける。幸い電話はすぐに繋がった。 「もしもし」 『もしもし朝陽、今社内チャット見たんだけど……!』 「ああ、オレも見た。一郎、この状況どうにかする方法、一個だけ思いついた」 『えっ』 「お前との関係、公にしていいか」  今まで関係を隠したがっていたのは朝陽の方だ。営業という仕事上、偏見の目で見られる情報を外に出したくなかった。だがもうこの写真が出回ってしまった以上、関係を隠すことはできないだろう。なら堂々と晒すまでだ。不倫という汚名を被って生きるより、そちらを選びたい。 『俺はいい、けど……朝陽、何する気?』 「ちょっと経理部にいる噂流した張本人に、直談判してくる」  朝陽はそう言って通話を終わらせた。周囲にはメッセージを見た社員たちが朝陽を奇異の目で見始めている。 「新谷さん、本当に不倫したんですか!? 奥さんのこと大事だって言ってたのに……! ていうか相手が津島さんってどういう……!」 「オレは不倫してない。悪い日浦、詳しい話は後で説明する」 「えっ、あっちょっと新谷さん!」  大股で歩いて、経理部へ向かう。途中ですれ違う人皆に下劣なものを見るような目で見られたが、そんなことは気にならなかった。 「自分が何をしたかわかってるのかっ!?」  経理部について最初に聞こえてきたのは怒号だった。見ると、ゆるくパーマを巻いた茶髪の女性が四十代ほどの男性に怒鳴られている。男性は経理部部長と書かれたストラップを下げていた。女性の方は見覚えがある。小森だった。 「このグループチャットは会社全体に通知が行くんだぞ!? 代表だって見るんだ! それをこんなゴシップじみた告発なんかに使って……!」 「…………」  小森は無言だった。後ろ姿だけでも、彼女が反省していないのが伝わってくる。 「すみません、経理の部長ですよね。営業の新谷と言います」 「は!? 悪いけど今取り込み中……あ」  どうやら部長は朝陽が告発された人物であると気付いたらしい。見てはいけないものを見たような目で見られたが、そんなことはどうでもいい。 「そこの小森さんに話があります。ちょっとお借りしていいですか」 「い、いやでも、今彼女とは社内ツールの私的利用について話していて」 「すぐに終わります。お願いします」 「…………」  朝陽は小森と距離を取りながらまっすぐに見た。前に見た時より化粧がけばけばしくなった気がする。 「……見てくれました? 新谷さん」 「見たよ。あんなことされると思わなかった」 「……ふ、ふ」  小森がケタケタと笑いだす。やはり彼女は反省などしていなかった。 「笑っちゃいますよねえ。新谷さんに不倫なんてさせるわけにはいかないって言ってた津島さんが、まさか不倫相手だったなんて」 「…………」 「私に偉そうに説教垂れてたくせに、自分は新谷さんに手出してたんですよ。男って馬鹿ですね」  小森はひどく楽しそうだ。社内のチャットツールを使ったこともふたりの関係を公衆に晒したことも、悪いことだと思っていない。 「でも、一番許せないのは新谷さんです」  彼女の目がぎろりと鋭くなる。その目には憎しみが宿っていた。 「奥さんしか好きじゃないって言ってましたよね? それで私を振ったくせに、あの男と不倫ってどういうことですか? 私に嘘つくなんてひどいじゃないですか」 「……だから、オレ達を晒し上げたのか?」 「はい。ふたりとも不倫は許されないってわかっててやったんですから、社会的な制裁を加えられて当然でしょう?」  つまり、彼女は振られた恨みで以ってストーカーをし、朝陽と一郎を憎んだのだ。彼女の暗い憎悪に恐れを感じながら、朝陽は小森を改めて見据えた。恐ろしいからと言って、立ち向かわない理由にはならない。 「不倫はしてない」 「……は?」 「あんたの勘違いだ。オレも一郎も、不倫なんてしてない」 「っ、何言ってるの!? ちゃんとここに証拠があるのよ!? どう見たって不倫────」 「だから不倫じゃない。オレたちは結婚してる。夫婦だ」  朝陽の言葉に、周囲の人間がざわつく。小森は朝陽の言っていることを信じられないと顔を引きつらせている。 「お、男同士で結婚できないでしょ!?」 「住んでる区のパートナーシップ制度を使って入籍した。オレたちの関係は役所が認めてる。総務もそのことを知ってる」 「な、な……!」  どうやら結婚相手の事実は彼女のキャパシティを超えたらしい。小森は頭を抱えて震え出した。 「嘘……嘘、嘘に決まってる! 不倫だって思われたくないから嘘ついてるんでしょ!? そんなの信じるわけない!」  取り乱す様子を見て、彼女は決定的な証拠を見せないと真実を拒否すると思った。だから朝陽は私用のスマートフォンを取り出して、フォトウェディングで撮ったタキシード姿の写真を見せた。 「これで満足か。こんな写真、不倫関係で撮れるわけないだろ。それでもまだ信じないって言うなら役所に問い合わせてもらっていい」 「……!」  タキシードを着て幸せそうに微笑むふたり。それは誰がどう見ても、婚姻関係にあるカップルの姿だ。記念にと撮った写真がこんなところで役に立つとは思わなかった。 「あ、あ……」  小森がへなへなとへたり込む。絶望しているところ悪いが、彼女にはやってもらわなければいけないことがあった。 「朝陽っ!」  彼女が放心状態でいるところに、一郎が駆け込んできた。心配してきてくれたのだろう。 「津島、会社で下の名前呼ぶな。小森さん、今すぐ社内チャットに訂正文を出してくれ。オレたちは不倫関係じゃなくて、ちゃんと結婚してるって」 「ちょ、ちょっと君! 社内チャットの私的利用は」  経理部の部長が口を出してくる。だがここは譲れなかった。 「わかっています。けど今すぐにでも訂正してもらわないと、オレとパートナーの社会的信用は失われたままです。彼女が情報を発信したんだから、彼女が訂正すべきです」 「…………」  小森は動かない。動けないのだろう。だが朝陽は一郎の名誉を傷つけた彼女を許すわけにはいかなった。 「今ここで訂正しないなら、侮辱罪であんたを訴える」  侮辱罪、という言葉に彼女がびくりと震えた。まさか告発をしたつもりが自分が制裁を受ける側になるとは思わなかっただろう。 「訂正してくれ、早く」  冷たい声で催促すると、彼女は震えた手でスマートフォンに文字を打ち込み始めた。数分して、社内チャットにメッセージが投げられる。 『新谷さんと津島さんは不倫関係ではなく、婚姻関係にあります。訂正します』  謝罪もない、それだけの文章だった。 「……オレの話は終わりました。彼女の処分はそちらにお任せします。津島、行くぞ」 「……朝陽、それだけでいいの。ストーカーまでされて、晒されたのに」 「いいから。これ以上追い詰めても意味ないだろ。昼飯まだなんだ。早くしないと昼休みが終わる」  彼女に一瞥もせずに経理部を後にする。社員食堂までの道、並んで歩く朝陽と一郎は変わらず好奇の目に晒されたが、下劣なものを見る視線は少なくなっていた。 「……ろくな説明せずに置いてって悪かった、日浦。オレと津島は結婚してるんだ」  社員食堂で日浦と合流して、改めて関係を告白する。彼は宇宙に放り出された猫のような顔をしていた。 「け、っこん」 「……ああ」 「だって、新谷さんの奥さんって癒し系のふわふわした彼女さんじゃ」 「朝陽、俺のことそんな風に言ってたの?」 「……日浦、オレは結婚相手のこと、一度も奥さんとも彼女とも言ってない。相手は津島なんだ」 「え? あ……たし、かに……?」  日浦はまだ宇宙から帰ってこれていない。早く食わないと時間無くなるぞと言ったが、事実を受け止めるのに脳が追い付いていないのだろう。 「朝陽、トマト食べようか?」  一郎がほら、と皿を寄せてくる。朝陽のサラダの皿には赤いプチトマトがふたつ綺麗に残っている。 「……津島、名前で呼ぶなって言った」 「もうバレたんだからいいかなあって」 「オレは公私混同したくない」 「さっき公私混同してたじゃん。かっこよく俺の名誉を挽回してくれたのしっかり見たよ」 「…………食べて、くれるなら」  これは公私混同ではなく、ただ提案を受け入れただけ。そう言い訳をして言葉を返した。 「うん、いいよ」  一郎の皿にプチトマトを移動させる。いつの間にか宇宙から戻ってきた日浦が、その様子をじーっと眺めていた。 「新谷さんが……甘えてる……。え、トマト食べれないんですか?」 「食べられないわけじゃない。その気になればいける」 「生が苦手なんだよね。ミネストローネとかはよくリスクエストしてくれるのに」 「津島さんが作るんですか!? ミネストローネとか超おしゃれじゃないですか!」 「いや、野菜切ってトマト缶入れるだけの適当料理だよ?」  先程の事件が嘘であったかのように和気あいあいと会話が続く。朝陽と一郎の正しい関係は社員食堂にいる全員が知っていて、彼らは新婚ふたりの会話に臆せず入る日浦を、将来大物になると心の中で尊敬した。  その日から、朝陽と一郎は社内公認のカップルとなった。

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