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第二章 第二十一話 口を埋めるなら

口を埋めるなら 「そういえば一郎、煙草吸わないのか」  土曜の昼間、朝陽はソファに座りながらふと思い出したことを口にした。 「タバコ?」 「オレが過呼吸になった時にトイレで煙草吸ってただろ。喫煙者なのかと思ってたけど、付き合ってる時も結婚してからも吸ってるところ見たことがない」  朝陽が過呼吸になってトイレに駆け込んだ時、確かに一郎は煙草を吸っていた。だが喫煙しているのを見たのはその一回限りで、家で煙の匂いがしたことはない。何度も触れ合っているのに彼自身から香りを感じたこともないので、もしかして朝陽に遠慮して我慢しているのかと思った。 「あー……えっと、タバコはたまにしか吸わないんだよね」 「……? 煙草って中毒性あるんだろ、よく我慢できるな」 「うーん、俺の場合、タバコの味とかが欲しくて吸ってるわけじゃないんだ。おいしいって思ったことないし」  朝陽は全く煙草を吸う機会がなかったので、煙草の味など当然知らない。味が美味くないのなら、なんのために吸っていたのだろう。  隣に座る一郎は昔を懐かしむように目を細めて、ふうと息を吐いた。 「昔、先輩にタバコ教えてもらって……お前もちょっと悪いこと覚えてみろって言われたんだ。その時に初めて吸って、なんかほっとしたんだよね」 「ほっとした?」 「うん。なんか口に咥えてるのが安心したんだ。でも味は苦手だったから何本も吸えなくて」 「……へえ」 「調べたらタバコって口寂しいからやる人が多いらしくて。普段は全然吸いたいとか思わないんだけど、年に一回とか二回、ストレス溜まった時にどうしても吸いたくなるんだ」  匂いも苦手なのに不思議だよねえ、と一郎は苦笑する。 「なら、普通に喫煙所で吸えばよかっただろ。なんでコソコソ隠れてトイレで吸ってたんだ?」 「んーとね、喫煙所って交流の場でもあって、タバコ吸いながら雑談とかするんだよね。で、仲良くなると喫煙所で待ち合わせるのが当然になって。俺はいつも吸いたいわけじゃないから、そのコミュニティに入るのは気が引けたんだ」 「ふーん……」  前にデザイン部が修羅場だった時に一郎からは煙草の匂いがしなかった。あの時は吸わなかったのだろうか。 「この前は吸ってないのか? ほら、三日家に帰らなかった時」  朝陽が差し入れに入ったあの時は相当のストレスが溜まっただろう。あのタイミングで吸っていてもおかしくない。 「え? あー……確かに吸ってないや。なんでだろ」  どうやら一郎自身にも理由がわからないらしい。ううんと首を捻っている姿を見て、その可愛らしさに思わずくすっと笑ってしまった。 「あ、わかった! 朝陽とキスしたからだ」 「……は?」 「ほら、内緒でキスしたでしょ? あれでストレスも口寂しさも解消されたんだよ」  朝陽ってすごいね、と朗らかな笑み。朝陽は就業時間中にあんなことをしてしまったのを思い出して、ぶわわと顔を赤に染めた。 「っ、っ……!」 「俺もうタバコいらないかも。朝陽とキスする方が気持ちいいし、嬉しいし」  一郎が慈しむように朝陽の髪を撫でる。彼のストレス発散になるのならいいのだが、また会社でキスをされたら困る。いくら関係がバレたからといって、睦み合いをどこでだってしていいわけではない。 「……ストレス溜まったら、早めに言ってくれ……その、時と場所さえ考えてくれればキスするから」  キスひとつで一郎のストレスがなくなるのなら安いと思ってしまう辺り、朝陽はどうしようもなく一郎に甘い。 「ふふ。すっごい嬉しい。けどね、朝陽」  おいで、と一郎が朝陽を膝の上に導く。彼の言う通りにそこに座ると、腰をホールドされて甘やかなキスが何度も与えられた。 「俺はストレス解消したいからキスするんじゃないんだ。朝陽が大好きだから、いーっぱい幸せにしたいから、甘やかしたいからキスするんだよ」  だから朝陽も俺にキスしたくなったらいつでもどうぞ。ふにゃりとした笑顔でそう愛の言葉を紡がれて、心臓がきゅうと音を鳴らした。 「……オレ、も」 「うん」 「オレも、好きだから、キスしたい……」 「じゃあしてくれる? 朝陽のキスでいっぱいにして」  一郎がそっと目を閉じたので、形のいい薄い唇に唇を重ねる。彼が二度と口寂しいなんて思わないように、深く、深く。  それに、煙草は健康を害するものだ。彼に長生きしてもらうためには、吸うのをやめてもらう方がいい。朝陽は自分の口づけが彼の生を伸ばせるのなら、まるでそれは魔法のようだと思った。  数時間後、家のゴミ箱にはほとんど新品の煙草が捨てられていた。

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