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第二章 幕間 人に成った男

幕間 人に成った男    ──夢を見る。  一面真っ白な空間の中に一郎は立っていて、それ以外には何も存在していない。無窮の零が続く世界で、一郎はこれが夢であると自覚していた。明晰夢、というやつだろうか。 「……ここは……」 『お前は、人にしては優しすぎた』  どこからか聞こえてくる声。世界の理を司っているような、そんな厳かな声だった。 『無償の愛。お前は幼い頃からそれを持っていた。多くの人に与えた。自分の幸福は他者を幸せにすることだと、信じて疑わなかった』 「…………貴方は、誰なんですか? お名前は?」 『好きに決めるといい。我が名は対話に不要だ』 「……じゃあ神様って呼びますね」  仮の名前に執着せず、神は淡々と言葉を続ける。 『お前は満たされていた。だが──お前は、変わった』  神の声に、少しだけ哀愁が混じった。 『ひとりの人間を求めた。ひとりの愛を独占したいと願った。ひとりのためならば他を害しても構わぬと言った』 「……そう、ですね」  確かに一郎は変わった。朝陽と出会うまでも個人と付き合うことはあったが、その愛情を独り占めしたいとは思わなかった。大学一年生の時に付き合っていたひとりは、こんな言葉を一郎に残した。 『一郎君、私のことどうでもいいんでしょ。私が怒っても不機嫌でも、いつも変わらず笑ってる。いつも変わらず優しくしてくれる。それって、私に心が動いてないってことでしょ』  彼女のことは好きなつもりだった。自分に愛情を向けてくれた分、返したいと思ってできる限りのことをした。だが彼女は、『皆』を幸せにしたいという一郎の本質を見抜いていた。 『お前の個としての欲望は、周囲の人間全てを幸せにしたいという願いと相反することもあろう。──お前は世界よりひとりを選んだ』 「はい。オレは朝陽を選びました」  まっすぐにそう答える。朝陽と距離が縮まって、結婚をして。その中で自分がどんどんと愚かになっていく自覚はあった。嫉妬をし、独占し、朝陽に耽溺する日々。かつでの自分であったのなら、きっと嫉妬などしなかった。  だが朝陽だけは特別だったのだ。誰よりも幸せにしたい。甘やかしたい。一郎だけを見て、共に生きて欲しい。彼といるとそんな欲望が溢れてくる。 『無償の愛を、取り戻したいか?』 「……え?」 『願うのならお前をかつての状態に戻してやろう。新谷朝陽は周囲の人間のひとりに戻り、お前は誰もを幸せにできる。──世界を、幸せにできる』 「…………」  優しいだけの、自分に戻る。そんなこと考えもしなかった。どろどろとした執着も、朝陽を傷つけられた時の怒りもなくして、ただ、朗らかに。全ての人間の幸せを願うだけの、菩薩に。  そんなもの、答えは決まっていた。 「──いえ、俺は今のままがいいです」 『今のお前は昔よりも感情に振り回されている。それは苦しくないのか? ひとりの人間に執着し、振り回される人生の方がいいと?』  確かに苦しいのかもしれない。もっと汚い自分の感情と向き合うことになるかもしれない。誰かひとりを愛さずに皆を幸せにすることの方が正しくて、朝陽だけを特別扱いするのは間違いなのかもしれない。それでも。 「俺は朝陽と一緒にいる自分の方が、人間らしくて好きなので。それに朝陽を甘やかすの、もう止められないです。世界で一番可愛くて大事な人だから」  彼との日々は、何よりも甘くて、あたたかくて。彼という存在を抱き締めているだけで、胸が幸福で満たされていく。それを全て無くして生きていくなど、選択するはずもなかった。 『……そう、か。お前は、人に成るか』  神が微笑んだような気がした。浮遊感が身体を包んで、夢が終わっていく。  目が覚めたら、一番に朝陽を抱き締めよう。そして、愛していると伝えたい。  一郎は、ゆっくりと目を閉じた。  意識が覚醒して、ふたり用のベッドから身を起こす。 「……あさひ」  寝起きのぼけっとした頭で、隣のパートナーの寝顔を見つめる。いつもかっちりとセットされている前髪は下りていて、いつもよりあどけない印象を受ける。 「かわいい……。おはよう」  ちゅ、と朝陽の前髪に口づけを落とす。安心して寝てくれているのはいいことだけれど、早く目を覚ましてその美しい翠色の瞳で見つめて欲しい。 「ねえ朝陽、大好き、愛してるよ。他の誰より、世界より、朝陽のこと愛してる」  彼が目覚めたら改めて伝えるが、それでも今言いたかった。一郎はいつかの誓いの通り、世界より朝陽を選んだのだと言葉にしたかった。 「ん…………」  朝陽はすやすやと眠っていて、まだ起きる気配がない。しばらくはこの世界で一番愛らしい寝顔を見つめていようと、一郎は肘をついて穏やかに微笑んだ。

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