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第二章 第二十五話 痛み

※暴力表現あります。シリアスです。暫くシリアス続きます。 痛み  その日は、一郎と共に帰る約束をしていた。会社公認の仲になってから一郎は一緒に帰ることを希望した。朝陽は公私混同だと言ったが、就業時間を過ぎたらもうプライベートじゃないの、と寂しそうな顔で言われて了承をしてしまったのだ。 「津島」  デザイン部に赴いて顔を出すと、一郎は部下と何か打ち合わせをしていた。まだ仕事が終わっていないのだろうか。 「あ、あさ……新谷、ごめんね。まだちょっと仕事片付いてなくて。時間かかりそうだから、よければ先帰ってて」 「ああ、わかった。あんまり無理するなよ」 「相変わらずラブラブですね、おふたり!」 「ふふっ、否定はしないなあ」 「……あんまり会社でそういうこと言うな。じゃあな」 「ごめんね、なるべく早く帰るから!」  デザイン部を後にして、本社のビルを出る。空から白がちらちらと降っていて、そういえば関東でも雪が降ると予報していたと思い出した。 「早く帰ろ……」  こういう日はいつも通っているルートより、少し暗い近道のルートの方がいい。朝陽はサラリーマンたちが行く道から外れて、裏道を歩き出した。  雪が地面に当たって溶けていく。これなら積もることはないだろうと思っていた、その時。  誰かに、身体を引っ張られた。 「っ!?」  引っ張られた方を見ると、覚えのない高級そうなスーツを纏った男が朝陽の腕を掴んでいる。作り物のような綺麗な笑顔が、なぜか怖いと感じた。 「新谷朝陽くんだよね?」 「っ……!? だ、れだ、離せっ!」 「大丈夫、少しお話ししよう」  朝陽は抵抗したが、男の力は強くずるずると引きずられていく。朝陽は公園のトイレに連れ込まれ、壁に叩きつけられた。 「痛っ……!」  朝陽を連れ込んだ男の他に、チンピラが四人。カツアゲだろうか。だが、男は朝陽の名前を知っていた。 「じゃあ改めて初めまして、新谷朝陽くん。俺たちは佐神組のもんなんだけど、ちょっと君にお願いがあってさ」 「組……? ヤクザ……?」  ヤクザに名前を知られる覚えなどない。暴力の匂いがする男たちに囲まれて、朝陽は恐怖を覚えた。 「そう。あのね、君に離婚して欲しいんだ」 「……は?」 「君、津島一郎くんとラブラブの新婚なんだってね? それに納得いかないって人がウチにお願いしてきたんだよ。だから別れてくんねえかな?」  男はにこやかな笑みでそんなことを言う。朝陽はふるふると首を振った。 「い、嫌だ」 「あらら、駄目?」 「別れたく、ない、だって、俺は一郎と」 「んーそっか。お願いが駄目ならこうだ」  男はにこやかな笑みのまま、朝陽の腹に勢いよく膝をめり込ませた。 「がっ……!?」  激しい痛み。げほげほと咳き込んでうずくまるが、周りの男たちが朝陽を無理やり立たせた。 「っ、ぅ、ぐっ……!」  男は作り物のような笑みを浮かべたまま、楽しそうに容赦なく顔を殴り、蹴りを入れてくる。何度も、何度も、何度も。頬を強く殴られた時、鉄の味がして口の端から赤が零れた。 「ぁ、ぐぁっ! や、め……!」 「だってさあ、朝陽くんが別れるって言ってくれないから仕方ないでしょ?」  ──痛い、痛い、いたい。なんで、どうして、俺がこんな目に?  人生で味わったことのない一方的な暴力。朝陽は耐えきれず、ぼろぼろと涙が溢れた。 「っ、は、っひ、ぅ、っ…………」 「あらら、泣き出しちゃった」  もうどれほど傷がついただろう。打撲の痛みが全身を襲う。もうトイレに連れ込まれてどれだけの時間が経ったのかわからない。 「痛いよなー? 嫌だよな?」  男の問いかけに、こくこくと頷く。一刻でも早くこの地獄から解放されたかった。 「じゃあ別れるって一言言えばいい。スマホ出して旦那に電話かけて、さよならって言うだけだ。簡単だろ?」  解放されたい、けれど。それだけは。世界で一番朝陽を愛してくれて、朝陽に愛させてくれるあの男の、一郎の手を、離すことだけは。 「……わ、かれないっ……っぐすっ……いちろ、と、いっしょに、いたいっ…………」  どんなに痛め付けられても、一郎を選ぶことだけは譲れなかった。一郎は朝陽の大切な人で、なによりも幸せにしたい人だから。 「うーん、言うこと聞けない子は指折ろうか」  男はにこっと笑みを深めて、朝陽の左の薬指を持った。そして。  ボキンッ、と、音が鳴った。瞬間、薬指から感じたことのない激痛が走る。 「あ、あああああっ!? いた、いたいぃっ…………!」  指がぷらんと力なく垂れている。骨を折られたという事実を認識できず、朝陽は絶叫することしかできなかった。 「ぅああ、あああぁっ……!」  指が痛い。全身も痛い。全てが熱くて、痛くて、痛くて。朝陽の五感は全て痛みに支配されていた。 「指折られるなんてカタギじゃ経験しないもんなー。痛かったよな?」 「ぁ、ぁあ……っ、ひっ、ぅあぁっ……あぁあっ……!」  男は整った笑みを崩さぬまま、朝陽の顎を掴む。 「俺も部下がいる手前、カタギに舐められてるところ見せらんないんだよ。だからわかったって言ってくんないかな。もう一本指逝かないとわかんない?」  男がきゅっと中指の先を摘まむ。また折られる──そう理解して、朝陽はいやだ、と泣き叫んだ。  ──怖い、死ぬ、怖い、怖い、怖い! 「いや、いやだっ……助けてっ……!」 「じゃあ離婚しよう。そしたら痛いことしないから。約束する。な? これ以上やったら朝陽くん死んじゃうかもよ?」  口調はどこまでも優しい。子どもに言い聞かせる兄のようだ。けれど、男の言葉には容赦のない裏社会の人間の残酷さが滲み出ていた。身体の震えが止まらない。この男は本当に朝陽を殺せる。そう思った。  それを受けて、朝陽は。 「……っ、いちろう、と……いっしょに、いるって、やくそく、した…………わかれ、ないっ…………」  一郎を、選んだ。確かに死ぬかもしれない。それでも一郎を手放すことだけはできなかった。朝陽の唯一、朝陽の幸福、朝陽の愛は、死んだとしても。 「……ふーん」  ボキリ、と中指が悲鳴を上げる。 「ああああああっ!」  朝陽は再度の激痛に絶叫した。指がどうしようもなく熱くて、痛い。男は朝陽を見て、うんうんと頷く。 「カタギにしちゃ芯が通ってていいじゃん。朝陽くんの心を折るのにはあのはした金じゃ足りないな。来たのが俺でよかったね」  男は部下に朝陽を解放するよう命じる。拘束が解けて、朝陽はトイレの床に仰向けに倒れこんだ。 「ぁ……ぁ、あ……」 「もっと金積まれたらまた来るよ。その時は手の指全部折ってあげるから楽しみにしてて、朝陽くん」  男たちが去っていく。残されたのは痛め付けられた朝陽だけ。 「っ……いた、いっ……いたい、いたいっ……っう、っ……!」  ──いちろう、たすけて、いちろう……。  朝陽は痛みに喘ぎながらスマートフォンを取り出して、一郎に電話をかける。 『…………はい。もしもし、朝陽? どうしたの?』 「っい、ちろ……たすけ……たすけて……」 『朝陽……? どうしたの、何かあったの!?』  泣きじゃくっている朝陽の声にただ事ではないと察したのか、一郎の声に焦りが混じる。 「ヤクザ、に……殴られて……ゆび、おられて……離婚、しろって、おどされてっ…………」 『ヤクザ……!? 指折られたって何!? 朝陽今どこにいるの!?』 「かいしゃ、帰る途中の……裏道の、こうえんの、トイレっ…………いちろう、たすけてっ……いたいぃっ……」 『っ、すぐ行く! 待ってて!』  痛みのあまり意識が遠退いていく。朝陽は初めて己の死というものを身近に感じて、恐怖を覚えた。 「いち、ろ……いち、ろう…………」  痛みがあるところは熱いのに、身体は冷えていく。目の前にははらはらと降ってくる雪が見える。いつの間にか白は少しだけ地面に残っていて、朝陽が長時間拷問を受けたことを示していた。  視界が霞む。もうスマートフォンを持つこともできない。 『朝陽、朝陽っ!?』  意識を失う直前に、一郎の呼び声が聞こえた気がした。      

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