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第二章 幕間 無力

※シリアスです。怪我表現あります。 幕間 無力  走る。一郎は自分が出せる限りの全速力で、ただひたすらに足を動かした。 「っは、は……!」  息が苦しい。こんなことなら普段から鍛えておけばよかった。一秒でも早く朝陽の元に向かいたいのに、公園への道のりがいつもの何倍も遠く感じた。  ようやく公園にたどり着き、男子トイレの入り口に立つ。 「っ……!」  入り口から、人間の足が床に投げ出されているのが見えた。見慣れたすり減っている黒の革靴。一郎はひゅっと息を飲んだ。 「朝陽ッッ!」  トイレに入ると、そこにはスーツに赤い染みを作っている朝陽の姿。どれだけ殴られたのだろう、染みは数えきれないほどあって、露出している皮膚は打撲痕が見受けられた。 「あ、さひ」  呼んでも、朝陽は答えない。美しい翠色の瞳を瞼の内側に隠したまま、ぴくりとも動かなかった。 「朝陽……朝陽っ!」  駆け寄って彼を抱き抱え、何度も身体を揺さぶる。彼の身体が熱いのは殴られたところが熱を持っているからだろうか。 「朝陽起きてっ! 朝陽、朝陽っ! 目開けて、朝陽っ!」  朝陽は起きない。何度も殴られたであろう頬は紫色に変わっている。  ──朝陽が、死んじゃう。  一郎の身体を、感じたことのない恐怖と絶望が包み込む。愛する人が、理不尽な暴力によって今まさに命を奪われようとしていた。 「あ、さひ、お願い、起きて……起きて、朝陽っ……!」  何度呼び掛けても、何度願っても朝陽は起きない。彼はいつも一郎の願いを仕方ないという顔で叶えてくれる。それに縋って、何度も、何度も。 「死なないで朝陽、朝陽、朝陽っ……!」  彼のスマートフォンが目に入って、一郎はようやく救急車を呼ぶという手段を思い出す。震える手で自分のスマートフォンを取り出した。平時ならすぐに思い出せるはずの一一九を思い出せなくて泣きそうになる。 『もしもし、救急ですか、火事ですか?』 「っ、救急です! パ、パートナーが殴られて、意識がないんですっ……! 何度呼んでも起きなくてっ……! 今すぐ来てください!」 『場所はどこですか、住所はわかりますか?』 「住所……住所は……えっと……!」  公園の住所など知らない。救急車が駆けつけなければ朝陽が死んでしまうのに。一郎は完全にパニックに陥っていた。 『住所がわからなければ大丈夫です。どんな情報でも構いません。近くの建物などで特徴的なものなどありますか?』 「と、特徴はわからないですけどっ……俺が勤務してる会社の本社ビルすぐ近くの公園です……!」 『ではその会社を教えてください』 「は、はい、株式会社────」  電話口の男は混乱している一郎から的確に情報を得ていく。すぐに駆けつけるから傷病者の身体を冷やさないようにと言われ、コートも着ずに飛び出した一郎は朝陽の身体を強く抱き締めた。 「朝陽、朝陽……死なないで、お願い……お願いだから……朝陽……!」  朝陽は目覚めない。どれだけ一郎が願っても、何度名前を呼んでも。  大切な人が傷ついている時に、一郎は傷を癒すことができない。己の無力さに震えながら、一郎はずっと朝陽の名を呼び続けた。 「…………」  玄関のドアを開ける。家には誰もいなくて、しいんと静まり返っている。 『おかえり。飯買ってあるぞ。先に風呂入るか?』  今日も帰ったら、朝陽がそんなことを言ってくれるはずだったのに。 「………………」  電気をつけて、部屋に鞄を置いて、シャワーを浴びる。朝陽の血がべっとりとついた服はごみ袋に突っ込んだ。冷蔵庫を開けて、ちょうどひとり分余っていた肉野菜炒めを見つける。それをレンジで温めて無言で食べ始めた。  ──俺、何してるんだろう。  病院に運ばれた朝陽は手術を受けて峠を越えた。本当はずっと傍にいたい。けれど、彼はそのまま入院となり面会時間はとっくに終了していた。更に感染症対策の観点から、気軽に面会は出来ないとのことだった。朝陽が目を覚まし次第、すぐに連絡をしてくれるらしい。  朝陽はまだ目を覚ましていなくて、あんなにもボロボロなのに、自分は当たり前に家に帰って、シャワーを浴びて、食事を摂っている。それがひどく薄情に思えた。ドラマや映画では恋人が重態の時は、その手を握って泣き続けるのがセオリーなのに。 「……あさひ」  悲しくないわけがない。悲しすぎるあまり、ただ機械的に身体を動かしているだけ。だが一郎はそれを自覚していない。 「ご飯って、ちゃんと喉通るんだ……」  肉野菜炒めの味はしっかりと感じられる。  ──ああ、最低だ。朝陽は起きてないのに、俺は、普通に生きようとしてる。朝陽が殴られてる時に、何も知らないで、仕事してた。遅い時間に、朝陽をひとりで帰らせた。一緒に帰ってれば朝陽は殴られなかった。死にかけるのは俺がよかった。俺が、俺が傷つけばよかったのに、なんで。  後悔と自責が永遠に頭を占めながら食事を摂る手はそのままだった。それが防衛本能による行動だと気づかないまま、一郎は己を責め続ける。  鳶色の瞳には、少しの光も無かった。        

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