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第二章 第二十六話 涙

涙  痛い。痛い。上半身がずっと痛みを訴え続けている。この痛みをどうにかしたくてゆっくりと目を開けると、清潔な天井が視界に映った。 「…………」  身体がうまく動かない。目の動きだけで周囲の状況を確認する。白のベッド、点滴、個室らしき部屋。 「びょう、いん」  おそらくここは病室だ。朝陽はどうして自分がこうなっているのか記憶を手繰り寄せる。昨日は帰り道に公園に連れ込まれて、ヤクザに殴られて。一郎に助けを求めた辺りまでしか覚えていない。きっと彼が救急車を呼んでくれたのだろう。 「いちろう……? ッ痛……」  呼んでも返事は返ってこない。朝陽は病室にひとりきりだった。しいんとした空気が寂しく感じる。  それにしても痛みのせいで全く身体が動かない。苦しみに喘いでいると、ドアの向こうから声がした。 「新谷さーん、入りますよー」  入ってきたのは二十代のナースウェアを着た男性。看護師だろうか。 「あ、起きましたか! よかったです。ご自分のお名前言えますか?」 「し、新谷朝陽です。あの、ここは……病院、ですか?」 「ええ。都立柳見総合病院です。新谷さんは三日前の夜にここに運ばれて手術を受けたんですよ」 「三日!?」  気を失ったのは昨日ではなかったのか。そんなにも自分は重症だったのかと驚きを覚える。 「先生を呼んできますね。痛いところはありますか?」 「ぜ、全身痛いです……」 「わかりました。痛み止め打てるか確認しますね。何かあれば枕元のナースコールを押してください」  見ると、枕元にボタンのようなものがある。これが本物のナースコールか、と思いながら、殴られた腹の痛みに顔を歪ませる。  男性が去って行って、朝陽は大きなため息をついた。あのヤクザは金で雇われたと言っていた。また金を積まれたら再び現れる、とも。その時はきっと生きられないだろう。  いや、それよりヤクザは一郎の名前も知っていた。彼は無事だろうか。一郎がこの理不尽な暴力に晒されるのは自分の傷以上に耐え難い苦痛だった。 「一郎……」  彼の名前を呟く。結婚してから顔を合わせないことなどなかった。一刻でも早く、彼の笑顔が見たかった。  医師の説明によると、朝陽の怪我はかなり酷いものらしかった。出血量がひどく輸血をしたという。痛み止めを点滴で打ってもらうと多少痛みは和らいだが、それでも完全になくなったわけではない。  朝陽のスマートフォンは電池が切れていた。病院の売店で買ってきてもらった充電器に繋いで充電を待つ。本も何もないのでやることがない。朝陽は一郎の無事を祈りながら、ただひたすらに窓の外を眺めていた。  ふと、急いた足音が聞こえたかと思うと、勢いよく病室のドアが開いた。 「朝陽っ……!」  そこにいたのは、息を切らした一郎だった。今日は平日の昼間だ。仕事を放り出してきたのか。 「いちろ、」 「っ……!」  朝陽が名を呼ぶよりも前に、一郎はがばりと朝陽に抱きついた。そして強く強くその身体を抱き締める。 「う、ぁ、うぁあああああああああっ……!」  病室に響く嗚咽。一郎はぼろぼろと涙を零して朝陽に必死に縋る。何度も何度も身体を抱き締めて、ただただ泣き続ける。 「あさひ、あさひっ……! っ、あああぁ……!」 「一郎、いちろう」 「あさひが、死んじゃうかと思ったっ……! あさひ、あさひ、あさひぃっ……!」  こんなにも取り乱した一郎は見たことがない。だがその体温に包まれて、朝陽はようやく自分が死にかけたのだと恐怖を覚えた。 「おれ、も、死ぬかと、思った……」  視界に水の膜が張る。朝陽は一郎を抱き締め返して、温もりに身を預けた。 「こわ、かった……いちろう、いちろうっ……! いたかった、こわかったっ……!」 「あさひっ……あさひ、朝陽っ……!」  互いを求めて、強く強く抱き締め合う。あの寒空の下の冷え切った空気はどこにもない。身体の痛みはどこかへ行ってしまった。  ふたりは家族に説明があるとやってきた看護師に怪我人を強く抱き締めないようにと怒られるまで、ずっと身体を離さなかった。

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