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第二章 第二十七話 そしてしばしの別れ
そしてしばしの別れ
「お前、ちゃんと寝てるか?」
互いにようやく涙が止まって、一郎の顔をじっと見た。気のせいでは片付けられないほど目の下にクマができている。
「……あはは、えっと…………」
「まさか飯も食べてないとか言わないよな?」
「ご飯は食べてるよ。けど……どうしても眠れなくて。寝てる間に朝陽に何かあったらって思うと……」
痛い右腕をどうにか動かし、疲れた顔の彼の頭を優しく撫でる。
「俺はもう大丈夫だから、ちゃんと寝てくれ。お前まで倒れたらどうするんだよ」
「……うん」
「なあ、一郎はヤクザに追われたりしてないか? あいつら、お前の名前も知ってたんだ」
「いや、そういう人は全然……。朝陽が病院に運ばれた後警察に事情聴取されたんだけど、ヤクザが相手って言ったら家の周り私服警官が警備してくれてる」
「そっか……警官がいてくれるなら安心か……よかった」
はあ、と安堵の息を漏らす。彼が害されるようなことがなくてよかった。
「……朝陽、ごめんね」
一郎の顔が苦しそうに歪む。憎い何かを見つめるように、彼は自分の手のひらに視界を落とす。
「俺が先に帰ってって言わなければ、一緒に帰ってれば、朝陽が傷つくことなかった……」
「っ、一郎、それは」
「俺が殴られればよかった……朝陽が殴られてるのに何も知らないで仕事して……朝陽が起きた時も傍にいないで仕事してた……最低だ」
一郎がそんなことを言うなんて。彼は朝陽が襲われたことを全部自分のせいだと思っているらしい。
「っ、馬鹿! お前がこんな風に殴られたら俺は嫌に決まってるだろ! それにこれは、お前のせいでも何でもない! お前が俺を傷つけたわけじゃないんだから!」
「でも俺は一生許せない。あの日朝陽をひとりで帰らせた自分が、絶対に許せない……!」
一郎は顔を俯かせて身体を震わせる。今回の一件は、彼に消えぬ傷を負わせてしまった。
「一郎っ……痛っ!」
ズキリと腹の痛みを感じて身体を曲げる。一郎ははっと顔を上げて、朝陽の背中をさすった。
「っ、看護師さん呼ぶ?」
「いや……一瞬傷んだだけだから……大丈夫。それより一郎、抱き締めてくれるか」
彼に願うと、そっと温かな体温に包まれる。それだけで少し傷が治っていくような気がした。
「一郎、辛い思いさせてごめん」
「一番辛くて痛かったのは朝陽でしょ……俺は何もしてない、できなかった」
「馬鹿、俺が泣いたら急いで駆けつけてくれたし──なにより、こんなに大事にしてくれてるだろ」
それだけで、朝陽は充分なのに。一郎がいてくれるだけで、朝陽は世界で一番の幸せ者なのだから。
「朝陽のこと大事にするのは当たり前だよ。世界で一番大切な人だもん」
「……それ、もっと言ってくれるか?」
怪我をして精神も弱っている。今は一郎の甘い言葉で癒されたかった。
「世界で一番大切。好き、大好き、愛してる。世界じゃ足りない、この世で一番大事。俺だけの朝陽。世界で一番かわいい」
「……ふっ」
次々浴びせられる言葉に身体がくすぐったくて、けれど満たされていく。顔にいくつも小さな口づけが降ってきて、やがて唇を食まれる。
ようやく触れられた。死にゆく最中は傷が熱いのにひたすら寒くて、一郎の体温が恋しかった。柔らかな感触に溺れて、朝陽は一郎の背中に腕を回す。
「新谷さんのご家族様、面会時間終了ですよ」
ドアの向こうからそんな声が聞こえる。朝陽はそっと唇を離して、一郎の腕の中から抜け出す。
「じゃあ、またな」
「……せっかく、会えたのに」
入院に関する説明の中、感染症対策でそう何度も面会をすることはできないと看護師が言っていた。きっと面会はこれきりか、あって一回だろう。
「今生の別れみたいな顔するな。俺だって寂しい」
「…………うん」
「毎日電話するから、お前もちゃんと食べられたかと眠れたか報告しろよ。わに次郎抱いたらきっとよく眠れるから」
「…………うん」
一郎がもう一度朝陽を抱き締める。その背中をぽんぽんと叩いて、彼を慰めた。
「いつでも連絡して、なんでもいいから」
「わかった」
「あと──」
「ああもう、わかったから。なにかあればメッセージくれ!」
いつまで経っても帰ろうとしない一郎を嗜める。彼はひどく寂しそうな瞳で、こくんと頷いた。
「……じゃあ、ね」
病室を出るまで、一郎は五度振り返った。それを見送ってひとりになると、病室がしんと静まり返る。
「…………本当に、寂しいな」
たった今離れたばかりなのにもう会いたくなる。今すぐ家に帰って一郎と眠りたい。
彼を抱き締めたくなって、そこらにあった枕を抱き締めてみる。けれど、清潔な寝具は温かな一郎の代わりにはなってくれなかった。
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