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第二章 第三十話 名前と太陽
名前と太陽
ガチャリと玄関のドアが開く音がして、朝陽は玄関に向かった。今日は平日だが、朝陽は怪我が完全に治るまで静養して欲しいと一郎に願われ、会社と相談して休暇を取っていた。過保護な気もしたが、怪我によって彼を心配させてしまったこと、指二本が骨折していることでパソコンを操作できないことを考えて、それを受け入れた。
「おかえり、一郎」
「ただいま、朝陽」
にへらと笑った彼の身体をぎゅうと抱き締める。今日は大寒波がやってきてとても寒かったため、彼の身体も冷えている。
「仕事お疲れ」
「うん、ありがとう」
彼を強く強く抱き締めて、その胸に顔を埋める。朝陽が甘えてきたことで一郎はひどく嬉しそうだった。
「飯買ってきてるぞ。とんかつときんぴらと……あとインスタントの味噌汁でいいか」
「うん、嬉しい。ありがとう朝陽」
朝陽は料理ができないので出来合いのものばかりだ。けれど一郎は朝陽が用意をするだけでひどく幸せそうな顔をする。
「ね、朝陽、おかえりのキスして?」
「ん……」
一郎の後頭部に手を添えて、ちゅ、と口づける。そのまま唇を食むと腰に手を回され、口づけが深くなった。やがて名残惜しみながら唇を離して、またぎゅうと抱きつく。
「お風呂、一緒に入る?」
「明日も仕事だろ……我慢できなくなるから、駄目だ」
「そっか。じゃあすぐに入ってくるから待ってて」
「こら、ゆっくり入らないと疲れ取れないだろ。ちゃんと湯船浸かれよ」
「はあい」
クスクスと笑う一郎から離れる。彼は着替えを取りに部屋に行き、朝陽はリビングに戻って読みかけだった小説をまた開いた。
食事を摂り終わったら、ふたりでリビングでごろごろと過ごすのが日常だ。定位置のソファに座ると、隣に座った一郎が身体を引き寄せてきて腕の中に閉じ込められる。
「あー、今日寒かったなあ」
「そうだな。ニュースでも大寒波が来てたって言ってた」
「あったかくなったり寒くなったりだよね。こういうのなんて言うんだっけ。さん……さんしなんとか見たいな四字熟語……」
「三寒四温?」
「そうそれ! よくすっと出てくるね朝陽」
「四字熟語の中じゃ簡単な部類に入るだろ……」
一郎の腕が腰に回ってきて、ふたりの距離が無くなる。一郎はふふっと幸せそうに笑って、朝陽の頬に口づけを落とした。
「朝陽はあったかいね。抱き締めるとぽかぽかして、胸がきゅうってなる。お日様みたい」
日向ぼっこをしている猫のような顔。朝陽からすれば、温かくて幸せを運んでくれるのは一郎の方なのだが。
「そんなこと言われたの初めてだ。昔は『朝陽』のくせに冷たいって陰口叩かれたからな」
同級生たちは努力をしない人間を見下す朝陽を当然仲間はずれにした。当時朝陽は学校の成績がこの世の全てで、友人なんて作ろうともしなかったけれど。
「……オレの名前、さ」
「ん?」
「太陽みたいに誰よりも頂点に──一番にいろって意味でつけられたんだ。他人を見下ろせる人間であれ、お前は名前に恥じないように、低俗な人間とは付き合うことがないようにしろって、父さんによく言われた……」
人を見下す人間であれ、と意味を込められてつけられた名前。それに相応しくあろうと努力を重ねて、頑張って、それでも父の愛を受けることはできなかった。そのことを受け入れてから、朝陽は自分の名前をいいものだと思えなくなってしまった。
「だから俺、この名前、名乗っていいのかなって悩むときがある……」
「朝陽」
絹のような柔らかな声。あやすように大きな手で頭を撫でられて、朝陽はうっとりと目を細めた。
「朝陽は俺の太陽だよ。いつでもあったかくて、俺のこと大事にしてくれて、傍にいるだけでこんなに幸せになる。春の陽射しみたいに、俺を抱き締めてくれる、大事な人」
「……うん」
「だから、俺だけの太陽でいて。優しくて素敵でかわいい、俺の朝陽?」
ちゅ、と唇に口づけが与えられる。彼から言葉を受け取ると、嫌だったものすら幸福に変わっていく。なれているのだろうか、一郎だけの、太陽に。
「うん……。一郎だけの、オレだから……」
すり、と身体を寄せる。互いの体温で温め合いながら、ふたつの太陽は愛を深めていく。
「……そういえば、一郎の名前って由来とかあるのか?」
「ん? あるよ。ちょっと面白い話なんだけどさ」
一郎がくすりと笑って朝陽の頬を撫でる。
「俺の名前ね、本当は一に朗で一朗の予定だったんだ。世界で一番朗らかでいてほしいって意味で」
「……お前に似合うし、美月さんと時雄さんらしいな」
一郎の両親を思い出して、ふたりならばそういう優しい思いを込めるだろうと納得する。
「うん。でもね、父さんがひとりで出生届書いた時に緊張しすぎちゃって、漢字を間違えちゃったんだ。だから俺の漢字に朗らかは入ってないの」
「……そう、なのか」
間違えてはいけないところで盛大なミスをしてしまった時雄に同情する。修正はできなかったのだろうか。
「父さんは母さんに謝り倒してどうにか直そうとしたんだけど、母さんは笑って私たちの一番の息子ってことで一郎にしようって納得しちゃったんだってさ。父さん酒飲む度にこの話してくるから、よっぽど気にしてるんだろうなあ」
「……お前の家族らしい、いいエピソードだな」
何かを間違えても、許して、笑って、共に生きていく。朝陽が子どもの頃は知らなかった、優しい世界。
「俺達も、これからそういうエピソード増やしていこう? あんなことあったねって笑い合える、そんな話」
「なるべく大事なところでミスはしたくないけどな……。まあ、そうだな。人間だから間違うこともあるだろ」
朝陽はくすりと笑って、かつての自分なら絶対に言わなかった言葉を紡ぐ。一郎は幸せそうに笑んで、また朝陽の唇に愛を捧げた。
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