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第二章 第三十三話 不幸と死

不幸と死  その日は穏やかな日だった。いつもの通り仕事をして、昼食は一郎と日浦と食堂に行き、午後も特に変わりなく時が過ぎていく────はずだった。  コツ、コツ、と、ゆっくりとヒールの音が響く。亡霊に足があるのならきっとその音を響かせるのだろうというような、それ。 「あ、お疲れ様です。誰かにご用でしょうか?」  日浦が来客に気づき、その人物に話しかける。応対は彼に任せようと、そちらを見ずにパソコンを操作し続けた。 「…………あの? どうかされたんですか?」  日浦が不思議そうな声をあげる。気になってそちらを見て、朝陽は目を見開いた。 「っ、日浦離れろ!」 「え?」  朝陽はその人物に見覚えがあった。いや、前に会った時と随分印象が違うが、それでもその人物であるとわかる。 「…………新谷さん」  その人物はゆっくりと顔を上げる。セットされていないぼさぼさの髪。厚く塗られた化粧は、女が人の形をなんとか保つための手段であるように思えた。  小森真理。朝陽に惚れて、逆恨みをし、復讐を企てた女性。確か彼女は社内ツールを私用に使ったことで支社に追いやられたはずだ。その彼女が、どうして本社にいるのだろう。 「新谷さん、新谷さん、新谷さん……」  彼女はうわごとのように朝陽の名を呟く。ハイヒールの高い音がやけに不気味だった。 「……何しにきたんだ、小森さん。オレはもうあんたと関わりたくない」  小森と関わって、また一郎を不安にさせるようなことはしたくなかった。朝陽はデスクから立ち上がって、距離を保ちながら彼女に向き合う。 「……ふ、ふ」  彼女は気味悪げに笑って────後ろ手に持っていたそれを、朝陽に向けた。 「っ!」 「ひっ!?」  日浦が悲鳴を上げる。彼女の手には、ナイフが握られていた。  それに気づいた営業部の人間が、立ち上がって悲鳴を上げながら壁の方に後ずさっていく。  だがナイフを向けられた朝陽は動くことができずに息を飲む。 「……どうして、私じゃないんですか?」 「……それは前にも言ったはずだ。俺はあいつがいい。君とは付き合えない」 「私は貴方のせいで不幸になった!」  彼女は突然大声を上げた。それは他の部署にも響き渡る声で、何が起きているのかと人が様子を見に来る。そして、彼女の持つ鋭利な刃物を見て、ざわざわと騒ぎ出した。 「貴方に振られて、告発しただけで支社に追いやられて!」 「……あんたが、自分で招いたことだろ」 「それだけじゃないっ!」  彼女は一歩近づいて、ナイフを構え直した。 「ヤクザに金むしり取られてるのも、貴方のせいなのにっ!」 「……ヤクザ?」  その言葉に、朝陽はとある可能性を思いついた。まさか、自分をヤクザに襲わせたのは────。 「一回依頼しただけなのに、最初に提示したのは前金だとかなんとか言って! 毎日家に押しかけてきてはお金要求されて、変な金貸し紹介されて! なんで貴方を痛めつけて脅せって言っただけなのに、こんな目に遭わなくちゃいけないのよ!」 「────」  やはり、黒幕は彼女だったのだ。朝陽と一郎を別れさせるためにそんなことをするなんて。言いようのない恐怖が全身を襲う。 「……だから、オレを刺すのか?」 「……いいえ、違います。新谷さんに────朝陽さんに、選ばせてあげます」  彼女が、にんまりと化け物のように笑った。 「私に殺されるか、あの男を捨てて私と結婚するか」 「……!」  脅しではない。彼女は本気で、朝陽を殺そうとしている。 「でも選択肢はふたつにひとつですよね。誰だって殺されたくなんてありませんもん」  彼女が怖い。ただひたすらに怖い。同じ言語を喋っているはずなのに理解ができない。 「私の不幸は、全部朝陽さんから始まったんです。だから朝陽さんが選択をやり直してくれれば──全部、うまくいくはずなんです。誤解が解けて本社にだって戻れるし、借金だって一緒に返してくれる、ヤクザから私を守ってくれる。全部、全部、朝陽さんが選んでさえくれれば!」  女の目は狂気に満ちていた。彼女は不幸に堕ちたあまり、正常な思考をしていない。いや、それとも────元から、こういう女だったのだろうか。 「…………」  死か、彼女か。そんな選択を突きつけられて、恐怖のせいで頭が回らなくなる。  ──どうすればいい、どうすれば。オレ、オレは、一郎を捨てることなんて。でも、死にたくない。どうすれば……。  ぐるぐる、ぐるぐる。思考はずっと同じところを巡り続ける。無言の朝陽を見て、彼女は熟慮していると思ったのか君の悪い笑い声を浮かべた。  一分、二分、三分。段々と時間が過ぎていく。 「ほら、早く選んでください朝陽さん。貴方のためにここまでする私を、選んでくれるでしょう?」 『────もっと自分の好きなことたくさん見つけて、好きなように生きていいんだ』  ふと思い出したのは、一郎の言葉だった。  ────そうか、好きに、生きていいなら。 生き方を自由に決めていいというのなら、朝陽の答えは自ずと決まる。朝陽は────────。 「さあ選んでください、さあ!」  彼女が昂りながらナイフを突きつける。朝陽は、ゆっくりと口を開いた。 「どっちも、選ばない」 「…………は?」 「あんたに殺されるのも、あんたと結婚するのも嫌だ。オレは一郎と一緒に生きる」 「……貴方、状況分かってるの!? 頭おかしいんじゃないの!?」 「おかしいのかもしれないな。でも、本当にどっちも選べないんだ」  朝陽は自分の愚かさに笑ってしまう。ナイフを向けられているのに、どうして笑えるのだろう。そんなことを思った。 「入院してた時、あんな痛めつけられて死ぬのは絶対に嫌だって思い出しては怖くなった。でも、同時に思った。オレはどういう死に方なら満足なんだろうって」 「……痛いのが嫌なら、私を選んでよ! それで済む話じゃない!」 「オレは、年取ってよぼよぼのじいさんになって、一郎を看取ってから終わるか──一郎に看取られて終わりたいんだ。わがままだから、その死に方以外したくない」  好きなように生きるのなら、その終わり方も好きにしたい。春の陽射しが降り注ぐ中で身を寄せ合っている老人ふたりの姿が見えたような気がした。 「だから、あんたには殺されない。あんたを選ぶこともしない。この先一生何があっても、オレが選ぶのは一郎だけだ。……いや、死んで、また生まれ変わっても、オレは一郎がいい」  この命が終わった後も、朝陽は一郎と共に在る。  小森の目を見て、はっきりと、そう宣言した。  「っ……! やっぱりヤクザに襲わせる前に、こうすればよかった!」  女がナイフを握り締める。あいにく朝陽に護身術の心得などない。どうすれば凶刃から逃げられるかと思った、その瞬間。 「朝陽っ!」  聞き慣れた声。朝陽だけの最愛の男が、人混みの中から飛び出した。  彼は朝陽ではなく、小森に向かって走り出す。そして彼女の持つナイフの刃を左手で握りしめ、小森を見下ろした。 「っ、ひ……!?」  刃物を握るという行為が理解できなかったのか、彼女の顔に恐怖が浮かぶ。銀色の刃が肉を切り、だらだらと赤を伝わせていく。 「一郎っ……!?」 「朝陽を襲わせたのは、お前か……!」  怒りに震える声。人を殺しそうなほど、その声は怒気を孕んでいた。 「ひ、い」 「朝陽を、殺そうとしたな!?」  一郎は右の拳を握り締め──彼女の頬を、思い切り殴った。 「ぶっ!」  非力な女の身体が倒れ、ナイフも床を滑る。一郎が、誰にでも優しいあの男が、人を殴った。周囲の人間がざわつく。『菩薩』が人を殴るなんて、誰も思わなかっただろう。 「二度と俺達に近づくなっ! 朝陽がやられた以上のことして、お前を殺すぞ!」  怒鳴り声が辺りに響く。それは、一郎から発せられた言葉だとは到底思えなかった。そして、その言葉に嘘偽りがないことも確かだった。一郎の顔には、殺意が滲んでいる。 「ひっ……いや、いやぁあああああっ! 助けてっ!」  女が泣き叫びながら走って逃げようとする。だが、警備がやってきて彼女を取り押さえた。小森はそのままどこかへと連れていかれる。  怒った。一郎が、怒鳴って、殴って。そんなところ、一度も見たことなかったのに。  はあはあ、と肩で息をしている一郎が振り返る。彼の怒りの表情は消えていなくて。 「馬鹿っ!」  大きな声で、朝陽を怒った。 「…………は?」  いつもの彼なら大丈夫だったかを聞いて、怖かったねと慰めてくれるのに。朝陽は一郎に罵られたことに頭がついていなかった。 「ナイフ持ってる相手煽ってどうするんだよっ! 刺されたら死ぬのに! 自分のこと大事にするって約束忘れたの!?」  彼は朝陽の身を案じて怒っているらしい。だがそれを聞いて、朝陽の胸の内には怒りが沸いてきた。刃物を握ったのはどこの誰だ。 「自分から怪我しにいくやつにそんなこと言われたくねえよっ! 馬鹿はお前だろ!」  朝陽は負けじと怒鳴り返した。こんな大声で人を怒鳴ったことなどない。 「っ、今は朝陽のことを言ってるんだよ! 相手を落ち着かせて、警備とか警察とか来るまで待ってればよかっただろ!?」 「その言葉そのままそっくり返すぞ! 素人が凶器持ってる相手に向かっていくんじゃねえ! しかも殴るとか何してんだよ! 他にもなんか持ってたらお前が危なかったんたぞ!」 「ヤクザ差し向けてきたのがあいつだって聞いて身体が動いたんだ! それにもう俺は朝陽が怪我するの嫌なんだよっ!」 「入院した時にお前が殴られたら嫌だってオレ言ったよな!? お前が怪我して喜ぶと思ったのかよ!?」 「刺されるのとちょっと切ったくらいだったら前者の方が危ないだろ! このくらいの怪我、なんとも────あ、れ?」  喧嘩がヒートアップする中、ふらり、と一郎の身体が傾く。 「一郎っ!?」  咄嗟に駆け寄って彼を抱き留める。一郎の手のひらからはずっと赤い体液がだらだらと流れていた。 「なんか……クラクラする…………」 「これだけ血出せばそうなるだろ! 馬鹿!」 「だから……馬鹿は朝陽だもん……」 「っ、ハンカチ巻くから座れ! 日浦、救急車呼んでくれ! あと警察!」 「っえ、あ、はいっ!」 「警察は警備の人にお願いしよう、新谷くん、私のタオル使って!」  一郎を床に座らせると、村尾が駆け寄ってきてタオルを渡してくれる。新品に見えるが、今は緊急事態だ。戸惑っている場合ではなかった。 「ありがとうございます!」  傷口をぎゅうとタオルで縛る。だが一度流れた血液は元には戻らない。急いで病院に連れていかなければ。 「あさひの、ばか……わるいこ……」 「ああもう、オレのこといいから自分の心配しろ!」  まだ朝陽に怒っているらしい一郎を叱りつける。人生で初めての大喧嘩は、どちらも勝者にならなかった。  

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