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決意

 紗葉良(さはら)は自宅に息を切らして戻ると、玄関に投げるように靴を慌てて脱ぎ散らかし、自室のベッドに正面から倒れ込んだ。  斗貴央(ときお)にキスされた――――。  全速力で走ったせいで心臓が怖いくらいの速いリズムを刻んでいる。触れられた肩も、唇も、まだ斗貴央の熱を帯びている気がする――。 「好き――?」  何かを確かめるように声にしてみた。そして何度もかぶりを振る。 「無理だよ……、絶対。この皮を剥いだら……、逃げたくなるのは斗貴央だ――」  紗葉良はドクドクとやけにうるさい胸に手をやり、枕に顔をうずめた。  髪を短く変えてから一番はじめに顔を合わせたのは翌朝に校門で会った伊藤(いとう)だった。  伊藤は驚いて紗葉良に理由を尋ねたが「切りたかったから」としか答えて貰えず。不完全燃焼だったのか、休憩時間に早速嬉々として夏奈(なな)に報告していた。 「髪を切ったってことは、もう辞めたんだね。龍弥へのストーカー」  夏奈は特に驚いた様子もなくヤスリで爪を整えながらすっかり冷めた表情で答えた。伊藤は夏奈の急な冷たさに少し狼狽えているようだった。 「なんだ、その頭。中学生みたいだな」  龍弥(りゅうや)は廊下ですれ違った紗葉良に向かってクスリと笑って声を掛けた。その顔には痛々しく口の端に絆創膏がついていて、周りは青く腫れていた。 「怪我……大丈夫?」  紗葉良は申し訳なさそうに少し俯き加減に伺う。  龍弥はなにも答えないまま短く切り揃えられた紗葉良の柔らかい後ろ髪を指で摘むだけだった。 「――龍弥、ありがとう。助けてくれて……、昨日だけじゃなくて、今まで、ずっと……」  龍弥は黙って紗葉良の髪から手を外し、窓の枠に肘を掛けて外を眺めた。そして、誰に聞かせるわけでもないような声でぽつりと零した。 「お前、女だったら良かったのにな――――紗葉良は唇を噛んで瞼を閉じた。  自分はこの言葉をずっと呪いだったと思っていた――。  でも本当は、龍弥自身の葛藤の言葉だった――。 「じゃあな、斗貴央と仲良くやれよ」 「そんなんじゃないってば」  龍弥は揶揄(からか)うように鼻で小さく笑って紗葉良に背を向け歩き出す。  その背中がどんどん自分から遠くなるのをただ紗葉良は目に焼き付けるみたいに見送った。 「龍弥……」  聞こえないと分かりながらもその名を呼んだ。  龍弥。  龍弥――。  もっと呼べば良かった――。  好きだと……、言えば良かった――。  紗葉良の瞳からはずっと堪えていた涙がポロポロと零れた。  斗貴央は自室のベッドに大の字になって天井をぼんやり眺めていた。  何度も自分が昨日、紗葉良にしたことを思い出しては後悔し、発狂しそうになるのを繰り返している。  母親に次やったら更生施設に放り込むと脅され、拳骨で2発殴られたこともついでのように思い出していた。 「紗葉良……」  もっと名前を呼びたい――。  嫌われて当然のことをしたとわかっているのに、今すぐにでも会いたいと思う自分が情けなくて、でも止められなくて……。  なあ、紗葉良――。  お前は全然弱くなんかないよ。  好きなやつのために変わろうとした。  自分が相手の色に染まろうと努力した。  何でもやろうとした。  あんなに泣きながらでも一年、ずっと思い続けた――。 「なんにもくれない男のこと……ずっと……」  突然鳴った無機質な電話の着信音に斗貴央はぼんやりしていた頭を覚ます。画面の表示は今、自分が何よりも求めている相手だった。だが、一度散々な目に遭っているので猜疑心が拭えず、出るのを躊躇(ためら)うが一縷の望みに掛けて応答する。  しかし、怖くて通話にしてもすぐには何も言葉が出なかった。 「――もしもし?斗貴央?なんで喋んないの?」  その柔らかい声は間違えなく望んでいた紗葉良本人だった。 「――もう……、絶交されたと……」  思わず気が抜けたのか、ヨボヨボの声が出た。 「絶交?何ソレ、かわいい響き」  くすくすと紗葉良は笑う。 「紗葉良、ごめん。俺……」 「ねえ、斗貴央、今から家に行ってもいい――?」  遮って告げられたその声は、やけに鋭く斗貴央の耳に刺さるように聞こえた。

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