5 / 12
第五話
それから半年経った頃、分家筋を含む一族全体に招集がかかった。通常、本家で行われる定例会に呼ばれるのは、本家筋の主要幹部のみである。一族全体が招集されるのは新年の顔合わせの時のみであり、それ以外となれば新組長就任や組長の急死など剋神会全体に関わる重大事が起きた時だけだった。
つまり、今回の招集は何か重大な事が起こったか、これから何かが起こるという意味になるわけだが、大神斎の身に何か起こったという話は聞いていないため、「これから」の方なのだろうと予測できる。それが何か猛にはわからなかったが、恭弥は大方の見当がついているのか、猛に加えて武藤とその部下を数人ともなって本家へと向かった。本来ならもっと多くの護衛を付けてもよいはずだが、あまりに物々しい護衛をつけると光輝派を徒に刺激しかねない。さらなる対立が深まることを恭弥は望んでいなかった。
二台の車に分乗して本家へと向かう。この時、猛は初めて恭弥の隣に座った。静かに一点を見つめたまま考えに耽っている恭弥の様子を気にかけながら窓の外を眺めていると、ある違和感に気づく——車が裏門ではなく正門に向かっている。
猛はハンドルを握る武藤の部下に目を向けるが、彼はそれが当然という風に運転していた。助手席に座る武藤もそれを咎める様子もない。いや、恭弥の地位を考えればそれが当然なのだ、何らおかしなことではない。だが、恭弥はこれまで正門からの出入りを許されていなかった。
「心配するな」
猛の動揺を察して恭弥が静かに言う。そう、これが当然なのだ。何も心配する必要はない。
車が正面玄関につくと出迎えの男たちが左右に整列する。とはいえ、出迎える男たちの表情は芳しいものではなく、内心ではこの状況を面白く思っていないということが分かった。
「若頭! お待ちしていましたっ!」
「面白い冗談だな」
一斉に頭を下げる男たちを鼻で笑うと、恭弥は男たちの視線に目もくれず歩いていく。猛は恭弥の後を追うが、一人の男が顔を伏せながらも鋭い目つきで恭弥を睨みつけていることに気づいた。猛が初めて定例会に来た時、道をふさいだあの男だ。
その目には敵意というより強い憎悪がこもっているように見えた。いや、憎悪とも少し違う。暗くジットリと絡みつくようなあの視線は——。
嫌悪と怒りが胸の奥から湧き上がり、猛は半ば衝動的に前に進むと、男の視線の前に立つ。その大きな体で恭弥を隠してしまうように。
「おいっ……」
独断で前に進んだ猛を咎めようとした武藤を恭弥は手で制する。武藤は何か言いたげな表情を浮かべたが、小さく息をつくと呆れたような視線を猛に向けただけで何も口に出さなかった。
「あー、俺もしゃぶられてぇなぁ」
恭弥が通り過ぎた後、男が囁くような声で言う。その視線は恭弥ではなく猛に向けられていた。
「お前もそう思うだろ? なぁ?」
下卑た笑みを浮かべる男の言葉に、目の前が真っ赤になるほどの怒りを覚える。だが、ここで問題を起こすわけにはいかない。猛は男の言葉を無視し、恭弥の後を追った。
邸内では行き合う者全員が恭弥に深々と頭を垂れ、行き先を塞がないよう道を開ける。だが、彼らの胸中は恭弥に対する蔑みや敵対心がくすぶり、口の端には微かな嘲笑がこびりついていることに猛は気づいていた。身内争いを隠すためなのか本家の威信を守るためなのかは分からないが、見え透いた演技には正直うんざりする。
「竜崎恭弥。参りました」
恭弥にとってこのような茶番など慣れたものなのだろう。周囲の悪意など一向に気にしていない様子で自らの来訪を伝えた。
「入れ」
入室を許可する声が返ってくる。ここから先は気が抜けない。猛は居住まいを正し、静かにゆっくりと深呼吸した。
「失礼します」
恭弥はそう言うと障子を静かに開ける。中にはすでに多くの男たちがそれぞれ指定された位置に座っていた。恭弥の場所は右の最奥——大神斎の左斜め前、大神光輝と向かい合わせになる位置だ。
男たちの視線を浴びながら指定された席に向かう。恭弥が座り、その後ろに猛と武藤、さらにその後ろに武藤の部下が座った。対面にいるはずの光輝の姿はなく、時間が迫っても現れる様子がない。異変に気づいた男たちの間に緊張が漂い始める。
光輝は真面目とは言い難い性格の持ち主で、定例会に姿を現すのも時間ギリギリであることが多い。しかし遅刻してきたことは一度もなかった。斎はかなり時間に厳しく、たった一分であろうと遅れて来た者には容赦なく罰を与える。もちろん、光輝とてその例外ではなかった。
「龍虎ー! 龍虎ー!」
大神斎の到着を知らせる声が響く。瞬間、全ての音がピタリと止み、その場にいた全員が一斉に座礼の姿勢を取った。ほどなくして障子が開く音が聞こえる。
「皆、急な招集にもかかわらず参集してもらい感謝する。顔を上げてくれ」
冷たい声で感謝の言葉を述べる斎。全員がゆっくりと顔を上げ、斎の方を見て驚愕の表情を浮かべる——その後ろに、血まみれで両手を縛られた光輝と、顔を泣きはらした乱れ髪の女が立っていたからだ。
「今日集まってもらったのは、まぁどうってことはねぇんだが……」
斎は光輝の髪を荒々しくつかんで半ば引きずりながら奥へと進むと、広間の中央で乱暴に投げ捨てた。ぐったりと倒れる光輝に女が駆け寄り、斎を強く睨みつける。
「こいつの処分についてだ」
「アンタッ!」
斎の言葉を遮るように女が金切り声を上げた。その剣幕と斎の言葉に、周囲はわずかにどよめく。
「母だ」
恭弥は猛にだけ聞こえる小さな声で手短に言った。顔を見るのは初めてだが、声には聞き覚えがある。恭弥のことを「汚らわしい」と吐き捨てたあの女。大神斎の正妻、大神琴江だ。
年齢を重ねているが華のある美人で、背が高く色が白い。乱れ髪と緩んだ衿元からのぞくうなじが艶めかしく、思わず魅入られてしまう男も少なくないだろう。ヤクザの「姐さん」らしく、かなり気性が激しいようだ。
「親父、姐さん、落ち着いてください。一体何がどうなってるんです?」
恭弥の後ろに控えていた武藤が言う。空気が凍りついたようなこの状況で発言するのは、まさに「火中の栗を拾う」ようなものだが、剋神会最古参の一人である武藤の発言であれば無碍にはできない。状況が読めず困惑の表情を浮かべていた者たちの顔に僅かな安堵の色が広がった。
「何がもどうもな、こいつが俺を裏切ってたんだよ」
斎の言葉に男たちがざわつく——が、恭弥を始め、光輝派に属さない組の者の一部は落ち着きを払っていた。
「島田、説明してやれ」
「はい」
島田は斎に向かって一礼した後、周囲を見回してからもう一度礼をする。男たちの視線が島田に集まり、ざわめきが静まり返ると彼はゆっくりと口を開いた。
「以前、定例会で話したヤクの件。あの時点ではチャイニーズが半グレのガキを使ってバラまいていることまではわかっていたんですが、どう繋がっているかまではまだはっきりとわかってませんでした。ただ、複数のグループが広い範囲でヤクをばらまいていましたので、半グレをまとめているやつがいるのは間違いねぇだろうと探ってました」
初めて参加した定例会のことを思い出す。確か、あのとき島田は光輝の管轄である新城区が最も汚染されていると話していたが、それと斎のいう「裏切り」にどう関係があるのだろうか。
「やつら、逃げ足だけは速いんでちっと苦労しましたが、うちのシマを荒らしてるガキを捕まえることができましてね。ちょっとシボってやったらブラック・ダリアっていうグループがチャイニーズとの仲介をやってるってゲロしやがりました」
「ブラック・ダリアってぇと、この前のガキか……」
武藤は忌々しげに舌打ちする。猛が初めての敗戦を経験したあの日、話しかけてきたあの男は確かブラック・ダリアの長尾ジュンと名乗っていた。馴れ馴れしく話しかけてきただけでも腹が立つというのに、剋神会の縄張りに薬物をバラまくなど万死に値する行為だ。やはりあの時、きちんとしつけておくべきだったか。
「このブラック・ダリアってグループ、存在自体はわりと前からあるんですが、少し前までは大人しいやつらだったんですよ。規模も小せぇし、気にかけるほどでもなかった。それが、この一年の間にコロシもタタキもなんでもありに凶暴化しやがりまして……。どうやら、アタマが変わったのが影響してるみたいなんです」
「確かに、アタマが変わったら方針転換で凶暴化することはあるが、元は大人しい弱小グループだったんだろ? それが一年やそこらでチャイニーズと渡りをつけてヤクの元締めやるまで成長するなんて……」
島田の話に疑問を呈した男は、何か思い当たったような表情を浮かべてから光輝の方に視線を送る。同じ考えに至ったのか、その場にいた男たちの視線が光輝へと集中した。
「こいつはな、チャイニーズと半グレの仲立ちをやってたんだよ。うちではヤクはご法度だって知りながら、よそモンを引き込んで甘い汁を吸わせておこぼれをもらってたんだ。このクソガキがよぉっ!」
自らの言葉で怒りが再燃した斎は項垂れたままの光輝の脇腹を激しく蹴りつける。血が飛び散り、琴江が金切り声をあげて光輝をかばうように抱きしめた。
「嘘だっ! アンタ、騙されてるんだよ! 光輝がアンタを裏切るわけないじゃないのさ! この子はアンタの息子だよ!?」
「うるせぇ! 女が口出しするな!」
斎に怒鳴りつけられた琴江は怯えるどころか激しい怒りのこもった目で斎を睨みつける。それが斎の神経を逆撫でするであろうことは分かっているはずなのに、それでもなお息子を信じて庇おうとする——これが母親というものなのだろうか。
「ぐっ……」
突然、斎が自身の胸元をつかんで顔を歪める。それまで静かに成り行きを見守っていた恭弥が武藤に目配せすると、さっと武藤が立ち上がって斎のもとに駆け寄った。
「オヤジ、落ち着いてください。とにかく座りましょう」
武藤に抱きかかえられるように自身の席に向かい、倒れ込むように座る斎。しばしの間、小さな呻きを上げて苦しんでいる様子だったが、やがて全身の力を抜いて大きく荒々しい息をついた。
「おい、水だ。早くもってこい」
「わかりました!」
武藤に命じられた若い衆は急いで部屋を飛び出し、ややあってから水の入ったグラスを持って戻って来る。
「飲んでください、さぁ」
「ち……くしょう……」
斎は毒づきながらグラスを受け取ると水を一息に飲み干す。少し落ち着いたのか、肩を動かしてはいたが呼吸は緩やかになっていた。
「恭弥」
「はい」
「お前が仕切れ」
その言葉に空気がざわつく——斎はこれまでに何度も発作を起こしたことがあったが、いかに大きな発作のあとであろうと議長を誰かに委ねることはなかった。議長を務めることは権威を示すことそのものだからだ。
だが、今まさにその座を委ねようとしている。あくまで一時的な措置であると考えるのが妥当だが、光輝の背信と処分を巡るこの局面を恭弥に委ねるということは、事実上、後継者指名に等しい。
「拝命します」
恭弥は深々と一礼すると、一呼吸置いてからゆっくりと顔を上げる——その表情には後継者争いに勝利した喜びや興奮などは一切なく、ただ冷たい無感情の色が広がっていた。
光輝の処分が決定するまでには長い時間がかかった。剋神会に対する明確な背信行為であり、敵対勢力を利する行為である以上、最も厳しい処分がふさわしいとする意見と、嫡男であり影響力も強い光輝を軽率に処罰すべきではないという意見が交錯したからだ。光輝派の幹部たちは寛大な処置を求める一方、中立派、特に古参幹部たちは厳しい処罰を求める者が多く、どちらの意見を採用しても反発や対立は避けられない。一つ間違えると内部分裂を引き起こすきっかけとなってしまうだろう。特に、光輝派の幹部たちは恭弥が事実上の後継者に指名されたことで神経が逆立っており、一時はあわや一触即発という空気すら漂っていた。
最終的に光輝は剋神会から除籍されることとなった。除籍とは一般企業でいうところの「退職」のようなものであり、破門や絶縁のような懲罰的な意味はない。とはいえ、光輝にとっては地位を失うこと自体が罰に等しく、恩情をかけてはいるものの決して「おとがめなし」というわけではないことがわかる。
おそらく、斎であれば問答無用で絶縁、あるいはそれ以上の罰を与えただろうが、あくまで「組長代理」でしかない現在の恭弥にはそれほどの権限はない。両陣営を納得させ、余計な分断を招かないためには「除籍」が妥当な処理だったといえるだろう。
だが、どのような選択をしても「納得がいかない」と抗議するものはいるものだ。琴江はこの決定を不服とし、全ては恭弥が仕組んだ罠であると主張した。これは根拠のない話だったが、恭弥に対するネガティブなイメージを強める効果があったのは確かだった。
帰路の車内で恭弥は深い溜息をつく。斎から「居残り」を求められなかったことに安堵しているようだが、その表情は決して明るくない。この日起こったことと、これから起こるであろうことを考えると憂鬱になるのも無理からぬ話であるが。
「猛」
恭弥はやや不機嫌な口調で言った。
「はい」
猛は隣に座る恭弥に顔を向ける。恭弥は腕を組んで窓の外を見ていた。
「今日から一緒に住め」
「今日から……ですか?」
「部屋に戻る必要はあるか?」
「いえ、特に何も」
「ではこのまま帰ってくれ」
恭弥の言葉に武藤が小さく頷く。オフィスへと向かっていた車は脇道に入り、すぐに切り返して来た道を戻る——その直後、一台のミニバンとすれ違った。
「まだガキですね」
「大方、ブラック・ダリアの連中だろう」
すれ違うわずかな時間の間に武藤は相手の運転手を確認する。真っ黒なスモークフィルムを貼ったミニバンの中ははっきりとは見えなかったが、若い男が数名乗り込んでいるのが見えた。ブラック・ダリアというと、違法薬物をバラまいている半グレ集団だ。光輝とブラック・ダリアの関係が明るみになった直後のタイミングで後ろについてくるなど偶然とは思えない。
「……ついてきませんね」
「だろうな。俺の自宅など兄貴に聞けばわかる。必死になって追いかける必要なんてないさ」
ミニバンはもう後をついてこなかった。猛はわずかに安堵したが、恭弥の言葉どおりであれば状況はそれほど変わっていないといえる。いつ、どのような形になるかはわからないが、彼らはいつか接触を試みてくるはずだ。その時に備えて気を引き締めねばならない。
尾行はすでに外れていたが、武藤は万が一の襲撃に備えてルートを選びながら車を走らせる。恭弥は始終無言のまま車窓の風景を眺め、猛はこれから起こりうるシチュエーションについて考えを巡らせていた。車庫からマンションに向かうまでの間、マンションの廊下、エレベーターの乗り降り、部屋の出入り、相手は単独か複数か、武器の数、種類——条件を変えて何度も何度もシミュレートする。そうしているうちに、恭弥の自宅マンションに到着した。
「お前はオフィスの警護を頼む。今日はもういい。明日の朝、迎えに来てくれ」
「わかりました」
恭弥と猛は車を降り、エンジン音が遠ざかっていくのを聞きながらエレベーターに乗り込む。ドアが閉まり、上昇が始まったところで恭弥が小さく咳払いをするのが聞こえた。
「猛」
「はい、ボス」
「料理はできるか?」
「え?」
意外な質問に驚き猛は恭弥に目をやる。エレベーターの階数表示を見つめている恭弥は無表情で、その質問の真意を読み取ることはできなかった。
「いえ、出来ることは煮るか焼くくらいで、料理と言えるほどのことは……」
料理と呼べるほどのものを猛が口にできるようになったのは恭弥に拾われた後のことだ。加えて、それ以前の猛は与えられたものを与えられただけ口にするという生活をしていた。そのため、料理という概念がほとんど根付いておらず、恭弥とともに食事をするようになってもその料理がどのようにして作られているのか見当すらついていない。わかるのは火を通していることと、基本的な調味料の味くらいだ。
「そうか」
「すみません」
「いや、謝る必要はない。好きなものはあるか?」
エレベーターのドアが開く。周囲に人の気配はなく変わった点も特にない。二人はエレベーターを降り、暗い赤色のカーペットが敷かれた廊下を歩く。
「特に思いつきませんが……傷の治療中に食べた芋。あの、肉と一緒に煮た、少し甘いやつが美味かったです」
「それはよかった」
恭弥は口元を緩めて笑った。猛は内心安堵しながら部屋のドアを開ける——室内の空気がわずかに漏れ出し、部屋の中からすっきりとしたハーブの香りが漂った。何というハーブの香りなのかは知らないが、清潔感と微かな甘みのあるこの香りが猛は好きだった。
「……どうした、中に入れ」
「あっ」
先に入った恭弥がドアを開けたまま中に入ろうとしない猛を見て静かに言う。これまで何度も恭弥を自宅まで送り届けてきたが中に入ったことは一度もなかったため、今日から同居するのだということを完全に失念していたのだ。
「失礼します」
猛が緊張の面持ちで中にはいるのを見て、恭弥は思わず吹き出してしまう。初めての場所に緊張するのは仕方ないとは思うものの、あまりにも緊張し過ぎではないか。
「そんなに緊張するな。今日から当分、ここがお前の家だ」
「すみません、ボス」
「早くドアを閉めろ。それから、ここでは俺を恭弥と呼べ」
靴を脱ぎかけていた猛は思わず手を止め、恭弥の顔を見上げる。今、なんと?
「なんだ、そんな顔もできるのか。悪くない」
恭弥はそういうと背を向けて部屋の奥へ向かう。その背中はどこが楽しげで、車中でみせた不機嫌さなど消え失せたかのように見えた。猛はあわてて靴を脱ぎ、恭弥の背を追う。
「あのっ……ボ」
「恭弥」
声をかけようとすると、恭弥がたしなめるような表情で言った。SとMのときであれば「恭弥」と呼ぶのが自然だが、そうでないときは少し抵抗を感じる。しかし、護衛のための同居とはいえ、プライベートな時間に「ボス」と呼ばれるのは気が休まらないのも確かだ。
「では、恭弥さん」
「ん……まぁいいだろう」
恭弥は少し不満げではあったが、猛の胸中を察して苦笑すると、中へ進むよう手招きする。
「一人暮らしなのに無駄に広くてな、左側はほとんど使っていない。ゲストルームとしていつでも使えるよう整えてはあるが、実際に使ったことがあるのは数えるほどだ。生活は右側の空間を使う。猛の部屋もこっちに用意した」
玄関ホールの突き当たりは左右に分かれ、それぞれ短い廊下の先にドアが付いていた。恭弥は右側のドアを開く——モノトーンをメインに整えられた広いリビング、清潔感のあるカウンターキッチン、その奥にはプライベートスペースに続くドアが見える。全体的に物が少なく片付いているが、どこか生活感に欠けた寒々しい印象だった。
猛はリビングを見まわし、隅に置かれたキャビネットの上でふと視線を止める。なぜかその一角だけが色彩を帯びて見えたのだ。
「気になるか?」
「あ、いえ……」
「見せてやろう」
恭弥はキャビネットに歩み寄り、その上から小さな写真立てを取り上げた。
「おふくろと俺だ」
柔和に微笑む和服姿の女性と緊張した面持ちの少年——言われなくとも親子だとわかるほどよく似た二人が満開の桜の下で寄り添うように立っている。二人の身長差や顔立ちから察するに、恭弥が十歳を超えたくらいの頃に撮られたものだと予想できた。
「よく似ていますね」
「ああ、恨めしいほどな」
恭弥の言葉に猛ははっとする。恭弥が斎に手を付けられたのは、彼が母親に似ていたからかもしれない。だとすれば、恭弥にとって「母親に似ている」という言葉は心地よいものではないはずだ。
「すみません」
「なぜ謝る?」
「いえ……その……」
猛が口ごもると、恭弥は困ったような表情で笑った。
「そういえば、狩野から全部聞いたんだったな」
「はい」
「気を使わせてしまったな。さっきのは半分冗談だ。おふくろを恨んだ時期もあったが今はもう恨みなんて一つもないし、むしろ感謝しているくらいだ」
「感謝……ですか」
「ああ」
恭弥は少し色あせた母の頬を慈しむようにそっと撫でると、写真立てをもとの位置に戻す。その手つきは優しく丁寧で、先ほどの言葉が嘘偽りのないものだと物語っていた。
「お前が美味いといった料理……肉じゃがというんだが、あれはおふくろの得意料理でな。小さい時からずいぶん仕込まれたんだ」
「えっ」
「気に入ったならまた作ってやる。さて、次は寝室だ」
そういうと恭弥はくるりと背を向けてさっさと歩き始める。猛は慌ててその背を追いながら、キッチンの方に何気なく視線を向けた。キッチンには様々な調味料が揃えられ、ナイフブロックには四本のナイフが刺さっている。どうやら恭弥は料理が好きらしい。
「ここが猛の部屋だ。必要なものは一通りそろっていると思うが、欲しいものがあれば遠慮なく言ってくれ。自分の家だと思って好きに過ごしてもらって構わないが、出かける時は声をかけてくれ」
「ありがとうございます。あの……」
立ち去ろうとする恭弥を引き留める。
「なんだ?」
「一緒に住むのはボス……いえ、恭弥さんを護衛するためですよね? なら、俺が出かけるのはよくないのではと」
「ああ。だが、今はそれほど逼迫した状況ではないからな。あまり出かけられても困るが、ずっとここにいろというわけでもない。『ソドム』には行ってもらわなくてはならんしな」
『ソドム』と聞いて猛の心臓が大きく鳴った。あの日以来、猛と恭弥がSとMの関係になることはなかった。道具の扱いも上手くなり、佐竹からもSとしての技術を認められるようにはなったが、英二はまだ恭弥と関係することを認めなかった。
また、恭弥が『ソドム』を利用する時はプレイルームの隣にある小部屋に猛を待機させ、声と音のみでプレイを学ぶよう言い渡していた。決して覗き見できないよう、後ろ手に拘束されアイマスクをかけられた状態で恭弥の声を聞く——事実とも妄想ともつかぬ恭弥の姿が脳裏に浮かび、否応なしに体が熱くたぎっていき、声が途絶えプレイが終わる頃には汗と先走りで体がじっとりと濡れ、拘束を解かれる頃には疲労困憊の状態になっていたのだった。
英二にどのような思惑があるのかはわからない。ただ、そのような経験を繰り返すうちに猛は恭弥の痴態を妄想して自慰に耽るようになってしまった。もちろんこんなことは恭弥にも英二にも話していない。むしろ、知られることが恐ろしいとすら感じていた。いまだかつて猛は、一人の人間に対してこれほど強い感情を抱いたことがなかったからだ。
「聞きたいことはそれだけか?」
恭弥の声にふと我に返った猛は反射的に生返事をする。恭弥は一言「そうか」とだけ言うと、踵を返して隣の部屋へと入っていった。猛は静かに息をついてから自室のドアを開けて思わず目を見張る。想像していたよりもずっと広い。猛の体格に合わせた広いベッド、大きなデスクとクローゼット、ソファーセットが置かれ、奥にはシャワールームとトイレが備え付けられている。寝室というよりホテルの部屋のようだ。
クローゼットを開けると猛の体に合わせて作ったオーダーメイドのスーツが三着入っているほか、シャツ、部屋着、下着などが一通り揃っている。恭弥らしい品のある色柄で、品質や肌触りもすこぶる良い。まるで、猛がこの部屋に来ることをずっと待っていたかのようだった。
猛は身につけていたジャケットとベストを脱ぎ、ネクタイを緩めてからソファーに腰掛ける。とたん、体の奥から言いようのない疲労感が湧き上がり、全身が鉛のように重く感じられた。ほんの少し体を休めようと思いソファーに横になると、意識の上に暗い幕が広がり、猛はそのまま深い眠りへと落ちていった。
ともだちにシェアしよう!

