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第六話
「待って! 待ってよ、タケルにいちゃん!」
「こっちだ! 早く!」
暗い路地を走り抜ける小さな足音と荒い呼吸。まだ幼さの残る声が後ろから付いてくる。タケルは時々振り返りながら繋いだ手の先にいる少年を励ましていた。
暗がりの中、時折浮かび上がる白い顔。おかっぱに切りそろえられた黒髪と紅でも指しているかのような赤い唇。名前は——。
「もう走れないよ! 少し休ませて!」
「だめだ! アリス、走れ! もうすぐ地上だ!」
アリス。そう呼ばれていた。タケルと同じ地下組織に拾われた闇の子供。本当の名は誰も知らない——そもそも、本当の名などないのかもしれないが。
「ねえ、やめようよ。外に逃げたって捕まっちゃうよ。タケルにいちゃんがひどい目にあうの、ボク嫌だよ。ねえ、ボクは平気だから! 痛くされても平気だから!」
「だめだ! 今逃げないとだめなんだ!」
「どうして? 何があったの? ねえ」
「いいから!」
タケルはアリスの手を強く引く。木綿のワンピースの袖が捲れ上がり、無数の痣のついた白い腕が露出した。
「ほら、あと少し」
前方に光が見える。あそこを抜ければもう外だ。逃げ出したあとのことは考えていないが、スリでもかっぱらいでも何でもすればいい。外に行けばどうにかなる、外に——。
「うわぁ!」
何者かが暗がりから飛び出し猛に襲いかかる。体が押し倒され、繋いでいた手が離れた。アリスがタケルの名を叫ぶ。応えようとした瞬間、大きな手がタケルの鼻と口を塞ぎ呼吸が止まった。
「んんー!!」
タケルは激しく抵抗するが、闇の中からいくつもの手が伸び完全に自由を奪われる。
「タケルにいちゃん! タケルにいちゃん!」
脇腹に激痛が走った。体が熱く濡れていき、目の前が暗くなる。耳元で心臓の音が響き、アリスの声が遠のいて行った。タケルにいちゃん、タケルにいちゃん——。
「猛」
呼ばれて目を覚ます。グレーの天井を背にした恭弥が猛の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か? うなされていたぞ?」
恭弥は猛の顔に手を伸ばす。手を洗ったばかりなのか、冷たくしっとりとした手が額に触れて心地よい。
「熱はないようだが……」
「……大丈夫です。少し、悪い夢をみていました」
「そうか」
猛の言葉に恭弥は安堵の表情を浮かべた。額に当てた手を引き、少し躊躇したあと猛の髪を撫で、優しく微笑む。
「話すか?」
一瞬、何を言われているのか分からなかったが、今見た夢の話をするかと問われているのだとすぐに理解した。猛が無言で頷くと、恭弥はソファーの空いたスペースに腰掛ける。
「……恭弥さんは俺の脇腹の傷のこと、知ってますか?」
「ああ。かなり古い傷のようだが」
「子供の頃、一度殺されかけたんです。組織から逃げようとして……」
そこまでいうと猛は大きく息をついて呼吸を整える。恭弥は無言のまま猛の言葉を待っていた。
「組織には俺みたいな子供がたくさんいました。でも、ほとんどの子供は少しの間しかいなくて、長くても三か月くらいでいなくなるんです。なので、友達と言えるような相手はいませんでした。仲良くなったところでいなくなるのが分かっていますし、そもそも、俺と彼らは住んでいるエリアが違うので接する機会もなかったですしね」
当時の猛は子供たちがどこから来てどこに行くのか考えたこともなかった。だが、今ならわかる。組織は人身売買ビジネスに手を染めていたのだ。
「でも、一人だけ仲良くなったやつがいるんです。いつどこで出会ったのかは思い出せませんが、アリスって名前でした」
「アリス?」
「はい。でも、外国人じゃありません。年はわからないんですが、たぶん俺より五つくらい下の男の子です。色が白くて背が低くて、俺はずっと”にいちゃん”と呼ばれてました。アリスは他の子どもと違い、かなり長い間いました。しょっちゅう体に傷があって、ひどい時には傷のせいで上手く歩けないこともありました。どこを怪我しているのか聞いても教えてくれないんですけど、たぶん……」
猛はそういって言葉を濁す。おそらくアリスは小児性愛者の慰み者にされていたのだろう。そして、彼が長い間組織に残っていたのは、売却するよりも手元に置いて客を取らせた方が儲かると判断されていたからだ。
「俺は自分の年齢を知らないので正確なことはわかりませんが、多分十二歳ぐらいの時。アリスが外国に売られるって話を聞いたんです。その頃は組織がやっているビジネスのことも少しわかっていて……それで、アリスを連れて逃げようとしたんです」
「失敗したんだな」
「はい。捕まった俺は制裁を受け、アリスは売られていきました。この傷は制裁を受けた時の傷です」
猛はそこまでいうと静かに息を吐く。アリスがいなくなってからしばらくの間、猛は同じ夢を何度も見ていた。だが、体の傷が癒え、ファイターとなり淡々とした日々を送るうちに、いつの間にかアリスの夢も見なくなっていた。それがなぜか、この数ヶ月でまた夢を見るようになったのだ。
「……探してみるか?」
恭弥の提案に猛は首を横に振る。おそらく、アリスはもうこの世にいない。だが、消息を追って事実を知らないうちは生きている可能性を信じることができる。たとえそれが一億分の一の可能性に満たないとしてもゼロよりはましだ。
「聞いてくれてありがとうございます。気が楽になりました」
「それはよかった。また話を聞かせてくれ。俺は猛のことをもっと知りたい」
恭弥はそういうとゆっくりと立ち上がり、猛の方に振り返る。
「シャワーを浴びて着替えろ。食事にしよう」
そう言われて初めて、猛は自分が滝のような汗をかいていることに気づいた。さすがにこのまま食事の席に着くのはためらわれる。部屋をあとにする恭弥を見送ったあと、猛はルームウエアを持ってシャワールームに向かった。
体を冷やすため低い温度の湯を浴びる。体が目覚めていくごとに夢の余韻が遠のいてゆき、頭にかかっていたモヤが晴れていく。寝ているうちにずいぶんと汗をかいていたため、少し時間はかかるが体だけではなく髪も洗うことにした。
できる限り手早くシャワーを終え、ルームウエアに着替えてリビングに行く。リビングでは恭弥がテーブルの上に料理を並べているところだった。
「早かったな。まぁ座れ」
猛は小さく会釈をしてから席に着く。先程は気づかなかったが、恭弥はラフな服の上に黒のエプロンをつけた出で立ちだった。
「ん、どうした?」
「いえ、いつもと雰囲気が違うので……」
見慣れない姿に戸惑っている猛を見て、恭弥はクスりと笑う。
「家でもスーツを着ていると思っていたのか?」
「まさか」
わずかに皮肉めいた声色で冗談をいう恭弥に、猛は笑顔を浮かべた。上司と部下でも、SとMでもない距離感。今まで感じたことのないものだったが、不思議と心地よかった。
「さあ、食ってくれ」
皿を並べ終えた恭弥が言う。猛は恭弥が席に着くのを待ってから箸を手に取った。
「!!」
「美味いか?」
目の前に置かれた小鉢料理を食べた猛が驚きの表情を浮かべると、恭弥は満足げに微笑みながら問う。猛は口を動かしながら首を縦に振る。料理の名前は分からないが、とにかく美味い。猛はテーブルに並んでいる料理に次々と手を伸ばし、それらを全て平らげていった。
「お前は素直でいいな。作りがいがある。ほら、グラスを出せ」
あまりの美味さに食事を一気に平らげてしまった猛を見て恭弥は静かに笑う。よく見ると、恭弥自身は料理にほとんど手をつけていなかった。猛はなんだか気恥ずかしくなり、正面に座る恭弥から顔を背けながらプレースマットの端に置かれたショットグラスを取る。恭弥は自身のグラスに白ワインを注いだあと、猛のグラスにも注ぎ、ボトルを置いてから少し改まった表情をした。
「猛。知っている通り俺には直参がいない。その理由は知っているな?」
「光輝さんとの関係で……と聞いています」
「表向きにはな。だが、実はそれだけじゃない。シンプルに、盃を交わしたいと思えるやつがいなかったからだ」
継母や腹違いの兄に冷遇されるだけならまだしも、肉親である父親からも虐待を受けた恭弥が無意識のうちに他者を警戒し、不信感を抱くのは仕方のないことだろう。まして、若頭就任後も敵意や侮蔑の感情を向けてくる光輝派の構成員に囲まれていれば、信用できる相手などいるはずない。信用のおけない相手と杯を交わしたいと思えないのは至極当然な話だ。
「だが、これからはそう言っていられない。俺が親父の後を継ぐとなったら剋神会直参の組長たちと盃を交わし直す必要があるからな。そこに俺の意思はない。後を継いだらもう、俺は大神斎の息子という立場と剋神会の看板に縛られた”道具”として生きなくてはならないんだ。だからな、猛」
恭弥はそう言ってしばし間を置いたあと、猛の目を見つめて言った。
「俺は今、俺の意思だけで相手を選べるうちに、お前と盃を交わしたい。口上人も見届人もいない非公式な形だが、受けてくれるか?」
胸の奥から熱い感情がこみあげる。すぐに返事をしようとしたが声が詰まってしまい、猛は口だけを何度か動かした。
「嫌か?」
「ちがっ……違います」
わずかに悲しい表情を浮かべた恭弥の言葉にかぶせるように猛は言う。
「嬉しいんです。恭弥さんが俺と盃を交わしたいと思ってくれたことが。思い上がりかもしれませんが、恭弥さんが俺のことを特別な存在だと思ってくれているようで、すごく……」
「思い上がりなんかじゃないさ。猛は俺にとって特別な存在だ。ずっと前からな」
恭弥はそう言って立ち上がるとグラスを持って猛に歩み寄った。猛もそれに倣うようにグラスを持って立ち上がる。
「ここに集いし我らは、古より続く絆の証しとして契りの盃を交わします。時の流れがいかに厳しくとも、我らの絆を揺るぎなきものとするために五つの誓いをここに立てます。第一に、互いの繁栄と幸せを常に願い支え合うことを誓います。 第二に、困難に直面した時には力を合わせて乗り越えることを誓います。 第三に、誠実と信義を守り信頼を裏切らないことを誓います。 第四に、相互尊重の精神を忘れず思いやりを持って接することを誓います。 第五に、未来永劫、この絆を絶やすことなく共に歩み続けることを誓います」
美しく淀みのない声で誓いの言葉を述べると、恭弥は猛の口元にグラスを差し出した。猛もまた恭弥の口元にグラスを差し出す。
「誓います」
猛は宣誓すると、口元に差し出されたグラスに口をつけた。恭弥もまた猛が差し出したグラスに口をつけ、二人は互いの盃を飲み干しあう——柑橘のような爽やかな香りと微かな苦味を感じさせるアルコールが喉を滑り落ちる。量は決して多くなかったが、なぜか体中が熱くなり視界が揺れるような気がした。
「猛」
「はい」
「俺はこれから、お前以外の者たちと何度も盃を交わすだろう。だが、俺が本心で契りを結ぶのはお前が最初で最後だ。だからどうか、今夜のことを忘れないでほしい。俺もこの日のことを一生忘れない」
「恭弥さん、俺……」
恭弥の言葉に応えようと口を開いたその時、まるで足元をすくわれたかのように視界が大きく傾く。いや、傾いているのは自分自身の身体なのだと猛は理解した。
「猛? 大丈夫か?」
「なんでしょう、体がクラクラします」
「猛……お前、下戸なのか?」
「わかりません」
体から力が抜け、立つこともままならなくなる。恭弥は慌てて猛を支えた。
「わからない? まさか、酒を飲んだのは今日が初めてか?」
「はい」
猛の答えを聞いた恭弥は思わず天を仰ぐ。そういえば、今まで酒を飲ませたことがなかった。大きな体と西洋人を思わせる顔立ちから飲めるものだと思い込んでいたが、全くの見当違いだったとは——。
「猛、すまなかった。知らなかったんだ。とにかく、ベッドへいこう。歩けるか?」
猛は恭弥の肩を借りながら覚束ない足取りで歩き始める。途中、壁やドアにぶつかりながらも何とか寝室にたどり着くことができた。
「もう少しだ。猛、おい、まだ寝るな」
足元がぐらつき恭弥の声が遠くに聞こえる。体が重くなり、膝がガクリと落ちた。
「おいっ、待て待て待て待てっ!」
半ば崩れ落ちる猛の巨体を支えながら何とかベッドまで連れて行く恭弥。だが、寝かせることまでは叶わず、ベッドの脇で折り重なるように崩れ落ちてしまった。
「猛! おい、猛!」
自身に覆いかぶさるように眠ってしまった猛の頬を軽くたたく。眉が微かに動いたが起きる気配は一向にない。恭弥は身をよじって負荷を軽減することに成功したが、完全に抜け出すことは出来そうもないと悟る。
「……まったく、手のかかるご主人様だ」
恭弥は深々とため息をつくと、寝息を立てる猛の体を強く抱きしめて呟いた。
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