7 / 12
第七話
目を覚ました時、すぐそばに恭弥の顔があることに驚いた猛は、はっと息をのんで周囲を見回す。夜明け前の青白い光が差し込む寝室。灰色のカーペットが敷かれた床の上で抱き合うように二人は寝転がっている。背中には恭弥の腕が回され、ベッドから半ばずり落ちたコンフォーターが掛けられていた。昨夜、生まれて初めて酒を飲んで強烈な眠気に襲われた事は覚えているが、その後の記憶が全くない。いったいこれはどういう状況なのだろうか。
猛が身じろぎすると恭弥がうっすらと目を開ける。わずかにぼんやりとした目で猛の顔を見ると、恭弥は口元に微かな笑みを浮かべて猛を強く抱きしめた。頬と頬が触れ合い、首筋に吐息がかかる。猛はその時ようやく、自身のものが硬くそそり立っていることに気づいた。
「猛」
熱を含んだ声が耳をくすぐる。
「キスしてくれ」
「!?」
予想していなかった言葉に、心臓が大きく鳴った。いま、キスをしろと言われたのか?
「……冗談だ」
驚きのあまり固まってしまった猛にそう言うと、恭弥は身を捩って猛の下から抜け出す。硬い床に寝ていたせいで背中が痛いらしく、起き上がって大きく伸びをしながら眠たげにあくびをした。
「俺は部屋に戻る。お前ももう少し寝ろ、次はベッドでな」
口の端をわずかに上げて皮肉げに言うと、何か応える間も与えず部屋を去っていく。猛は恭弥を呼び止めたい衝動に駆られたが、その後何をしたいのか分からなかったため、呼び止めるのをやめた。
猛は言われた通りベッドに入り、腕の中に残った恭弥の余韻を反芻する。不思議な感覚だった。『ソドム』のプレイルームで抱きしめた時とは違う、甘く柔らかな感覚。高揚と安堵が入り混じった感覚。あれは一体何だったのだろうか。恭弥と出会って以来、猛の中には様々な感情と感覚が現れるようになり、それをどう受け止めればよいかわからず持て余し続けていた。
朝までまだ少し時間がある。もう少し寝ておかねばと思うものの、体の奥に熱がこもったような感覚に囚われ眠りにつくことができない。ベッドの中で幾度となく寝返りを繰り返しては浅い眠りに落ち、また目を覚ましては寝返りを繰り返す。そうしているうちに白々と夜が明け、部屋の外からなにやら香ばしい匂いが漂ってきた。
猛は寝るのを諦めてベッドから出ると、目を覚ますためにシャワーを浴びる。そういえば今日は『ソドム』に行く日だったと思い出し、約束の時間を今一度確認する——午後一時。いつもよりかなり早い時間だ。
身だしなみを整え、ネクタイとジャケットを手にリビングに向かう。香ばしい匂いが強くなり、猛は急激に空腹感を覚えた。
「おはようござ……」
そう言いかけて猛は口をつぐむ。恭弥が電話で話しているのが見えたからだ。
「そうか、わかった。とりあえずそのまま続けてくれ。うん? あぁ、知っている」
恭弥は横目で猛を見ると、すでに朝食が並べられたテーブルを指さして着席を勧める。猛は小さく会釈をして恭弥の前を通り過ぎ、指定された席についた。
「……そうか。わかった。一時だな。準備しておく」
そう言って電話を切ると、恭弥は小さくため息をつく。その表情は暗く、どこか固く冷たく見えた。
「恭弥さん?」
猛が声を掛けると、恭弥は何事もなかったかのように静かに微笑む。
「おはよう、猛。ベッドの寝心地は床より悪かったか? まだ眠そうな顔をしているぞ」
皮肉げな口調で言いながら慣れた手つきで茶を淹れる恭弥。口元こそ微笑んでいるが目は笑っていなかった。なにか悪い知らせを受けたのかもしれない。
「猛、今日は確か『ソドム』に行く日だったな」
「はい。一時からです」
「そうか。じゃあ今日は昼までゆっくり過ごせ。俺のプライベートカーを使っていいぞ」
「恭弥さんはどうするんですか?」
猛の前に淹れたての緑茶を置くと恭弥は食事もとらず外出の準備を始める。
「武藤の迎えが来たら本家に向かう。午後から会食で帰りは遅くなるかもしれんが心配はいらん。相手は女だ。よほどのことがない限り殺されはしないさ」
「女……ですか」
スマートフォンの通知音が鳴った。恭弥は画面をすばやく確認し、胸ポケットにそれをしまうと猛の方を見てわずかに苦笑する。
「見合いだ。俺の分も食っていいぞ、じゃあな」
頭を殴られたような気がした。思わず絶句しているうちに恭弥は去っていき、猛は一人取り残される——食欲はすっかり失せていた。
「なるほど、恭弥が見合いねぇ……」
モヤモヤとした感情を抱いたまま恭弥が作った朝食を半ば無理やり詰め込み、理由のわからない苛立ちや不安を消し去るために恭弥の寝室以外を徹底的に掃除したあと、ついにやることが思いつかなくなった猛は約束よりも早い時間に『ソドム』に向かった。しかし、いざついてみると英二の迷惑になるのではないかという思いが立ち上り、どうすべきか悩んでいるところに英二が通りがかった。昼食をとるために外に出たところ、恭弥のプライベートカーが止まっていることに気づいて中を覗いてみたらしい。猛の表情が暗く顔色も良くないことに気づいた英二は、昼食の予定を取りやめて猛を事務所へと連れていき、事の次第を聞き取っているところだった。
「で、猛はそれがショックだったと」
「多分」
「多分?」
「実は最近、自分のことがよくわからないんです」
「自分の感情がわからないってことか?」
「はい」
「ふーん……」
英二は顎に手を当ててしばし考え込むと、やがて何か思いついたようにスマートフォンを取り出し、画面の上に指を滑らせ始める。
「わからないといっても、全部ってわけじゃないだろ? 例えば、列に割り込まれてイラっとしたら腹が立つのは割り込まれたからだとわかるし、飯を食って嬉しくなるのは食ったものが美味いからだとわかるんだよな?」
「はい。そういう感情を持つことは以前からありましたので」
「わからないのは最近になって初めて知った感情のことだな」
「そうですね。ただ、以前から知っている感情も、それが何であるかはわかっても、なぜその感情が起こったのかわからないということが時々あります」
「まぁ、そうだろうな」
誰かにメッセージを送ったらしく、手を止めて画面を見つめたまま英二は言った。しばらくすると返信を知らせる通知音が鳴り、それを見た英二は画面を二度タップしてからスマートフォンを置く。
「ところで、恭弥と一緒に住み始めたんだろ?」
「快適です。ただ……」
「ただ?」
「何から何まで用意してくれて、食事まで作ってくれるので、こんなにしてもらっていいのかと少し居心地が悪いというかなんというか」
「そりゃそうか。上司と部下だもんな、一応」
英二が愉快そうに笑うと猛もつられるように笑う。話をしたことでかなり気が楽になった。
「気にすることないさ、恭弥はやりたくてやってるんだ。ところで、今日は大丈夫そうか?」
「はい」
「それはよかった。じゃあプレイルームに行こう。今日は着替えなくてもいいぞ」
猛と英二はプレイルームに移動する。いつもなら佐竹が待機しているはずだが、今日は誰もいない。
「今日は拘束について教える。拘束は定番中の定番といえるプレイだ。痛みがないから初心者にも人気があるし、全身を拘束するか体の一部を拘束するか、どんな道具を使うかによって相手の好みや熟練度に合わせられるのもいい。放置、苦痛、恥辱といった責めと組み合わせる事もできるからプレイの幅が広がるぞ」
そう言うと英二は部屋の奥にあるキャビネットの引き出しを開け、猛を手招きする。中には手枷、足枷、口枷、アイマスク、束ねた縄などが収められていた。
「拘束具にはいろんな種類があるが、ざっくり分けると手枷や足枷のような専門の拘束具、縄、それから手ぬぐいやネクタイのような代替品の三種類がある。専門の拘束具はとにかく手軽で使いやすい。特別なスキルは必要ないし、安全性も高いから初心者にもオススメだ」
拘束具の素材によっては痛みを感じるだろうが、柔らかい素材のものであれば痛みもない。それは猛自身が体験済みだ。
「手ぬぐいやネクタイは特別な用意をしてないときに使ったり、オフィスなんかに見立ててやるシチュエーションプレイの時に使ったりする。そこら辺にあるものを使えばいいから手軽っちゃぁ手軽だが、材質や大きさによって拘束できなかったり危険だったりするから意外と難しい。ある程度の慣れが必要だな。で、最後は縄だが……」
英二は一束の縄を手に取る。直径1センチほどの赤い縄だ。
「こいつはとにかく応用が利く。縛り方さえ分かっていれば腕でも脚でも全身でも拘束出来るから用途別にチマチマ買い集める必要もない。縛り方や材質を変えることで初心者から上級者まで喜ばせてやれる。なにより見た目が美しいってのがいい。ただ、他のものに比べると習得が難しいってのがネックだな。それに、一つ間違えれば命取りだ」
そう言うと英二は猛に縄を渡す。綺麗に束ねられたそれを丁寧に解く——かなり長い。10mはあるだろうか。
「恭弥は縄が好きだ。ただ、俺には使わせてくれないがな」
「なぜ?」
「あいつにとって俺は仮の主だからさ。まぁ、俺は縄の扱いは苦手だからちょうどいい」
猛は「仮の主」という言葉に引っかかりを感じる。
「すみません、一つ質問ですが、仮とはどういうことですか?」
「ああ、すまん。それは気にしなくていい。大切なことは、恭弥がお前を本当の主として求めているってことだ。そのためにも縄の扱いを覚えておけ」
「わかりました」
「と、いうわけで早速だが。今からお前に縛りを体験してもらう」
そう言い終わるや否や、誰かがドアをノックする音が聞こえた。英二は小走りでドアを開ける——小型のアタッシュケースを持った和服姿の男が入ってきた。
「どうも、緊縛師の彩雲と申します」
男はそういうと丁寧に一礼して穏やかに微笑む。年齢は六十代後半といったところだろうか、髪は白く小柄で痩せている。
「緊縛師?」
「緊縛師は縄を使った緊縛術のプロだ。縄師とかロープアーティストなんて呼ばれることもあるがな。彩雲先生にはうちの店での技術指導をお願いしてる。先生、こいつは猛っていいます。どうぞご指導のほどよろしくお願いします」
彩雲は軽く手をあげて「硬い硬い」と言って笑うと、手近な場所にあるテーブルの上にアタッシュケースを置いて開いた。中には数個の縄の束が入っている。
「猛君、その縄を持ってこっちに来て」
「はい」
猛は解いた縄をひとまとめにして彩雲の元に向かった。彩雲は小さくうなずくと柔和な笑みを浮かべて猛を見上げる。
「君、ずいぶんデカいねぇ。こりゃ縛りがいがありそうだ」
「え?」
「今から先生に縛ってもらうんだよ」
縛りを体験してもらうと英二は言った。猛はそれを縛り方を教えるという意味だと解釈していたのだが、まさか縛られる方だとは。
「縛り方を教えてもらうのだとばかり思っていました」
「ん、それももちろん教えるけどさ。緊縛ってただ縛ればいいってもんじゃないんだよ。なんていうのかなぁ、縄を使ったコミュニケーションみたいなもんなんだよ。でね、コミュニケーションって相手の言語を理解してないと難しいでしょ? だからまず実際に縛られてみて、体でその言語を覚えるわけ」
今一つ実感はわかなかったが、言いたいことは何となく理解できた。
「まず、縄のことを説明するよ。緊縛に使う縄は麻か綿のどっちかが多いね。定番は麻縄。麻にもいろいろあるけどジュートっていう種類が一般的だよ。麻縄は綿に比べるとメンテナンスが面倒だし少し硬いから痛みを感じやすいし痕も残りやすい。でも、伸縮性がほとんどないからズレたり緩んだりしにくいよ。綿はメンテナンスが楽だし痛みも少ない。ただ、麻縄よりも伸縮性があるから拘束感は緩くて初心者向きかな。まぁ、どっちの縄を使っても縛り方は同じだからあまり気にしなくていいよ。自分で買う時の参考程度に覚えといて。今日は君が今手に持ってる麻縄を使おう。じゃあとりあえず下着姿になって」
猛は指示通り服を脱ぎパンツ一枚の姿になる。彩雲は感心したような呻き声を上げると猛の全身をまじまじと見つめながら小さくため息をついた。
「いい体してるねぇ。この筋肉の付き方は格闘技か何かかな? ジムで鍛えた体じゃないね」
「はい、そんな感じです」
「じゃあ痛みには強い方かな。人を縛るときは自分を基準に考えないように気を付けてね。さて、まずはポピュラーに後手縛りからやってみようか」
猛はその場で膝立ちになり両手を後ろに回す。彩雲は麻縄を手に取って猛の背後に回ると手首を縛り、軽く引き上げたかと思うと二の腕の上を通って正面から背中までぐるりと縄をかけた。胸の上部に二度目の縄が渡り、背後で縄が引き締められると一気に拘束感が増し思わず息が漏れる。
「縄は半分に折って二本取りで使うのが基本。縄をかけるときはきちんとそろえて、ねじれが出来ないように丁寧に。緩すぎると縄が滑って体に傷がついたり首に掛かったりするし、きつすぎると血の流れを止めてしまいかねない。慣れないうちは強く縛り過ぎてしまうことが多いから気を付けて。縄のゆとりをこまめにチェックするだけじゃなく、相手の顔色や息遣い、肌の色をしっかり観察するんだよ」
「はい」
彩雲は手を休めずに猛に縄をかけていく。縄が結ばれ引き締められるごとに拘束が強くなり、それにつれて体の感覚が敏感になっていくような気がした。
「ほら、出来たよ。これが基本にして至高ともいわれる後手縛りだ。あそこにある鏡で見てごらん。よく似合っているよ」
壁面に設置された大きな鏡には後ろ手に縛られた猛の姿が映っている。鍛え上げられた腕や胸の上を渡る縄は古い木造建築のような構造美を備えていた。
「女性の場合はもう一手間かけて乳房を絞ることもあるよ。それから、この脇の下の縄、これは”閂”って言うんだけど、これは省略することもある。ただ、吊りを想定してるなら閂は必須だね、縄がずり上がって首にかからないようにする役目があるんだよ」
胸側と背中側の縄をまとめるようにかけられた「閂」に目を落とす。拘束感を高めるためのものかと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。
「さて、縛られてみてどんな気分かな?」
「不思議な気分です。少し息苦しいけれど、なぜか少し安心するような……」
手首だけを拘束する手枷に比べると、胸や腕まで拘束されている分動きが制限されて息苦しい。だが、その不自由さが妙に心地よかった。
「安心かぁ。そういえば、押し入れの中や大きな箱のなかに入っているような気分だっていうMさんもいたね。縛りが好きなMさんは虐待を受けていた事が多いんだけど、胎内回帰っていうのかな、そういう暗くて狭い場所が好きみたい。安心するんだって」
少しわかる気がした。猛の来歴は特殊なものであるため単純に比較することは出来ないが、小さな頃は狭い場所によく隠れていた記憶がある。不安と安心が入り混じったような不思議な感覚だった。
「さて、本当は縛りだけのつもりだったんだけど狩野君からの依頼でね、今日は吊りも体験してもらうよ」
そういうと彩雲は猛をうつぶせに寝かせ、新たな縄をかけ始める。縛るだけではなく吊り下げられると思っていなかった猛が戸惑っているうちに両脚も縛りあげられ完全に身動きできない状態となってしまった。いわゆる「逆エビ」に近い姿勢になっているため、すでに息苦しい。
「吊りはね、縛りとは違って純粋に苦痛だけを与えるものなんだ。だから古今東西いろんな場所で拷問に使われている。日本では江戸時代の吊り責めが有名だね。まぁ、どんな体勢でどんなふうに吊るかで苦しさは変わるけれど、どうあれ縛りよりも危険だから、君はまだやらないでね」
彩雲はそういうと、天井から下がったフックに縄をかけて鎖をゆっくり巻き上げていく。たるんでいた縄がピンと張って軋むような音がしたかと思うと縄が徐々に食い込み始め、体が絞めあげられるような感覚が襲ってきた。上半身と下半身に負荷を分散しているとはいえ、体が完全に浮いた状態になると重力も加わりかなりの苦痛となる。
「はっ……ぐっ……」
床から1.5mほど吊り上げられ、猛は微かに恐怖を覚えた。縄の痛みと血液が下がっていく感覚、身動きできない状態で落下するかもしれないという不安のなかで喘ぐような呼吸しかできない。空気を吸おうとしても肺の奥まで吸うことができないためだ。
「こりゃ壮観だな」
「うん、とても綺麗だ。でも、これだけ大きいと体重もあるだろうし、かなり苦しいだろうね」
英二と彩雲の声が聞こえる。顔を巡らせることもままならないため二人の表情をうかがうことはできないが、その口調と声色から満足げな笑顔を浮かべているのだろうということは想像できた。
「猛。吊られた感想はどうだ?」
「ぐるじ……ぐで、からだじゅう……いた……」
荒く息を吐きながら苦痛の間から声を絞り出す。喋ったせいで酸欠が進んだのか目の前がかすみ、心臓が早鐘を打ち始めた。顔や体が熱くなり脂汗が吹き出す。
「お前ほど屈強な男でもやっぱりキツイもんはキツイか。まぁ、そうじゃなきゃ拷問にならねぇもんな。というわけで、せっかくだからいくつか質問に答えてもらおうか」
英二はそういうと壁にかけてある乗馬鞭をとり、ゆっくりと猛に歩み寄った。床に視線を落とす猛の視界に黒い靴のつま先がチラリと見える。
「猛。ここに初めて来た日、抜いただろ」
縄と荷重による責めで悲鳴を上げていた心臓がドクンと脈打ち、顔がさらに紅潮していく。痕跡が残らぬよう丁寧に洗い流したはずなのに、なぜバレてしまったのだろうか。
「は……い……」
「ネタは恭弥だな?」
「そう……です」
重力で体の正面に血液が溜まってきたせいかペニスが膨らみ始める。痛みと息苦しさで性的興奮とは程遠い状況だというのに勃起してしまうことに、猛は屈辱的な気持ちになった。
「あいつを犯したいと思ったか?」
「……いいえ」
猛の答えを聞くやいなや英二は鞭を振るう。無防備な脇腹に鋭い痛みが走り、ジンジンと痺れるような感覚が広がった。
「嘘つくんじゃねぇ!」
「がはっ……」
猛は小さく咳き込む。唾液と汗がしたたり落ちた。
「もう一度聞く。お前は恭弥を犯したいと思ったか?」
「……ちがう」
英二は鞭の柄で吊りさげられた猛の脇腹を強く押しやる。体が振り子のように揺れ、縄が体にギリギリと食い込んだ。強烈なめまいに襲われたように視界が歪み、耳の奥が詰まったような感覚になる。
「聞き方を変えよう、恭弥とヤりたいと思ったか?」
「は……い」
「力ずくでヤろうと思ったか?」
「ちが……う」
猛はこれまでに何度も恭弥の痴態を思い出して自慰に耽ったが、力ずくで犯そうと思ったことは一度もない。むしろ、恭弥に欲情してしまう自分自身を恥じる気持ちすらあり、恭弥はもちろん英二にも知られたくないと思っていた。無論、力ずくで自らの欲望を叶えようなどと微塵も思ったことはない。
「いわない……で」
「お前が恭弥とヤりたいと思ってることをか?」
「は、い」
「ふーん、なぜ?」
「こわ……い」
猛が自らの欲望を恥じていたのは、その欲は恭弥を侮辱する男たちや恭弥を裏切り傷つけ続ける大神斎が持つものと同質だと考えているからだ。恭弥に知られれば軽蔑されるに違いないし、二度と側に置いてもらえないかもしれない。
「何を恐れている」
目の前が暗くなり、耳元で心臓の音が鳴り響いた。全身が軋み、体が重い。だが、その感覚とは裏腹に、意識は体から解き放たれ昇っていくかのように軽い。問いかける声はもはや誰のものでもない、天から降り注ぐ神の声のように聞こえた。
「あの人を汚すやつらと同じになりたくない。守りたい。あの人を傷つける者、全てから。なのに、どうしようもなく欲しくなる。耐えられなくて頭の中で何度も汚してしまった。知られたら失望される。俺は失いたくない。あの人の側にいたい」
「そのために、お前は自分を隠し続けるのか?」
「俺は何でもする。あの人のためなら自分の欲望なんて捨てられる。命も体も全部捧げられる。望まれるなら何にでもなる。奴隷でも主でも道化でも何にでもなる」
「……お前は恭弥のことを愛しているのか?」
親も兄弟もなく友人と呼べる者も持ち得なかった猛は、誰かと心を通わせるという感覚をほとんど知らずに育った。唯一、アリスだけがその喜びを教えてくれたが、全て奪われ壊されてしまった。その経験から猛は心を閉ざし、誰かを求めることも求められることもなく、空虚な心を闘争で埋めるだけの日々を送っていた。
だが、恭弥がそれを変えた。最初はただ、自分の命を買った男だとしか思っていなかった。彼に仕えるのは単なる義務であり、自分はただの道具に過ぎないのだと考えていた。だが、今は心の底から恭弥を大切に思い、与えられるものは全て与えたいと思っている。怒り、不安、焦燥、喜びと幸福。あらゆる感情を恭弥が目覚めさせてくれたと感じている。これほど強く誰かを求め、求められることを望んだことはない。生まれて初めて得たこの感覚に名前を付けるならば——。
「愛しています」
体が浮き上がるような気がした。いや、正確にはゆっくりと下降している。ほんの数秒のような、はたまた数時間のような時間をかけて着地すると、窮屈に縛り上げられていた腕と脚が解き放たれ、体が少しずつ元の感覚を取り戻し始めた。呼吸が楽になり、空を漂っていた意識が少しずつ現実に引き戻されていく。
「よく頑張ったな、猛」
仰向けに寝かされた猛の顔を覗き込むと英二はいう。先ほどの会話は朦朧とする意識が見せた幻覚だったのか、はたまた現実の一部だったのか。その答えは見えなかったが、今まで見えていなかった——いや、気づいていながら目をそらしていた自分自身を受け入れた解放感と高揚感が体中を満たしている。今はそれで良いような気がした。
「今日はこれで終わりだ。起き上がれそうか?」
「すみません、もう少し……あの、彩雲先生は」
「あぁ、先生ならさっき帰られたよ。何でもこの後、新城のバーでショーをやるらしい」
英二は猛の横にドカリと座り、ほんの少し何かを考え手から再び口を開く。
「前にさ、恭弥のためにSになったみたいなこと言ったの、覚えてるか?」
「はい。恭弥さんの自傷行為がエスカレートして、そのままでは危険だと思ったからだと」
「ああ、そうだ。それだがな、実際のところは少し違う。そのままだと危険だと思ったってのは確かなんだが、実は俺、恭弥に惚れていたんだ。つまり下心があったんだよ」
少し考えればわかることだったかもしれないが、猛にとっては全くの予想外だった。
「あ、今は違うぞ。恭弥は俺に感謝することはあっても惚れることは絶対にないってわかってるしな。だから俺はあいつとヤッたことは一度もないんだ。尺らせたこともない。望んでない相手とやるべきじゃないからな、そういうことは」
肉体的な欲望と傷つけたくないという想い。その二つの間で葛藤する苦しみを英二も抱えてきたのだ。おそらく、猛よりもずっと深く、ずっと長く。
「恭弥がお前を見つけてきた時は内心面白くなかったよ。惚れた腫れたは諦めてるし今の関係でもいいって割り切ってるとは言え、俺は二十年くらい前からずっと恭弥のことを見てきたんだ。はい、そうですかと簡単には譲れないだろ。だから、お前をこの目で見極めて、クソ野郎だったらどんな手を使っても恭弥から引き剥がしてやろうと思った」
猛が英二の立場であれば、きっと同じように考えただろう。まして、裏社会育ちとなれば、人を人とも思わぬゲス野郎かもしれないと思うのは当然だ。実際、あの闘技場にいたのは狂犬ブライアンほどではないにせよ似たりよったりの外道か、表の社会からドロップアウトした者ばかりだった。
「俺が今までやってきた”教育”は、ただテクニックを教えるだけのものじゃない。お前を見極めるためのテストみたいなもんだったんだよ。まぁ、放置プレイしたのは俺の私情も混ざっているんだけどな。悪かった」
「今日もテストだったんですね?」
「いや、今日のはそうじゃない。そんなことしなくても、お前の人となりはもうわかってるしな。今日のはなんというか、俺流の手荒なカウンセリングだな」
「カウンセリング……ですか」
いまいち理解できないと言った表情を浮かべる猛。英二は少し苦笑した。
「さて、そろそろ起きれそうか?」
「はい。もう大丈夫そうです」
そう言って猛はゆっくりと起き上がる。体についた縄の跡がまだ少し痛むが、意識ははっきりとし、めまいなども特になかった。
「あと何度か彩雲先生に縛りを習って、それが終わったらようやく一人前だ。独立式をやろう。その時は猛が一人で恭弥とプレイすることになるからな、今のうちにプランを練っておけ」
ともだちにシェアしよう!

