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第3話 未知との遭遇
――風邪、早く治せよー。
「…………はぁ」
そんな無邪気なリプに小さく溜め息をついて、スマホをコートのポケットにしまった。
なんとなく。
なんとなぁく、断った。
今日の飲み会の誘い。
行っても、行かなくてもいいし。で、いつもは「じゃあ」って感じで行ってた飲み会が、今日は寒いし、朝の天気予報で最低気温がマイナスになるって言ってたし、ここのところ、連日飲み会だったし、明日はバイトだし。だから、なんとなく断った。
とくに用事がないから行ってた飲み会に。
とくに用事はないけど行かないでもいいかなって、思って。
寒くて、鬱……とかではないけど、そんなに楽しいとも思ってなくて。
普段なら、まぁ日々というものはそんなもんでしょって思ってたけど。
「……」
大学行って、飲み会行って、バイト行って。
彼女がいたり、いなかったり。
テストがあったり、課題があったり、なんもなかったり。
そういうものでしょって思ってた。
そんな毎日の中に舞い込んできた、真っ赤な。
「…………あの」
そして今は、目の前に真っ黒なふわふわもじゃもじゃ、ツヤツヤ。
「! ヒヘっ! あっ、すみっ、すみませんっ!」
変な叫び声が階段に響き渡った。
「あ、あのっ」
変な叫び声の人が、また真っ赤になりながら、手をバタつかせてる。そして、俺の部屋の扉、ドアノブに紙袋が……。
「あ! 怪しいものではっ、あの、昨日、とんでもないことをっ、あのっ、なのでっ、お詫びと」
「……飛んできたけど」
「ヒヘ?」
あ、目、でかい。
すご。
まんまるだ。
「あ、なんでもない、アホな冗談」
「?」
「とんでもない」と「飛んできた」を……って。
苦笑いを溢した俺に、林田さんが不思議そうな顔をした。
「何か」
「あ! いえ、ご迷惑かけたので、お礼とお詫びに、その、ちょっとしたものを」
ドアノブにかけてくれてたのを取ると中にラッピングされた小さな箱が入ってた。
「あ、紅茶っ、です」
さっきの真っ黒でまんまるな瞳は、俯いちゃったせいでもう見えなくて。
デカかったな。瞳。
「あ、あの、拾って」
「俺、コーヒー派なんだ」
「ヒヘ! あっ、すみっ」
「だからあんま紅茶ってよくわかんなくて」
日向に出たことないみたいな、日差しに当たったことがほとんどないような真っ白な肌だから。
「一緒に飲みません?」
その白い肌には、まんまるな瞳がなんか吸い込まれそうなくらい、黒い気がした。
「……え?」
もう一回、見たい気がした。
「紅茶」
「……へ?」
このキョドキョドした感じとか、変な返事とか、真っ黒な髪も、何かいつもどおりしか並んでない俺の日常にはなくて珍しくて。
「紅茶」
面白かった。
「飲まない?」
未知との遭遇って感じがした。
「フツーのマグしかないんだけど。こういう高い紅茶って、なんか、すごいので飲まない?」
「あ、マグ……だと、少し湯量が多すぎるかも、しれない、です」
声、が優しい感じがする
「どんくらい? あっつあつがいいんだっけ?」
「あ、沸騰、させていただけたら」
「おけー」
あと、言葉がくすぐったくなるくらい丁寧で。
実際、少しくすぐったくて笑った。
「……すげ、桃?」
パッケージを開けると、ふんわりと桃みたいな甘い香りがする。
「あ、フルーツティーなんです。あのっ、苦手、でしたか?」
「んー飲んだことない」
「す、すみませんっ」
「林田さんは? 何味……」
「ヒヘっ!」
…………失敗した、かも。
お互い、名札なんて玄関扉のところ貼ってない。なのに苗字知ってるとか、軽く調べてた感、ある? ちょっと気になって、エントランスとのところの郵便受け見ちゃっただけなんだけど。でも、それがそもそも調べた感ある? ちょっとキモい?
「す、すみませんっ、じゃあ、僕は、アップル、を」
「……お、けー」
引いた? かも?
「…………」
郵便受け隣なんで、名前、知ってただけで、って今ここで言うの、怪しい? 実際、あの飛んで来たランジェリー以前はお隣さんの名前知らなかったし。くるくるふわふわツヤツヤな黒いもじゃもじゃ頭の人って思ってたし。今もおじーちゃん、おばーちゃんって認識してるだけで、南向きの四◯三の人の苗字は知らないし。
「あ、ねぇ、これただお湯、ジョボジョボ注げばいー感じ?」
「あっ、はいっ、蓋あるといいんですか。蒸らすと香りが立つので」
「へー」
「あ、でも、なくても」
「え? これじゃ、ダメ? ラップ」
「あ……はい」
林田さんがびっくりした顔をして、ラップで蓋をした二つのマグをじっと見つめた。
「いえ、はい、大丈夫です」
そしてニコッと笑った。
あ、ほら、目がクリクリしてる。
こういう笑い方をする人、初めて遭遇した。
こんな丁寧に話す人も、周りにいない。
こんなふうに優しい声も、耳に馴染んでない。
「ニ、三分、蒸らしていただいて」
「そんなに?」
「は、はいっ、あ、その間に、一緒に箱に入れていただいたクッキーでもっ、酒井(さかい)さんのお口に合えばっ」
あ……俺の、苗字。
「あ! あのっ、すみません、お詫びの品に手紙を添えようかとっ、思って、お名前をっ郵便受けでっ」
多分、今、林田さんの頭の中は、お茶を注ぐ前に、俺が思っていたこととほぼ一緒。失敗したかも、のくだりから、ちょっとキモい? の辺りと同じ。
でも、林田さんは、キモい、とか使わなそうだから。
ちょっと気持ち悪い? とか、かな。思うとしたら。
「あのっ」
「郵便受けもお隣さんだもんね」
「あっ、はいっ! はいっ」
「俺は酒に井戸の井、んで、下の名前が翠伊」
「すい……」
「みどり、難しい漢字の方の」
「翡翠の?」
「あ、そう。それとイは伊勢志摩の伊」
「ご出身が?」
「いやそういうわけじゃないけど」
意図は知らないけどねって言ったら、薄く唇を開いてる林田さんが、綺麗な名前ですって感心したように呟いた。
「あっ、あの、僕はっ、林に田んぼの田です……林田、を他の漢字で思い浮かべる方、そうはいませんが」
「だね」
「下の名前は、桜介、といいます」
「おうすけ」
「桜に、介護の」
「へぇ」
桜介、桜が名前につくんだ。
「春生まれ?」
「あ、はい」
「林田さんの方がすげぇ綺麗な名前」
「!」
だからなのかもね。名前はその人を表すっていうじゃん。だから、いつでも林田さんのほっぺたは桜色なのかもね。
「あ、も、ももも、もう、蒸らし時間、大丈夫、です」
「おけー」
びっくりした。
「すげ、良い香り」
「そうなんですっ、香りがすごく良くて」
本当に良い香りがした。それが紅茶からじゃなくて、目の前にいる真っ白な肌に真っ黒な瞳、真っ赤はほっぺたの林田さんから漂ってるような気がするくらい、その甘やかなその香りが部屋いっぱいに広がったから。
すげぇ、びっくりしたんだ。
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