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第16話 小数点以下のゼロの数

 定時で上がると六時半、なんだって。  ――ピンポーン。  だから、六時四十分なら、部屋にもういるかなぁって。いなかったら、またその十分後に、ピンポンしてみようかなって。ちょっと、怖い? もしかして、グイグイしすぎ? けど、少しでも早く会いたいなぁと思ったもので。 「は、はいっ!」  わ。びっくり、してる。玄関扉が勢いつけて開いたら、目をまん丸くした林田さんが顔を出した。 「こんばんは」 「ひゃえ? へ? あっ、へ?」  あれ? 時間? あ、でも、まだ七時前? そう言ってたのかも。全然、違ってるし、ひゃとへとあ、しか言ってないけど。  やっぱ、可愛いくて、笑った。 「夕飯、一緒に買いに行こうよって思って」 「!」 「コンビニ、行く?」 「あ、うんっ」  そして、林田さんがコクコク頷きながら玄関を出てきた。 「い、行きますっ」  いや、あの。 「あ! 大丈夫、スマホで、支払うから、お財布なしで」 「じゃなくてさ、コートは?」 「? あああああ!」  ニット一枚じゃダメでしょ? つい、この間、一晩だけで積もることはなかったけど、雪が降ったくらいには寒いんだからさ。そして、ニット一枚で玄関に飛び出した林田さんの面白い声が階段の踊り場に響き渡ってた。 「雪、積もらなかったね」 「う、うん。たくさん、降ったのにね」 「ねー……」  はぁ、とひとつ息を吐いたら真っ白になるくらい寒い。 「だ、大学」 「?」 「…………ど、どう、ですか?」  もしかして、会話の練習してるのかな。緊張してる感じ。同僚との会話の予行練習的なのかも。 「んー、それなりに」  こんな感じ? このくらいのテンションがちょうどいい? 練習台としては。  その同僚とはまだ、ちょっと会話したくらいなんだっけ。じゃあ、たしかに最近仕事どーですか? から始めるのがちょうどいいよね。 「忙しいよ」 「そう、なんだ」  いいな、林田さんに想われてて。その人も同じ会社なら同じように今日はノー残業? そしたら、どっかで、のんびりしてるのかな。そのうち、林田さんが飲みに誘ったりするのかな。今度一緒にどう? とか? 金曜かな。ノー残業の水曜かな。じゃあ、そのうち、この水曜日にさ「今日はちょっと頑張ってきます!」なんて元気にいわれっちゃうのかな。あ、いや、当日じゃないか。俺たち連絡先知らないし。お隣っていうこともあって、今時珍しく、連絡先の交換をしてないんだ。ピンポンすれば話せるし。なんか、連絡先訊くタイミングを逃したっていうか。  だから、メッセージのやり取りとかじゃなく、直に色々聞かされるんだろう。  来週、頑張ってきます! とか。そんで、一週間悶々した後、その次の週に結果報告受ける感じ?  一回目のツーショットで言うのかなぁ。いつだっけ、バレンタイン。もう近いよね。  指折り数えてみたら、もうバレンタインはすぐそこで、そのバレンタインは金曜日。  あー、じゃあ、急展開もありえる?  バレンタインで。そこで、決戦的な。  林田さんが泣いちゃうようなことにはなって欲しくないけど。  その同僚といい感じになって笑顔でお礼を言われるのは、かなり、相当、しんどそう。 「……」  音のない溜め息をついたけど。  でも、寒さで、溜め息が真っ白になって目に見えて、零れ落ちた。  諦められるかな。  この人のこと。 「酒井、くん、は……」  諦められなかったら、しんどいだろうな。  だって、ほら、今、目が合っただけで、心臓、騒いでる。ふわふわの髪に触りたいって、指先がジリジリしてる。「おーい」って、この人のこと呼んでる。 「えっと、今日とか、用事、大丈夫? その、か、かの……」 「?」  でも、それはきっと林田さんもそうなんだ。  その人に振られたら、覚悟してても、当たって砕けるつもりでも、やっぱしんどいんだろうし。  会社でそいつと目が合ったりしたしたら、心臓、踊ってると思う。そいつに触れたいって思って、指先がソワソワして。今、ぎゅっと両手を握り締めてるその白い指先で、どうしたら自然と触れられるかな、なんて考えたりして。 「あの」  その真っ黒な瞳でじっと見つめながら。「あの、もしもし?」って話しかけようと言葉を探したりしてる。 「さ! 酒井っくんっ! なら、その、女の子っ、が! たくさん声かけてくるだろうなって、思うから! お、女の子! 僕のために時間! 作ってもらっちゃってて、大丈夫かなって!」 「平気だよ」 「あのっ」 「全然、気にしないで大丈夫」  むしろ、大歓迎。  けど、きっとこれはリミットがあって。林田さんがその同僚に好きだと伝えた時点で終わり。それが実っても、実らなくても。そのリミットまでの間がどのくらいなのかわかんない。それに、もしも本当に当たって砕けちゃったとしても、俺の方に振り向いてくれる可能性って相当低いよね。  けど、どのくらいなんだろう。 「いくらでも手伝うよ」 「……」 「林田さんの手伝い、する」  けど、ゼロ、じゃない? 「応援してる」  小数点以下のゼロがいくつくらい付くかわかんないけど、ゼロがたとえいくつ付いたとしてもどっかでそ、「1」がラストに来るかもしれない?  今は恋愛対象外のただのお隣さんで、ただの恋愛家庭教師だけどさ。  俺が、すっごい必死に頑張ったらさ。 「林田さんの当たって砕けでもいいんです根性」 「!」  俺に、振り向いてくれる、かもしんない? 「すごい、かっこよかったから」  もしも、貴方みたいに頑張ったなら、俺も貴方に好きになってもらえるかも、しんない?  面白いね。  恋愛ってさ、こんなに頑張れるものなんだ。  上がったり下がったり、迷ったり、ためらったり、片想いで、一方通行なのに、こんなにウロウロして忙しいものなんだ。
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