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第28話 桜と苺
世界一硬い唇とキスをしたら、人生で一番、気持ちがふわふわな柔らかさになった。
ふわっふわ。
「あ! あの! ちょっとだけ、僕、部屋に、取りに戻っても」
この人の髪の毛みたいに、ふわっふわ。
「あ、うん」
一人で歩いて……はちょっと面倒だなって思うところにパン屋があった。交差点の角にあって、店の出入り口の左右にある大きな窓からはずらっと並んだパンが見えた。すっごい小さなパン屋で、お客さんが五人も入ったらもう溢れるくらい。そのくらい小さかった。だから店内に入るのに順番待ちするくらい。けど、順番待ちしてもいいかなって思うくらいに安くて、お店の外にまで焼きたてのパンのいい香りがしてた。
それでも、わざわざ一人で歩いて買いには来ないかな。
待つのも少し面倒だし。
けど、林田さんと一緒だと、全然あっという間に到着したし、店内に入る順番待ちも楽しくて、もう少しくらい待ってられそうだった。
そこでそれぞれにパンを三つずつ買って、また同じだけの距離を歩いて戻って。
行く時はまだ寒かったのに、ちょっと今は、暑いかも。
一歩が楽しい。
待ってる一分が楽しい。
そんなことがあるとは思わなかった。
そして一人になると、ふわふわに浮いてたテンションが着地したみたいに静かな部屋の中で、笑っちゃうくらいに浮かれてるんだって、めちゃくちゃ気がつくんだ。
――ピンポーン。
チャイムが鳴って、玄関を開けると林田さんが小さな紙袋を持って立ってた。
「あ、ごめんっ、あの、これ、渡せるかわからないけど、買うだけ買っておこうと思って。お、お邪魔します」
「それって……」
「うん。あの、チョコレート、バレンタインの。あ、でも、チョコ! って感じじゃなくて」
そこで、林田さんが、ビシッと両手を広げて、小さく前ならえ、みたいに自分の胸の辺りで前へ向けた。それが多分、この人なりの「ザ、チョコ」ってイメージっぽい。よくわかんないけど、板チョコをイメージしたのかな。全然わかんないけど。なんか、可愛い。
「あの、チョコレートのドーナツ。あの、すごく、美味しいらしいから」
「…………」
「これなら、バレンタインって感じじゃなくても、なんとなくで渡せるかなって。その、バレンタインって言ったら受取ってもらえないんじゃないかと……って、? あの、酒井くん?」
じっと、チョコを見つめる俺に林田さんが首を傾げてる。
受け取るし。大はしゃぎで。
本当、全部が、なんか、かわいい。
「っぷは」
「?」
「いや、チョコ、ちょうどさ、バレンタインじゃん?」
バレンタインだからって言ったら受け取ってもらえないかもしれないとチョコレートのドーナツを選んだこの人と。
バレンタインだから、告白するのかな。その好きな同僚に告ったりするのかな。タイミング的にちょうどいいよね? そしたらもう会うこともないのかもしれない。だって、付き合っても、当たって砕けちゃったとしても、どっちにしても俺が教える必要なくなっちゃうじゃんとか、考えてた俺。
ほら、またすっごいすれ違ってる。
そう話すと、林田さんがチョコを両手に持ったまま、ぎゅっと肩をすくめた。
マジで笑っちゃうくらいに、すれ違ったままの相思相愛だった。
「座ってて。紅茶、まだあるんだ。一緒に食べようよ。パンとチョコレートのドーナツ」
林田さんが持ってきてくれたあのフレーバーティー。お湯はグッツグツに沸騰させて大丈夫。蒸らす用の蓋はないから、前と同じ感じにラップで代用。
「偶然、俺のバイト先の居酒屋来たでしょ?」
「あ、うん」
「あの時、俺が追いかけてさ。マフラー貸してくれて、嬉しそうに戻ったじゃん?」
「あ」
「あれ、あの時も、好きな同僚がいるから早く二次会戻りたくて、嬉しそうにしてたんっだって思った」
「あ、あれは、パニックで」
「パニック?」
本当にあの居酒屋にしたのは偶然だったんだって。林田さんは幹事じゃないし。
「でも、飲んでたら、チラッと酒井くんを見かけて」
「マジ?」
コクンと頷いてる。
――生頼んだ方いらっしゃいますかー?
宴会用の大きな個室の一番奥にいたら、そんな声が聞こえた。好きな人の声で。
パッと顔を上げたら、俺がいて、嬉しくて、こんな偶然あるんだって思って、お酒をたくさん飲んでは店員さんとして頑張ってる俺を見ようと。
「頼んだら、酒井くんがお酒届けてくれるから。ちょうど奥だし、僕、陰がそもそも薄いから目立たないし。酒井くんに見つからないだろうと思って」
そう、だったんだ。
「それで、嬉しくて有頂天で。あの、宴会が終わって、来てくれたでしょ? あれも、もう酔ってて、妄想なのかなと。酒井くんが追いかけて来てくれるなんて、夢のシチュエーションというか」
それで、ほっぺた赤くしながら、嬉しそうに走って戻っていった、の?
俺は、てっきりあの中に好きな同僚がいるからだと。
「それで、あの、稲田に、酒井くんがいた! って大はしゃぎで話したんだ。翠伊ピいたーって、嬉しくて、テンション上がっちゃって。彼女がそう呼んでたのを真似して、みたりして」
「……」
「翠伊、ピ……って」
「っぷ、あはははは」
きっと他にも、この人が見せてくれた一瞬一瞬の表情。
真っ赤になるほっぺた。
ふわふわ揺れる癖っ毛。
真っ黒な瞳。
全部がいつも俺のことを好きって言ってくれてた。そんで俺はその一瞬一瞬にすごく惹かれててさ。
「ピ、はなくていいけど、呼んでよ。翠伊って」
「!」
あの時は。
―― あ! あのっ、すみません、お詫びの品に手紙を添えようかとっ、思って、お名前をっ郵便受けでっ。
ほっぺたが桜色をしてた。桜介、桜って文字が付く名前のこの人っぽいなって思った。
「す、すすすすすす、翠伊、くん」
「うん」
「翠伊、くん」
「うん」
綺麗な名前ですって言ってくれてたっけ。
「ね、このままさ、ずっとすれ違ったままでさ」
「?」
「俺がレッスンだからって言って、キスの練習しようよって言ったらさ」
「!」
「してた?」
そしたら、少し考えて、唇をキュッと結んで、コクンと頷いた。
「して、た」
「マジ?」
「う、うん。だって、翠伊、くんと、キスできるチャンスなんてもう二度とないだろうから。絶対に、してもらってた」
絶対なんだ。
けど、そしたら、もっとすれ違ってたんだろうな。俺は、この人に同僚の練習台としてでもいいからキスがしたくて、この人はどんな理由でもいいから、二度と機会がないだろうから俺とキスがしたくて。
キス、したいって。
「そういうとこ、すっごい好きかも」
「?」
「桜介さんの、そういう、案外、アグレッシブなとこ」
「!」
そして、貴方のほっぺたがまた、名前と同じ桜色になった。
「二度ところか、いっぱいしようよ」
「……あ、はい」
「キス」
「……ぜひ」
そして、今度はしっとりと唇で触れ合った。
キスの甘い音がして、もうとっくに蒸らし時間のすぎた紅茶の入ったマグからは、ラップの隙間からでもほわりと香る桜フレーバーと苺のフレーバーが混ざり合って、とにかく甘くて美味しそうな香りがしてた。
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