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第31話 戸惑ってるんだ。

 初めてなんだ。  抱き締めたいって、こんなに思ったの。  稲田さんが話してくれた俺の知らない桜介さんのことを聞けば聞くほど、抱き締めたいって思った。すごく、嬉しかった。  多分、稲田さんは、ずっと桜介さんから相談を受けてて、自分がずっと前から聞いてた俺のことを見定めたかったとかじゃなくて。桜介さんのことを俺に伝えたかったんだと思う。  すっごい喜んでるからって。 「あ、あのっ、今日はっ、ごめんねっ」  食事を終えると稲田さんはそのまま帰って行った。俺たちは、映画館のレイトショーを観るために、稲田さんとは反対に賑やかさが増す繁華街を歩いてく。寒くて、みんな、少し背中を丸めながら、早く目的地に行きたいって足早に歩いて行く中を、のんびり進んでた。 「なんか、稲田がどうしても会いたいって言って。その、僕も稲田には色々相談してて。だから、初デートだけど稲田が参加するの断れなくて。というか、初デートだからこそ、稲田にちょっと見てもらいたかったっていうか。あれ? でも、この前、一度、翠伊くんとは出かけたから、初、にはならないのかな。どうなんだろう。それに、翠伊くんはモテるし、デートなんて慣れてるから」  桜介さんが一人で首を傾げた。  お酒、弱いって前に、熱出しちゃった時に言ってた。ちょっと酔ってるのかもしれない。だから、ほっぺたが赤くて、たくさん一人で喋ってて、ふわふわの癖っ毛がゆらりゆらりと揺れてる。  けど、さくらんぼサワーを二杯飲んだだけだった、よね。あれ、美味しかったね。俺も稲田さんに対抗するためだけに頼んだビールはもうその一杯でやめて、次はそれにしたんだ。期間限定のさくらんぼサワー。甘くて、香りが良くて美味しかった。 「ね、桜介さん、手、繋ご」 「ひゃへ? あ、えっと……でも」  ふわふわな前髪の隙間から、大きな瞳がキョロキョロと周囲をうかがってる。 「慣れてないよ」 「……え?」 「デート」  たくさん、確かにデートはしてきたけど。 「桜介さんとデートするのに、まだ慣れてない」 「……ぁ」  周りなんて、別に見なくていいよ。 「それに、初、だよ」 「……え?」 「初デート」 「……」 「両想いでする、俺にとっては念願の初デート」 「!」  ねぇ、俺だけ、見ててよ。 「あ、あと、稲田さん、呼んでくれてありがとう」 「え?」 「色々聞けた」  あ、桜介さんの目がこっちだけを見つめた。今、ほら。 「え? あの、何、色々って」 「んー……色々?」 「えぇぇっ? な、何っ、稲田、なんかっ」 「あ、あと、それけっこう、羨ましい」 「?」 「稲田って、なんか、桜介さんがいつもよりも適当に話す感じになるの」  そこですごくびっくりした顔してる。  それからちょっと困って、でも、俺のことだけをじっと見つめてる。平気、足元とか、周りとか見なくたって転ばないよ。迷子にもならないから。俺が手を引いてるし。 「俺も、桜介さんにそんな適当に話してもらいたい」 「え、えぇ、それは無理、だよっ」  なんか打ち解けてる感じがして羨ましいんだ。 「今でもまだ夢みたいっていうか」 「……」 「ほ、本当に? って思ってる」 「本当です」 「!」  この人の一番になりたい。なんでも教えてくれて、なんでも話してくれて、頼って欲しい。  抱き締めたくて仕方ない。  この人のこと、もっと――。  そんなこと思ったことないよ。今まで付き合った彼女には。 「ね、今度さ」 「?」 「バイト、休み取るから」 「!」 「そしたら夜一緒に過ごそうよ」 「! あ、あ、あ、あ、あ」  真っ赤だ。 「今週末が月末なんだ。そんで来月のシフト希望出すからさ。三月、最初の週、休み取る」 「!」  はぁ。困った。 「土日」 「!」 「ね」  こんなの初めてだ。 「あ、仕事って土曜はいつも休みなんだっけ? けどさ、この前、稲田さん週末なのにスーツ着てなかった? 会社、けっこう大変って、さっきも」 「う、うちの会社は完全週休二日制です! 祭日がある週は土曜日出勤になりますがっ、有休消化に当てられることがあるのでっ、大体の人がおやすみしています!」  好きな子のこと独り占めしたいとか、そういうの。 「……っぷ、あはは。そうなんだ」  早く、好きな子としたい、とか思うの。 「求人情報っぽい」 「ああああ、ごめっ、色っぽくない伝え方で」 「全然。可愛かった」 「かわっ」  戸惑うよ。こんなに好きでさ。 「可愛かったです」 「かわっ」 「っぷ、あはは」  ―― 頼むよ。翠伊ピ。  むしろ、こっちこそ、お願いします、なんだ。 「あ、そろそろ映画の時間じゃん」 「!」 「今度はアクションだから泣かないで大丈夫だね」 「あ、あの時は色々とっ」 「泣き顔、可愛かったよ、俺、すっごいドキドキしたし。あぁ、いいなぁ、こんな可愛い林田さんにデートしたいって思われてる同僚が羨ましいって思ったし」 「かわっ!」 「可愛いって」 「かかか、かわっ」 「あははは」  こっちこそ、この人のこと独り占めしたくてたまらないくらい、好きなんだ。 「なんで、かわ、いい、まで言わないの」 「だって、あまりに僕には縁遠い単語なので」 「可愛いのに」 「!」  ほら今だって、繁華街のど真ん中でぎゅって抱き締めたくて仕方がないくらい、なんだ。

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