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第33話 もったいなくない

 けっこう、淡白な方だと思ってた……んだけど。 「……はぁ」   そうでもなかった、っぽい。  ――楽しかった、です。  映画デートの帰り、そう言ってニコッと優しく笑った桜介さんのこと。  ――ご、ごめっ。  階段を踏み外したあの人を抱き留めたら、めちゃくちゃ細くてさ、ドキッとした。   「……はぁ」   ぎゅってして、そのまま自分の部屋に連れて行って、押し倒したいなぁと思うくらいには、心臓跳ねた。  すっごい我慢したんだ。この人は翌日も普通に仕事なんだからって、頭の中で何度も何度も自分に言い聞かせて。  全然、淡白じゃない奴、だったらしい。  そういうキャラじゃなかったはず、なんだけどな。俺。 「おい! 翠伊!」  最近では珍しく、大沢が俺を、「ピ」なしで呼んだと思って顔を上げると。 「お前っ、何?」  そう、唐突に言い出した。 「…………は?」  こっちこそ、何? って言いたくなるんだけど。それでなくても、今の自分のキャラに戸惑ってるのに。そのせいか返事の声が、とっても不機嫌そうになったじゃん。 「いや、だって、お前、世莉ちゃん! 知り合いなん?」 「世莉? あぁ…………いや、全然」 「えっ何その、知らないけど、知ってるみたいなっ」  どっちなの! って、なぜか大沢が慌ててる。知らない人ではあるよ。突然話しかけられただけで、なんも知らないし。 「バレンタインにチョコくれたけど」 「きゃあああああ! すご! あの子って、」 「モデルやってるんでしょ。リナが言ってた」 「そんな子が、翠伊推しって!」  知らないって。 「お前、何そのクールキャラはぁ! もう、宝の持ち腐れだぞ!」 「……何それ。宝って」  持ってなし、腐ってない。それに何より。 「俺、付き合ってる人いるってば」 「……ぁ、そうだった。けどさぁ……もったいなくない?」  溜め息出る。 「もったいなくない」  確かに可愛いのかもしれないけど。  知らない。 「俺、浮気はしないって、大沢だって知ってるだろ」 「そーだけど、そーだけどおおお、もったいなく、」 「ないってば。もうこの話は終わり。はい。終了」  そこで話をぶった斬ると、まだ食い下がろうと大沢が騒いだ。 「なぁ、相手、激かわいいんだぞ」  知らないよ。マジで。可愛いのかもしれないけど。  ――僕、ドジで。  あの人がいいんだから。  ――翠伊、くん。 「知らないし、もったいなくないよ」  可愛いって思うのはあの人だし。会いたいのもあの人なんだ。 「えぇぇ……」  俺の頭の中、あの人でいっぱいなんだから。  ローションは必須なんだって。まぁ、そっか。考えてみれば、そうでしょ。  もちろん、ゴムも必須。そのへんは女の子とする時だって変わらない。マナーなんで。  ただセックスの最中も準備がすごく必要で。その準備をしっかりやらないと、あの人の身体に相当な負担がかかるから。色んなサイトで確かめたんだ。セックスの仕方。なんかセクシーなムードゼロで、めちゃくちゃ勉強した。  ローションにも種類があって、成分が色々で、持続性とか、洗って流せるかどうかとか。 「お支払いは」 「あ、QRコードで」  スマホをかざした。 「ありがとうございましたぁ」  だって、あの人のこと傷つけるなんて、絶対にしたくないから。  まさか自分の頭の中がこんなにセックスのことでいっぱいになる日が来るなんて思わなかった。  しかもさ、不思議だよね。検索して出てくるサイトのうち半分くらいがさ、筋肉もりもりの男の人でさ。それをお勉強してる時は全然、マジでただの勉強だから、ドキドキなんてこれっぽっちもしないのに、脳内で、それを桜介さんに変換した瞬間、ドキドキしてくる。まるで中学生。  ほら、今だって、ドキッとした。昨日の、抱き留めた時の真っ赤な顔を思い出して、思わず、ぎゅっと、レジ袋を握る手に力が入って、中のローションが揺れて、ガサゴソと音を立てた。 「……はぁ」  大学の帰り、最寄り駅には薬局がないから、一つ手前の駅で降りた。つい、昨日、あの人とデートの帰りにも通った道。  映画の感想を言い合いながら、あのシーンはドキドキしたとか、あのシーンは見てるだけで慌てたとか、多愛のない話をしてるだけなのに、桜介さんがすごく嬉しそうにしてくれてた。  なんだろうね。  あの人って、全然、別に女の子みたいなとこ、全然ないのに。  睫毛が長くて、黒い髪はふわふわで、大きな瞳をしているけど、別にだからって女の子みたいなわけじゃない。  昨日、階段のところで咄嗟に抱き留めた身体も女の子みたいに柔らかいわけじゃない。  けど、可愛いんだ。  抱き締めたいって思うんだ。  ちゃんと男の人ってわかってるのに。 「……」  早く、バイト休みたいな。  土曜日だけでいいから。  今週末に来月のシフト提出するじゃん? だから三月の初めの週の土曜日。  あっという間かもしれないけど。  なっが。 「……はぁ」  三月、だってさ。  この前まで冷たい北風が吹いてて、夜、このくらいの時間に帰るとぐんと気温が下がっててさ。すごい寒くて、勝手に背中が縮こまって歩いてたけど。  昨日は距離も時間も、それから寒さもあんまり気にならなかったけど。  今日は寒くない。  むしろ、けっこう、あったかい。冬のダウンじゃ、少し暑いなって思うくらいに、夜でも寒さが和らいでた。  でも、なんとなく寒いような気がするし、こんなに遠かったっけって、そんなことを思いながら、あの人と昨日、歩いた道を、なぞるように帰って行った。

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