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第35話 今まで、と、今
あれは、反則でしょ。
あの人のことで頭ん中がいっぱいになってる男のところに、日付も変わるギリギリの深夜にのこのこ現れちゃダメでしょ。シャンプーの香りなんかさせながら。そんなのしたら、ご馳走がフォークとスプーンを両手に持って自分からテーブルに乗っちゃうのと同じだから。
鴨じゃなくて、トイプードルだけど。
―― 朝ごはんに、食べてください。コンビニの、だけど、パン。
ネギじゃなくて、朝食用のパンだけど。
パンごと食べられちゃうってば。
飢えた……っていうと怖いけど、オオカミの餌食になっちゃうってば。
っていうか、送りオオカミ? にもなったことのない俺だったけど、かなり心臓バクついたんだ。
あ、やば、クるって思った。
「…………どうしたん? 翠伊、そのおでこ」
「………………ぶつけた」
「えぇ? なんでぇ? お前……何、情緒不安定なん? なんか、悩みでも抱えてんの?」
大沢に言われて咄嗟に自分の額を手のひらで覆って隠した。
一応、前髪おろし気味にして隠してたんだけど、見つかった。
「昨日バイトだったよな? 酔っ払いと乱闘?」
「違うってば」
額に幅二センチほどのちょっと痣っぽい色をした打撲の後。
どんだけ強く打ちつけたのって、俺も、お風呂に入る時に驚いたんだ。桜介さんがバイト帰りの俺に声をかけてくれて、シャンプーの香りがして、なんかあどけなく笑ってるだけなのに、その破壊力の半端なさに理性ぶっ飛びそうになって。
『ゴン!』
って、打ち付けたら、こうなった。
情緒は不安定かもね。あの人のことで、あの人としたいってことで、頭の中いっぱいだし。悩みは、あの人と早くしたいって考えすぎってことくらい。
けど、でも、だって。
あれは反則でしょ?
すっごい笑顔で、お風呂上がったばっかなんだろうほっぺた赤くしながら、とか。ふわふわの癖っ毛も、触りたくなるような洗ったまんまの柔らかさで、とか。
「はぁ、まぁ、喧嘩とかじゃないならいいけどさ。お前にしては珍しいなぁって思うけど」
ほんと、珍しいよ。付き合ってる相手のことでこんなに頭ん中がいっぱいになるなんてこと、今までなかったのに。
「ところで、今週の金曜日! 飲み会、来るっしょ?」
「え、行かないけど」
「えぇっ、なんでっ、バイト土日じゃん。それと、水曜日がダメなんじゃないのっ」
今までなら、ね。
土日のバイトはほぼ毎回入ってた。だから飲み会に誘われても行かないし、行けない。その予定を把握してる大沢は俺を飲み会に誘う時は大概金曜日で。
今は加えて水曜日がダメって言ってるから、水曜日も特に何も誘われたりしなかったけど。
「バイトのシフトが変わったんだ。土曜日休みにしてもらう代わりに金曜日に入ったから」
「ええええっ、聞いてないよ」
「今言った」
「ええええっ、いつから?」
「今週から」
「どうすんのっ?」
何がって首を傾げると、困ったって顔してる。でも、まぁ、理由は大体予想がつくけど。きっと、金曜日は空いてるからって、人数に入れて予約取っちゃったんだろ。そんで、今からキャンセルじゃキャンセル料が発生して、とか。
「翠伊推ししてるって、世莉ちゃん誘っちゃったじゃん。友だちと一緒に」
「は?」
「だって金曜日は飲み会来れるじゃん。翠伊」
そうだった、けど。
リナと付き合ってる時も、飲み会には行ってた。一応、面子だけ伝えて。大体は「いってらっしゃい」だったり、たまにリナも参加してた。
そこで、女の子を送ったとリナが怒って、別れたんだ。けど。
「金曜日は無理になったよ」
「えぇぇっ、世莉ちゃん」
「それは知らない」
「えぇぇっ」
今までと同じなら、それもアリだったけど。付き合ってる子がいても、別に浮気は絶対にしないから飲み会くらいなら、お互いにオーケーだった、けど。
「とりあえず、もう金曜日はバイト入ってるから」
今まで、と違うんだ。
「あと」
あの人とは。
「女の子のいる飲み会は、もう行かないから」
今までとは、全然、違うんだ。
今までは女の子がいる飲み会も普通に参加してた。付き合ってる子がいるのは普通にオープンにしてたし、他の女の子も友だちとして、全然一緒に飲んだりしてた。
好かれてる、って感じる相手だとしても、俺はそんなつもりなかったから。全然。
「いらっしゃ、……」
気にしてなかった。普通に話して、普通に飲んだりもして、普通に、親切に、してた。
「こんばんはぁ」
でも、今は違うんだ。
「今日、大沢たちと飲み会じゃなかったっけ?」
「んー、翠伊くん来るって言うから行ったのにいなかったんだもん」
「……」
「なんで翠伊くんいないのか訊いたら、今日はバイトって言ってたから」
「……」
「バイト先、教えてもらって来ちゃった」
世莉と、その友だちが二人で、まるでカメラでも目の前にあるみたいに、ぎゅっとくっついて、絵に描いたような笑顔をこっちに向けた。
今までならこんな時、バイト終わってからなら、大沢たちに合流してたかもしれない。お店は十二時には全然余裕で上がれるし。大学のレポートが残ってて、って感じに相談したら、もう少し早く、お客さんが大体はけちゃったら、上がってもいいって言って貰えたりもするし。
たぶん、そうしてた。
「こっち、来てもらってもかまわないけど、俺、バイト中だから話とかできないよ」
「うん。全然っ」
「席、奥空いてるのでどうぞ。案内します」
「はーい」
「それじゃ、メニュー決まったら、呼んでください」
「はぁーい」
自分でも少し、驚くけど。
今の俺は。
「……はぁ」
関係ない子に好意を向けられても、溜め息が出て、ただ、とにかく。
―― お、おやすみ、なさいっ。
あの人に会いたいっていうのが増すだけだった。
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