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第56話 世界一美味しいです。
前に会社の飲み会で使ってくれた時は、ご飯の味、わからなかったんだって。
――もう舞い上がってて。まさかここで翠伊くんに遭遇できるなんてって。だから、食べ物が喉を通っていかないっていう感じで。
だから、今日、ここに改めて来ることができたって嬉しそうだった。
「おすすめは地場野菜のスティックとそれから味噌豆腐だよ」
「じゃ、じゃあ、それを」
「あとはねぇ……」
やっぱりカウンターのところは空いてた。けど、テーブルも個室も満席。
「あ、店長、野菜スティックと味噌豆腐」
「おー」
カウンター越しにお願いするといつもの調子で店長が返事をしてくれた。
「い、忙しそう」
「うん。混んでるよね。野菜スティックは素揚げにしたり蒸したり。その野菜ごとに調理が違ってて、今だと春野菜だから、筍と菜の花と新じゃがいもに、新牛蒡に」
「アスパラな」
店長が突然加わって、桜介さんが飛び跳ねるように顔を上げた。店長がニコッと笑って、お通しのふきのとうのおひたしを持ってきてくれて、カウンター越しに届けられた小鉢を宝物でも受け取るみたいに丁寧に両手で受け取った。
「きょ、今日はすみませんっ」
「いえいえ、とんでもない。ゆっくりしていってください。翠伊、社割にしてやるから、ちゃんとここは奢るんだぞ」
「はーい」
「え、あのっ」
「ビシッとカッコよくな」
「えと、あのっ、あのっ、僕、社会人なのでっ、全然お勘定は僕が」
「あはは、そうじゃなくて、桜介さん」
きょとん、ってしてる。
多分、ビシッとカッコよくって言ってくれてる意味がわかってない気がする。
「店長には俺が恋人ができたって言ったんだ。んで、今日、俺が連れてきたから、桜介さんが恋人ってわかって」
「えぇっ」
それで、彼氏として奢れよって言ってるんだよと、説明したかったけど、もうその手前で、笑っちゃうくらいに驚いてくれた。
「ほら、野菜スティックと味噌豆腐」
「あのっ」
でも、ここまで普通なんだなぁって、俺も少しだけ驚いたよ。
店長は桜介さんを見てもちっとも驚いてなくて、もちろん性別のことは話してあったけど、それでも、その男同士ってことに全然嫌悪もしてない。むしろすごく笑顔で接してくれた。
「けど、翠伊と同じ歳くらいには見えますよ。もしかしたら、運転免許証見せてもらってたかも」
「ひぇえええっ」
「あはは」
笑ったのは俺と店長、両方だった。
「はい。野菜スティックは自家製の味噌マヨつけてください」
「は、はいっ」
「どうぞ、ゆっくり召し上がってください」
「はいっ」
そして、店長はまた厨房の方へと戻っていった。
この味噌豆腐もめちゃくちゃ人気でチーズみたいなコクがあるけど、ヘルシーってことで女性のお客さんがよく頼むんだ。
本当に、マジでチーズみたいって驚かれるくらい。
「あ、あのっ、翠伊くん。その、言ったって」
「うん。この間、あの女の子が来て、ほら、あのモデルの。んで、店長が彼女って勘違いしたから」
付き合ってる人はいるけど、彼女じゃないですよ、彼氏ですって、言ったんだ。
「……そんな」
「別に隠すことじゃないし、勘違いされたままなのやだし」
「でも……」
「悪いことしてないし」
「……」
キラキラ、って感じ。桜介さんの瞳が輝いて、うっすらと開いた唇をキュッと結んでから、俺をじっと見つめてる。
多分だけど、また、夢みたい、とか思ってそう。なんとなくだけど。俺が大学の知り合いに、桜介さんと付き合ってること、普通に話してるよって言ったら、すっごいびっくりするんだろうな。ずっと胸の内にだけ抱えてた片想いが両想いになっただけじゃない。周りにもそのことを知ってもらえてるなんて、秘めてた時には想像もしてなかったんだ。
今ここにいて、あの時、会社の飲み会の時とは全然違ってる自分の状況がちょっと信じられないって、なってそう。だから――。
「!」
桜介さんのほっぺたを突いてみた。
「感触あったでしょ?」
つねるのは、痛いから、したくない
ニコッと笑ってカウンターテーブルに頬杖をつくと、またじっと俺を見つめてる。
「食べよっか」
「うん」
そして、丁寧にお箸でダイスカットされたお豆腐をパクッと食べて、元から大きな黒い瞳をもっと大きくさせた。
「! こ、これがお豆腐?」
「あはは、そうなんだって」
「驚くでしょー? うちの名物なんですよ」
「っていうか店長、厨房」
「悪い悪い、つい。お相手さんのリアクションがめちゃくちゃいいから。デートの邪魔して悪いな。あと、これ」
「……」
「ちょうどパスタが注文あったからついで。サービスな」
「!」
これ、ねぇ、店長。裏メニューにしてもいいと思うよ。
「デートには不向きかもしれないけどな」
「ぜ、全然ですっ」
納豆バスタ。本当に簡単でめちゃくちゃ美味しかったから。これも野菜スティックと味噌豆腐と並んで看板メニューに追加したらいいと思う。
「んんんんん!」
「お、気に入ってもらえましたか?」
「んん、んんん」
「はい。すごく、だって」
「よかった。この前、教えてって言われて教えたんですよ」
「あ、はい! あの、いただきました! すごく美味しかったです」
「おー、そうだったんですね」
また店長は次のオーダーを作りに厨房へ戻っていった。その様子を、見守る桜介さんの柔らかな表情をほどよく明かりを落とした照明のオレンジ色が照らしてる。
「めっちゃ美味いよね。絶対に桜介さんに作ろうと思ってさ」
「うん、日本一美味しいパスタだと思う」
「あはは、すご」
「でも」
「?」
「翠伊くんが作ってくれたの、世界一美味しかったよ」
そう言って、にこやかに笑ってくれる。
「マジで? やった」
その笑顔が可愛くて、優しくて、そんなふうに笑ってくれんなら、何回でも、毎日でも、いくらでも、作りたいって思った。なんなら、一生。
「また作るよ」
桜介さんに作ってあげるって、思った。
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