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第63話 春へ
片道二時間。乗り換えは一回。
面接っていうか、じゃあ、話を聞きにおいでって感じで、フランクな人っぽくて。スーツなんて堅苦しいもの着てこなくていいからって言ってくれた。普通の、普段着のままでおいでって。
持って来て欲しいって言われたのは、履歴書とやってきた課題データファイルをいくつか。レポートとか。言われたものをリュックに詰めて、朝、いつもよりも早い時間に電車に乗ると、周りは仕事って感じの人ばっかりだった。誰も少し俯きがちにスマホを眺めてて、電車の中も混雑してた。けど、それだけたくさんの人が乗ってても、
誰一人として話さないから、息を呑むくらいに静かだった。そこからまた歩いて、辿り着いたアトリエは、なんかセンス良くて。
「すげ……」
かっこいい……。
思わず、声、出た。
ベージュカラーのコンクリート、正方形の建物はまるでダイスみたいに無機質で。けど、幅五十センチくらいの白い小石を敷き詰められたところに植えられた樹木のせいか冷たい印象はちっともなかった。
大きな窓がその正方形の建物に帯びみたいに真っ直ぐに取り付けられている。同じく大きな扉が木材を使用してるからか、柔らかい、とさえ思える雰囲気。それに、その扉にも大きなガラスがあるから。
開放感すごい。それに、大きな帯状の窓ガラスはちょうど、中の人がよく見えるようになってる。いるのは一人だけだけれど、人の動線がわかるようになってるっぽい。
例えば、人が入ってきて、コートか荷物をフックにかける。コーヒーを作って飲めるテーブルはカウンターになってて。奥にあるのが作業台かな。そのすぐ隣に打ち合わせとかできるんだと思う。ソファが真ん中にあった。
窓枠がフレームになって、一瞬一瞬、日々、この中で仕事をしている人の動きを横向きでスクロールしていく四コマ漫画みたいっていうか。そんなのが、パッと頭の中にイメージできた。
センス、すご……。
「!」
そう思って、じっと、怪しい人って感じに中の様子を見つめてた。作業してるその人が気がついて、バチっと音がしそうなくらいに目が合った。そして、すぐに立ち上がって、はいはい、君ね、って感じに扉の方へと歩いていく。
渋い、感じ。
顎ひげは白とグレーが混ざってる。
髪も、白にグレーが混ざってて。
太いフレームのメガネが、なんか、芸術家っぽい。
この人が意匠設計の建築家。
「!」
その人が。
「やぁ、君、電話してくれた」
「あ! 酒井です。お電話させていただいた!」
「伊倉(いくら)です」
一級建築士で、意匠設計やってる、人なんだ。
「まぁ、仕事はアシスタント業務。いつもは一人でやっていてね。いや、佐々木さんに頼まれたこともあるし、若い建築士を育てる一旦を担えたらって感じでね。だから、春休みの間だけ、アシスタントをお願いしようかと」
「はい」
佐々木、は、あのアナログ教授のことだ。多分、本来なら不要なアシスタントなんだろうけど、今回若手を育てる活動としてアルバイトを雇うことに、ってことなんだろうな。
「まぁ、職業体験だと思って」
「……はい」
「うちは……結構遠いね。通うの大変でしょ」
「……えぇ、まぁ、あ、いえっ」
「一応、事務所は九時から十八時までなんだけど、どうする? 二時間くらいかな? 片道。十時とかにする? 大体、打ち合わせ入るのも十時だし」
「あ、いえ、九時から十八時までで」
「そう?」
「遅れる時は連絡して。打ち合わせ風景は勉強になると思うから、できるだけ参加した方がいいよ。あ、メモ取る係で」
「は、はい、あの」
「?」
ソファに座って、真正面で向かい合わせになってる。面接だと思ってたんだけど、なんか、これ。
もう、明日からのバイト内容の説明になってるっぽい。
「あの、俺、採用ですか?」
「? そうだよ?」
「え、けど、一級建築士の、しかもアトリエでアシスタントなんて」
みんなやりたがるじゃん。
「あはは、そんなことないよ。時給最低賃金額だし、交通費も出すけど、やっぱり遠いでしょ? 酒井くんが通ってる大学付近からしてみたら」
「……そう、ですけど」
倍率めちゃくちゃ高いと思った。ダメもとだったけど。
「あ、あの、すみません。来ておいてあれなんですけど、金曜と日曜はバイト入ってて」
「あ、そうなんだ。何時から?」
「えと、十七時からなんですけど」
「いいよいいよ。生活もあると思うし。じゃあ、その曜日は休みにしようか」
「すみません」
「とんでもない」
テキパキとしてる。まるでコンクリートで作った四角い建物みたいに、きっちりとした人だけど。
「僕もここぞとばかりにこき使うからよろしく」
「ぜひ」
ナチュラルで無機質感がなくなるあの窓枠みたいに、柔らかい人だ。
こういう人が建築士の花形でもある意匠設計をしてるんだ。
「よろしくお願いします」
――採用になったよ。明日から、バイト。
そうメッセージを送った。本当は電話したかったけど、仕事中だろうから。
多分、返事はお昼の休憩の時、かな。俺は逆にまた二時間かけて帰ってる最中だから、電車の中で、電話には出られないだろうけど。
「……すご、桜かな」
一枚、写真を撮った。伊倉さんのアトリエから駅までの通り道に公園があって、そこから溢れるみたいに歩道まで枝を伸ばした桜が蕾を膨らませてた。
――そろそろ咲くっぽい。咲いたら、お花見デートしようよ。
通知、うるさいかな。仕事の邪魔にしてたらごめん。
写真と、もう一つ、デートに行こうってメッセージを送った。
きっと、桜介さんとじゃなかったら、春休み、居酒屋のバイトだけ、だったかも。短期やるとしても、大沢と一緒に大学生向けの短期バイトとかして、飲み会して、遊んでた。もちろん、この見事な桜も見かけなかった。
清々しい青空に、期待感すごい桜。
それから。
「よし」
この案外軽やかに、ワクワクする、この第一歩は踏み出さなかった。
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