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第64話 理想の大人
「お、はようございます」
「おはよう」
伊倉さんは一番奥の製図とかをするデスクにいた。でかい液晶が三つ、伊倉さんを囲むように並べられている。木材が緩やかなカーブを描いた。伊倉さんが仕事をしやすいように、適度な角度と高さのデスク。専用なんだと思う。
すげ。
アトリエってさ、そういうことなんだ。
この人が設計をするためのところ。
かっけぇ、ってまるで子どもみたいに、そんな言葉が自然と浮かんでくる。
「今日は打ち合わせがあるんだ。今度、小規模だけど美術館の設計を頼まれてて、その外装の打ち合わせ」
「ぁ、はい」
二級は戸建ての建築設計ができる。
実務経験もないと試験もできない、設計のスペシャリストの一級建築士となったら、大規模な商業施設の建築設計も担うことができる。
「一日の流れは大体、メールとか情報整理から始まって、打ち合わせ、なければ、もう設計の続きをしたり」
「は、はい」
急いでメモを取って行くと、伊倉さんがテキパキ話してた口調を急にゆっくりに変えてくれた。俺の、メモを取り終えるようにって、合わせてくれる。
――翠伊くん! おめでとう! 僕からアドバイスです! これ。
買ってきてくれた。しっかりとしたメモ帳。革のカバーのついたやつ。明るいオレンジ色で、手にしっとり馴染む感じでわかる。わざわざ、仕事後にどっか行って買ってきてくれたんでしょ? 昨日、帰り遅かったのは、きっとそうでしょ? ただの小さいノートで十分なのに。
――応援してます! 朝、すごく早いんでしょ? 寝坊したらだめだし、眠くなったら大変だから。今日は僕、ここでお暇するね。
めちゃくちゃ嬉しかった。
頑張るよ、とか、思わず返事しちゃって、照れ臭かった。けど、こんなふうに――。
「そのメモ帳、素敵だね」
「ぁ……はい」
こんなふうに頑張ってみようって思ったのは、貴方の、桜介さんのおかげなんだ。
「すごい人のところで勉強させてもらえるのなんて、貴重だし、頑張れって言ってもらって、これ、くれたんです」
ぎゅっと握ると、ほら、指に吸い付くみたいで気持ちいい。
「……それは光栄だなぁ」
伊倉さんがにこりと笑った。
へぇ。
そっか。
この横に長い窓。日差しの入り方が多分だけど、時間で違うんだ。日時計、みたいになってるのかもしれない。
季節や、時間で太陽の角度は全部違う。多分、それを部屋に差し込む日差しの角度でわかるようになってるのかもしれない。
今は、ちょうどよく、伊倉さんのデスクを照らしてる。
あったかそう。
これがこの人の作り出す空間なんだろうな。
温かくて、柔らかくて、けど、しっかりとした芯のある感じ。無駄はないけど、スペースギチギチに何かを敷き詰めるんじゃなくて、そこかしこに余裕がある。無駄はないけど、空白を持ってる、みたいな。
なんか、すごい。
「あ、そうだ。酒井くん」
「はいっ」
「模型、作るの得意?」
「ぁ……はい、いえ、あんま……かも」
「あはは、正直だねぇ。模型作るのお願いできる? 再来週の打ち合わせの時に使いたいんだ。これ、図ね」
「は、はいっ」
これが一級建築士なんだって、指先がピリピリとした。
「お疲れ様」
「え? あっ! もうこんな時間」
言われて、驚いて顔を上げると、確かにもう十八時になってた。
全然、マジで気が付かなかった。
「あはは、模型、頑張ってたね」
「あんま好きな講義じゃなくて……もっとしっかりやっとけばよかったです」
「建築士には大事な技術だよ」
「はい」
「続きはまた明日頼むね」
「あ、伊倉さんは?」
「まだ、今日、クライアントからもらった資料を元に案をいくつか準備したいから」
そっか。個人でやってるから定時とかもないのか。
長居すればするだけ、この人に時給払ってもらうことになるし。それに、ここから片道二時間。まっすぐ帰ったとしても、多分、なんだかんだで夜の八時くらいになる、よな。
「あー、それか、僕はまたここに戻るけど、晩飯、どこか連れてこうか?」
「あ、いえ、大丈夫です」
「そう?」
「ありがとうございます」
八時なら、まだ、あの人の邪魔にはならないから。
「じゃあ、気をつけて」
「はい。お疲れ様です」
そう言って、伊倉さんは太い黒縁のメガネを指でクイっと持ち上げた。
俺は行きに来てきた、ダウンを掴んで、そのまま扉のところで腰からしっかり曲げて挨拶をした。
「また明日」
「こちらこそ、また明日、よろしくお願いします
――挨拶も大事! です。って、翠伊くんは挨拶ちゃんとするから心配無用だけど。
八時なら、まだあの人は寝てないから。
――初出勤、頑張ってね。応援してる。
話したい。
一級建築士ってめちゃくちゃかっこいいってこと。
アトリエ事務所がすごいセンス良いってこと。
まだ、全然、こんなふうになれそうもないっていうか、なるには相当な努力が必要だけど。でも。
「あったか……」
あんなふうになりたいって思ったことを。
桜介さんに話したい。
「あ、メッセージ来てた」
――お疲れ様です。今、頑張ってる頃でしょうか。
はい。頑張ってたよ。めちゃくちゃ集中してた。
――頑張れーって、念送ってました。
受け取ってます。めちゃくちゃ頑張ってた。
――晩御飯、作って待ってます。
「マジで?」
――帰ったら、ピンポンしてください。
「やった」
たくさん、話したいことがあるからさ。早く帰ろう。そして、リュックの中で筆箱が踊るようにジャンプしているのを背中で感じながら、駅までの道を歩く足は、駆け足に変わった
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