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第66話 ステップアップ

 朝のラッシュは慣れたかな。二時間っていう移動時間も、乗り換えの回数が少ないからか、特に苦になってない。その時間寝てればいいし、起きてる場合は建築の本とか読んでればいいし。 「器用だね、酒井くん」 「え? そうですか?」  顔を上げると、伊倉さんが俺の作りかけの模型を指さした。 「模型」  そう言って。  模型とか作業系は苦手だったけど、今、ほら、テンション高めで気合い入ってるから。なんでも頑張れるっていうか。 「最初、あ、本当に苦手なんだなと思ったけど」 「す、すいません」  ぺこりと頭を下げると伊倉さんがまた笑ってる。 「もう慣れた?」 「あ、はい」  一級建築士、しかも意匠設計。自身のアトリエ持ち。すっごい憧れるけど、相当大変なのがよくわかった。  伊倉さん、めちゃくちゃ頭良くて、勘も良くて、スマートなのに。  それでも多分、毎日、遅くまで仕事してるんだ。  俺も打ち合わせの資料とか用意するために、メールを共有してもらってるんだけど、昨日、メールの返信してたの夜の十時をすぎてた。この人でさえ、そのくらい遅くまで仕事をしてるってことはそのくらい、一級建築士の仕事は難しいってことだから。 「今日はやっとゆっくり作図作業に入れるかな。酒井くんが色々調べてくれたおかげで」 「俺は、全然」 「あぁ、そうだ、この前、外装の材質調べて来てたでしょ?」 「あ、はい」 「えらいね」  大人だなぁって思う。 「いや、むしろ、大学でやってないのか? って、伊倉さんにしてみたら呆れることだと」 「どんなことでも勤勉に取り組むことが評価されると思うよ」  落ち着いた声に、突然、何かを尋ねられても動じることのない感じ。いろんなことを勉強して、経験して、今、ここにいるんだろうなぁってわかる。  こんな人でも大学生の時とか、サボったり、ダルいって思ったりしたことあんのかな。  戸惑ったりとか、したことあんのかな。  なさそう。 「そこの本棚に色々資料というか、参考になる本、あると思うよ? 持ってく?」 「え、いいんですか?」 「もちろん。学びに意欲的な学生に手助けするのは先輩の義務だから」  余裕あっていいなぁ。  こういう大人になりたい。歳でいったら俺も大人枠だけど、そういうんじゃなくてさ。ちゃんと、しっかりとした大人。  アトリエの奥、日差しが届かない壁の上から下まで、備え付けの本棚になってた。まだ全部が本で埋め尽くされてるわけじゃなくて、空いてる棚のところは蔓系の観葉植物とか置物が並んでいる。外国語の建築本もある。もちろん、それを読めるほどの語学力は俺にはないけど。  でも、じゃあ、アトリエ持っちゃうくらいの建築家になるには多言語もマスターする必要あんのかな。一般科目で英語はあるけど、成績、中の上くらいなんだよね。 「君は……どうして建築家に?」  本棚の前で並べられてる本を眺めてた。  尋ねられて振り返ると、今、お昼になる少し前、ちょうど打ち合わせなんかを行うソファの当たりに日差しが届いてる。  もう伊倉さんのデスクには日差しが届く時間じゃないから、眩しくない、落ち着いた照度の中で製図作業を行なってた。 「あー、なんていうか、俺がいなくなっても、俺の建てたものは残ってるって、すごいなって」 「……へぇ」 「あ、いや、まだ全然なんで、大型のものを作る建築家になれたら、すごいなって思う……くらいで」 「素晴らしいじゃないか」 「!」 「センス、あると思うよ。あとは努力のみだ。あとね……」  伊倉さんが手を止めて、小さく笑ってから、少し眩しそうに、ゆっくり、アトリエの中を満遍なく照らし続ける日差しを見つめた。 「あとは想像力を持つことだ」 「……想像」 「僕らは何もないところから作り出すから」 「……」 「そのためにも、今のうちに色々経験して、見て、触って、感じた方がいいよ」 「……はい」 「頑張って」 「はい」  こんな余裕のある建築家に。 「あの、じゃあ、お言葉に甘えて、本、お借りします」 「どうぞどうぞ」  なれたらいいなって、想像して、いくつかの本を手に取った。  重くて、デカくて、帰り、カバンの中に入れると、肩にベルトがグッと食い込んだ。  バイト終えて、帰りの電車の中は爆睡してた。その前の日は打ち合わせが二つ入ってたから。もちろん伊倉さんに、だけど。なんか、また学べそうなことがたくさんあって、調べたりしてたら寝たの遅かったんだ。桜介さんも月末で残業だった。 「……んー」 「ごめん。起こしちゃった」 「……ぁ、っていうか、ごめん」  今日は二人で晩飯を食べた。っていっても、俺は作ってなくて、ほぼ毎日帰りが九時近いから、先に帰ってきてる桜介さんがご飯を届けに来てくれる。お互いに、料理なんてほぼしないでいたけど。二人で料理をすることが増えてきてさ。けど、最近は任せちゃうことが多くて。だから、週末は俺が作ったりして。 「寝てたから起こさないようにそっと掛けようと思ったんだけど」 「んーん、つーか、桜介さんがいるのに寝てたらダメでしょ」 「僕は全然」  ふわりと笑ってる。 「寝顔もかっこいいから」  じっと見つめられると、胸のとこがあったかくなっていく。 「かっこいい寝顔独り占めー、なんて」  疲れて、居眠りして、毛布をかけてくれようとする優しい貴方が隣にいて。 「……ぁ、翠伊くん……ン」  なんか、いいよね。 「ン」  最高ー、なんて。 「翠伊くん」  思いながら、優しく緩んだ甘い唇にキスをした。

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