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第68話 お尻が痛い、とかじゃない
「はっ? え?」
伊倉さんのアトリエからの帰り道、電車を待ちながらスマホを見て、思わず、そんな声が出た。
――ごめんなさい。今日もご飯を僕が作ろうと思ってたのですが、今日は無理になってしまいました。まだ、病院なので、終わったらご連絡します。
ご連絡、とか言ってる場合じゃないから。具合悪い? 体調? ケガ? どっちなのか、どこの病院なのかも書いてないんだけど。会社でってこと? 昼間は普通に返信してた。元気そうだったし、夜に何を作って欲しい? って訊いてくれたくらい。だから、午後から体調崩したか、もしくは怪我をしたんだと思う。
それって、やっぱ――。
「っ」
俺が伊倉さんのところでバイトを始めてから、夕飯は一緒に食べることがほとんどで。そしたら、昨日の夜、やっぱ遅くまで起きてたから。
寝不足にさせたんでしょ?
身体だってもしかしたら無理させてた? 気をつけてたけど、でも、どんどん欲しくてしかたなくてさ。
会うたびに、なんて。
一応、もしかしたらって思って電話をかけてみたけど、やっぱり電源落としてる。連絡つかないじゃん。これじゃ、俺はなんもしてあげられないじゃん。
そう苛立ったまま、じっとしてられない焦りばっかが胸のとこで騒がしくて、珍しく空席が目立つ電車の中でも座ることなく、ずっと出入り口のところに立っていた。
ようやく電車が最寄り駅の一個手前で止まって、そこから、もういいやって走り出した。各駅の電車を待った方が結果早いのかもしれないけど、もうじっとしてるのがとにかくしんどくて。
「!」
駅を降りて飛び出すように走り始めて少し経ったくらいのところで、手にずっと持ったままだったスマホが振動した。
「もしもしっ」
『あ、翠伊君、あのね』
「今どこ? どこの病院? 俺、すぐっ」
『あ、の……鍵が見つからなくて……ですね』
「!」
平気なの? 声はなんか明るいけど、けど、そんな状況じゃなくない? とにかく、早く。
『おーい、俺まだデスクワーク残してるんだよー、早くこいつ持ち帰ってくれよー』
『ちょっ、稲田っ! 静かにっ!』
稲田さんの『は〜や〜く〜』って、呑気な声が電話の向こう側から聞こえて来た。
ダッシュ、きっつ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
横っ腹が激痛なんだけど。
それでも走って帰宅したら、マンションの前の道にコンパクトカーがウインカーを出しながら、停まってた。そして助手席が開いて。
「! 桜介さんっ!」
「えっと、あっ、はいっ」
「!」
頭にでかいガーゼを乗せて、それをあの、なんだろ、網の帽子みたいなので覆って、ひょこっと片足を引きずりながら、それでもニコッと手を振っている。その姿を見た瞬間、本当に、心臓がギュッと痛くなって目眩がした。
「あ、えと、お邪魔、します」
「…………手、掴まって」
「あ、うん。あの、ご迷惑を」
「いや、俺のせいじゃん」
「ひぇ?」
「本当にごめん、俺が桜介さんに」
「! あっ、違っ! あの、違いますっ! あのっ、これは」
「昨日だって、寝たの遅かったしっ」
「これは、会社で」
「だから、俺がっ」
会社で、前を女性が歩いていた。よく見るとその人はダンボールを抱えながら事務所に入ろうとしたところだった。だから扉を開けてあげようと手を伸ばそうとしたところで転んだんだって。何かにつまづいて。
その女性に迷惑をかけまいと横向きに倒れようとしたところで、どうしてか、自分がそのドアノブに引っかかった。制服のジャケットが引っかかったんだって。最初は誰かに背中のジャケットを引っ張られたのかと思って「はいっ!」って返事したんだって。で、ドアノブに引っかかって、慌てて、またつまづいて、転んで、その時、激突した棚の引き出しが勝手に飛び出て、起き上がったところで、その引き出しの底面に頭のてっぺんから激突した。
頭のガーゼはその時のたんこぶ。
捻挫した足は、よくわからないけれど、パニックになりながら転んだ時に、グギッ! って、やっちゃったんじゃないかな、って。
女性はただ普通に扉を開けて入ったところでものすごい大きな物音がして飛び上がり。振り返ったところ、足元でなぜか一人、社員が勝手に大惨事になってるところに遭遇して、とても驚いてたらしい。
多分、俺でも驚くよ。後ろで、人が一人、ドアノブに釣り上げられてたら。
「だから、僕が一人でなんだか転んじゃっただけで。その、体調が悪いとか、あの、えっと」
桜介さんが、耳まで真っ赤にしてた。
「その、昨日した、えっちのせいで、お尻が痛いとかじゃないです」
「!」
はぁ、もう。
「あ、あとっ、鍵は多分、その時に、転んだ時に失くしたっていうか、落としたんじゃないかな。あの、僕、大騒ぎしちゃって、足がグギってなったから、歩けなくて、稲田に病院連れて行ってもらったまま直帰になったんだ。だから、わからないんだけど。明日、会社に行けば見つかると、思います」
なんだろ。この人。
「あの、なので、さっきはメッセージで、今日は会えないと言っておいてなんだけど、ひ、一晩だけでも、泊まらせてもらえたら……しゅっ、宿泊代はっ! もちろん! 払うのでっ昨日も泊まらせていただいたけど、今日は訳が違うのでっ」
やばい。
本当、溶けそう。
「全然、いくらでも泊まってきなよ。むしろ、鍵、見つからなくていいよ」
「え、えぇっそんなわけには」
「んで、うちにずっと泊まってけばいーじゃん。昨日みたいに。足捻挫してるんなら、付添いが色々必要そうじゃん」
「でもっ、あのっ」
「ちょっと帰り遅くなるけど、もしかしたら、伊倉さんに言ったら少し早く帰らせてもらえるかも」
「ええっ、それはダメだよ。せっかく」
「俺がしたいの」
俺が帰りが遅いからって、夕飯作ってくれた桜介さんにさ。
今度は、足が痛いからって、夕飯作ってあげたいんだ。
「あ、あとさ」
「?」
「お尻痛くないとか、言わないように」
「あっ、ごめっ」
「可愛くて、どうしようかと思うんで」
「ひゃへっ」
貴方と今日一日、夜ずっと一緒にいられて、こんな人を一緒に過ごせて、痛いだろうに、たんこぶとか、マジで心配なのに、ほら。
「とりあえず、お腹、空いてない? なににしよっか」
「! 納豆パスタっ!」
「ふはっ、めっちゃ声でか」
「ごめっ」
貴方と一緒にいられるって、顔がふやけてふにゃふにゃに笑っちゃってる。
嬉しい、ラッキー、の方がデカくなっちゃってる。
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