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第72話 通勤列車で一人
朝も、楽しかったな。
ちょっと寝坊したけどさ。
起きた時にあの人が隣でめちゃくちゃ穏やかに寝てるのを眺めるっていうのがなんか、良くて。こういうのが「幸せな瞬間」なんだ、とか思ったりして。
今まで付き合った子とお泊まりデートならしたことあるけど、なんか、違うっていうか。
何が違うんだろう。
そんなことを考えながら電車に揺られてた。みんな少し退屈そうに、みんな少しだるそうに、けど、息をするのも気を使うくらいに無言の電車の中で。
ふと、改めて見てみると、不思議な光景だよね。
「……」
みーんな、電車の中でじっとスマホを眺めてるって。ほぼ全員そう。あとは寝てる人。けど大体の人はスマホを覗き込んでる。
そういえば、桜介さんって、あんまスマホいじらないんだよね。一人の時は何してるんだろう。
――ブブブ。
無言の電車の中を一人観察してたら、スマホが振動した。桜介さんからのメッセージだ。もう会社には着いた頃だよね。
今、ちょうど桜介さんのことを考えてる俺に、まるで「今、僕は仕事をしています」って答えるみたいなタイミング。
タブレットとかが入ってて、少し重いリュックを膝の上に置きながら、スマホを開くと。
“鍵、ありました“
そんなメッセージだった。
よかったね、と思うけど。
内心、半分以上、ほとんどの気持ちは「あーあ、あったのか」だった。ごめんね。桜介さんにしてみたら鍵がないのなんて一大事なのに。
一生入れないわけじゃないけど、鍵のことを大家さんに連絡して、鍵取り替えてもらったりしないといけないんだろうから、見つかったのは本当に良かったんだけど。
でも、そしたら、帰っちゃうじゃん。
“良かったね“
そう、送るべきメッセージを送信した。
スマホの右上に表示されてる時間は今、八時ちょっとすぎ。まだ仕事前なんだと思う。ほら、すぐに既読がついた。
“着替えとか貸してくれてありがとう“
“いいえ。どういたしまして“
そんな絵文字のない桜介さんらしいメッセージとのやりとり。
“仕事は大丈夫そう? 足、怪我してて“
“うん。とりあえずパソコンの入力作業の方を担当させてもらえると思う“
そっか。なら足が痛くてもどうにかなるか。
“頭は? たんこぶ、痛くない?“
“ありがとう。大丈夫です“
ガーゼがあると、ものすごい大怪我に見えて、大袈裟だからって、しないでいくことにした。赤くはなってたけど、キズじゃなかったし。もう頭はぶつけませんって、玄関先で決意表明してた。でも、今朝、大慌てで着替える時、首に服を通す野に、小さく「イタタタ」って呟いてたから、まだ触れると痛いんだと思う。
“今日は一時間だけ残業になります“
そっか。やっぱ社会人って大変だよね。足捻挫してても今日は水曜日じゃないからノー残業の日にならないんだ。
“俺は多分、いつもどおり。八時くらいに帰れるかな“
“いつも遠くまで通いお疲れ様です“
全然だよ。電車に揺られてるだけだし。仕事中はためになることばっかりだし。
大変なのは桜介さんの方でしょ。足痛くても、頭にびっくりするくらいのタンコブあっても仕事しないといけないんだから。
“僕がご飯作ってあげられたらいいんだけど“
“いいよ、気にしないで“
着替え、取りに帰った後、またうちに来ないかな。
鍵、見つからないでいいよ、なんて冗談風に言ったけど、けっこう、本当に鍵見つからなくていいって思ってたりして。そんなことを考えるのは、バチ、当たりそうだけどさ。
「……」
なんて言おうかな。
昨日は本当にものすごいたんこぶだったから髪洗うの、マジで手伝ってあげたほうが良さそうだったし、足、温めちゃダメだったし、一歩歩くだけでも大変そうだったからお風呂手伝ったけど。
――ありがとう。
今朝はだいぶ足、良さそうだった。いや、まだ全然、普通に歩けるわけじゃないけど、ひょこひょこしながら元気にしてた。着替える時はたんこぶ当たって痛そうだったけど、急ぎ足で階段を降りる時は、そこまで頭の方は痛くなさそうだった。昨日の夜は、少し頭を動かすだけでも、ちょっと眉間に皺寄せるくらいだったのに。
でも、うちに来て一緒にいれば手伝えることありそうじゃん?
んー、でも、俺も帰り遅いんだよね。もしかしたら、桜介さんの方が早く帰って来るかも。一時間の残業なら多分帰ってくるの七時すぎくらい。
じゃあ、俺のほうが迷惑かけそうじゃない?
ご飯とか待たせることになりそうだし。別に料理上手いわけじゃないから、帰ってきて、ぱぱっとさ、店長みたいに作れちゃうわけじゃない。一番早くうまく作れる納豆パスタは昨日作っちゃったし。
むしろ、足痛くて身動きするのに苦労するのに、狭いベッドじゃ不便だったりして。
夕飯も一人の方が早く簡単に済ませられたりして。
お風呂も、昨日、色々、あれで、長くなりすぎて、それで寝るのが遅くなって、朝、寝過ごしたし。
…………うーん。
うちに今日も泊まる? って気軽に……。いや、あの人のことだから断れないだろうし。けど、本当は断りたかったりして。
夕飯だけでも一緒に食べる? って、いやいや、俺のほうが帰り遅いでしょ。
お風呂…………は、俺と入るほうが余計に時間かかるでしょ。
じゃあ、なんて言って、あの人に――。
「!」
今日、うちにおいでよ、をどうスマートに言おうか考えてたら、ブブブって、手の中にあったスマホが振動した。おーい、っていうみたいに。
“足は痛いけど、昨日よりずっと楽です“
だよね。そんな感じだった。あー、そしたら、やっぱり。
“ご飯は、全然、コンビニに寄れるし。稲田が帰りも送ってくれるみたいで“
稲田さんの方が役に立ってるし。
“でも、今日も泊まっていいですか?“
「!」
“連日では邪魔しちゃいますか? お勉強の“
“もちろん“
桜介さんの追加でくれたメッセージと、俺の即答でした返事がほぼ同時に交わされた。そのせいで、連日だと勉強の邪魔に、もちろんなっちゃってるみたいな会話になっちゃったけど。
‘泊まって、ください“
だから、改めて、俺からそう伝えた。真っ直ぐ、素直なあの人のメッセージに、一人、で口元を緩ませながら。この通勤列車でみんなが淡々とスマホを眺めてる中で、一人、嬉しそうな顔をしながら。
“ありがとうございます“
そう言って、一つ、大喜びして跳ねるウサギのスタンプに、めちゃくちゃ顔が緩んでた。
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