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第75話 おかえりのキス

 あまりに伊倉さんの表情が普段と違ってたから、思わずさ。  ――愛妻家なんですね。  って、訊いちゃったんだ。  すごく楽しそうに奥さんのちらし寿司のことを教えてくれたから。そしたら、またニコッと笑いながらさ。  ――そうだね。  って、言ってた。  なんか、それがすごく……。 「ふぅ」  買い物、完了。ワインを割らないようにそっとキッチンのところに置いて、ちらりとスマホを見た。誕生日の前日、今日は少し遅くなりそうですって連絡もらってたから、とりあえず、今日のうちに買っておいても大丈夫なものと、足りない日用品だけ買ってきた。ちらし寿司の材料は明日買ってくるとして、お刺身とか今日は買えないし。とりあえずお酒とかだけ。  明日は早めに買い物済ませちゃおう。  で、今日の夕飯はいつも通りに作る感じで。  ――ブブブ。  その時、時計を見た後、ワインとかと一緒にキッチンに置いたスマホが振動した。電話だ、って思って、時間的にも桜介さんだって思って、すぐに通話ボタンを押しちゃった。けど。 「大沢?」 『おー』  押す直前、違う名前が表示されてるって持ったけど、もう通話状態だった。  あ、でもこののんびりした感じがちょっと懐かしい。って言っても一ヶ月も経ってないんだけど。最近は伊倉さんのところで電話の対応をたまにすることがあるせいか、このフランクな話し方が久しぶりだった。 『元気?』 「んー、まぁ」 『春休み、あのバイトマジでやってんの?』 「まぁ」  けっこうちゃんとすごくいい勉強になってるって話すと、えー……って、面倒そうな声が返ってきた。まぁ、片道二時間で時給最低限ってなるとそう思うかもしれない。今回のだって桜介さんの一言がなかったらやってなかったと思うし。 『えー、なんだそれ。けっこう大変?』 「んー、まぁ。けど、アトリエ持ちってすごいなとは思う」 『へぇ』 「ただいまぁ」  ちょうどそこに桜介さんが帰ってきた。柔らかい優しい声が玄関から聞こえて、リビングの扉を開けると靴を脱いでるところだった。  ちょっ。  ねぇ、危ないってば。  湿布もしてないし、テーピングとかで固定してるわけじゃないけど、でも、まだ少し痛いでしょ? 階段登る時、ちょっとぎこちなくなるんだから、そんな片足立ちとかしちゃダメだから。  慌てて手で桜介さんを支えてあげると、「わっ」って小さく声をあげた。それから「ありがとう」って言おうとして、俺が電話中なことに気がついて、ぎゅっと口を固結びをするように閉じた。  そんなにしなくていいよって、笑って伝えながら、桜介さんのカバンだけ持ってあげた。 「それで? なんか用事あったんじゃないの?」 『そうそう、そうなんだけどさぁ』  おかえりなさい、そう口でだけ答えて、お風呂、つけてあるよってジェスチャーで伝える。  俺は寝る直前に入るんだけど、桜介さんは帰ってきてすぐにお風呂入るのが通常、なんだ。倉庫での仕事だから、埃っぽい中にいることになるわけで、そのままで夕飯を食べるのは、ね。だからスッキリさっぱりしてから夕飯にしたいらしくて。  それは確かにって思って、俺もそうするようにしてる。  最初は、ちょっとリズム狂うっていうか、お風呂入っちゃうとスッキリしすぎちゃって、夕飯ももうすでに終えたような気がしちゃってたんだけど、慣れてくるとこっちの方が断然いいっていうか。お風呂入ってスッキリしてからの夕飯のほうがいい感じがしてる。  桜介さんを先に風呂へ促しながら、着替えはあっち、バスタオルは持ってくるって、電話をしながらジェスチャーで伝えた。 『? あれ、なんか、もしかして彼氏さんと一緒?』 「あー、そう。今、職場で怪我しちゃったからさ、うちに来てるんだ」 『おお』 「だから飲み会は行かないよ」 『あ、なんだよ。まだなんも』 「けど、飲み会の誘いでしょ? バイトも忙しいし、この人といるから行きません」  前だったら、きっと行ってただろうけど。 『まぁ、ですよね。了解。そんじゃーな』 「うん。じゃあね」  そこで電話を切った。 「桜介さん。お風呂沸いてるよ。バスタオル持ってくから入ってていいよ。カバンはそこに置いてって……桜介さん?」  お風呂に入った気配がなくて、バスタオルを取りにリビングの方にいた俺は、ジャスチャーじゃ伝わらなかったかなって振り返った。 「桜介さん?」  振り返ると、洗面所のところにカバンを抱えたままうずくまってる桜介さんがいた。 「……」  顔、真っ赤で。 「どうかした?」 「……ぁ、えと……」  耳まで真っ赤で。 「あの、僕、がいるから飲み会行きませんって」  大きな瞳をまんまるくして。 「言ってもらえて、嬉しくて、腰抜けちゃった」 「えぇ?」  そんなことを言った。 「あ、だって、たまには、友だちと飲みに行きたいんじゃないかなって、思ったから」  びっくりしたみたいに、目を丸くして。 「まぁ、友だちといるのは楽しいけど、桜介さんといる方が大事だよ」 「!」 「すごく好きなんで」 「!」  それが愛おしくて、洗面所に座り込んだこの人と同じように、その場に座り込んで、軽く触れるだけのキスをした。 「おかえり」 「たっ、ただいまっ」  おかえりのキスをして、それから帰ってきたばっかりは埃っぽいからって、あんまり抱きしめないようにと言われてるこの人をぎゅっと抱きしめて、笑ってた。

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