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第84話 神のお告げ
昨日、桜介さんの初恋の人に偶然遭遇した。
本当に偶然。
それはまるで神様が引き寄せたみたいに。
そのことにかなり焦った。
けど。
―― あ、らめ、らっ……めっ、イっひゃうっ、あ、すいくんっ。
昨日の桜介さんは呂律が回らなくなるくらいにトロトロだったから。
なんか、やばいくらいに可愛かったから。
ご機嫌は治った。
けどっ。
ヘソもちゃんとお腹の中心に戻ったけど。
でも――。
「あ、酒井くん、この前はどうも」
まさかバイト最終日にもう一回会うとは。
「……いえ、こちらこそ、遠くまで車で送っていただいてしまって」
「いやいや」
桜介さんを好きなライバルと。
けど、今は俺なので。付き合ってるのも、好かれてるのも俺の方なので。
「まだ、大学生は春休み?」
多分、同じようなことをそっちの立場で思ってそう。
俺らは君にはない過去の甘酸っぱい青春を共有してるんで、みたいな。
「酒井くんは今日までなんだ。来週からは大学があるよ」
「あ、そうなんだ。いいなぁ、長い休みがあって」
「あはは、そうだね。でもその長い休みを毎日ここまで通ってすごいことだ」
「確かに! あの距離ですもんね」
「本当に。この間はありがとう」
「いえ、俺の住んでるとこ、あそこからけっこう近いんですよ。だから全然、通り道だったくらい」
近いんかい。
そんで、通り道なのかよ。
「まさか、林田と酒井くんが同じマンションだとは」
嬉しそうに笑うなっつうの。
「ん? 原くんの知り合いが酒井くんの知り合いだったの?」
伊倉さんが原さんの持ってきた木材のサンプルから顔を上げた。原さんはとても上機嫌で「そうなんですよ〜」なんて言ってる。
ニコニコ。
ヘラヘラ。
あ、ほら、今、昨日ちゃんと引っ込んだはずのトゲが出てきた。「ヘラヘラ」っていう副詞の中にしっかりとトゲが生えてる。もう昔の俺はもうどこにもいないんで。あの誰にでも優しいばっかりの俺はいなくて、ここにいるのは桜介さんにだけ優しくしたい心の狭い男なので。
「中学の時のクラスメイトなんですよ」
「へぇ」
「おとなしいけど、話かけると、けっこう話しやすくて、楽しくて」
ちょ。
「面白くて」
ちょっと。何その、実は俺の好きな人感のある感じの語り。もう俺の中で確定だったけど、この人は多分桜介さんのことが好きで、しかもそれはきっと中学からずっと残ってる片想い的なヤツって。
「全然変わってなかったなぁ」
うわ。今、微笑んだ。めっちゃ。
ただの中学の同級生を思い出すだけではしない微笑み方。
中学の時の同級生に片想いってさ、そこからずっとって、けっこう長いよね。この人なら、高校でも、その後大学でもどこでも相手が見つけられそうな感じ。この人の恋愛対象の性別は知らないけど、でも、女の子だとしたら、きっと彼女くらい簡単に見つけられると思う。顔もいいし、話しやすいし、今、俺はトゲがあるからそう思わないけど、優しい良い人だと思うし。
それでも、誰とも付き合うことなく桜介さんのことを思ってたなら。
高校でも、どこでもずっと、何年も会ってない間も、桜介さんを思ってた、なら。
「……」
それってけっこうすごいことだと思う。
本物感がすごいっていうか。
けど、俺だって、ちゃんと、本当に。
「あ、そうだ」
「?」
伊倉さんがきょとんとしてた。もちろん俺も。
「今度、林業」
はい?
「いや、前に伊倉さん、俺の仕事の様子を見学したじゃないですか?」
あ、やな予感がする。
しかもけっこうヒシヒシと。
「すごく参考になったって言ってくれて」
「あぁ、確かに」
「もしよかったら、酒井くんも」
げ。
あ、いや、建築士になりたいっていう面で考えればそれってすごくありがたいことなんだけど。
なんだけど。
「ちょうど今、新芽が芽吹いてる時期なんで、頑張らないといけない時期でもあるんで」
なんだけどっ!
「林業体験!」
俺一人ならいいんだけどっ。むしろ、大喜びで参加させてもらうけどっ。
「ついでに林田も」
ほら、やっぱり。
無理。
「なるほど」
「えっ」
ちょ、なるほどじゃないですってば。伊倉さん。
「もう大学も始まるし、じゃあ、ラストに特別体験アルバイト」
「えぇっ、けど」
にっこりと笑ってた。
今日の打ち合わせは午前だった。ラッキー、これなら帰りに車で送って行くよって言われない。断然、帰りの所要時間が車と電車じゃ変わってくる。しかも原さんの自宅へ戻る途中にあのマンションがあるんだから、完全に「ついで」ってだけ。そんなありがたい送迎を断ると不自然でしょ。俺が原さんの車に乗りたくないって、丸わかりじゃん。それはきっと、大事な取引先でもある原さんに対して、あまり良くない態度だろうから。伊倉さんに迷惑になる。
そんな伊倉さんがにっこりと笑って、その笑顔を太陽の日差しが照らしてる。
ちょうど午前は大体打ち合わせをしてるんだ。このソファで。そしてその時間に合わせるように、太陽の日差しはこの時間に一番たくさん打ち合わせエリアを照らしてた。
その日差しに照らされた伊倉さんの笑顔はどこか神々しくて。
――さぁ、行きなさぁい。
って、お告げでもしてるみたいで。
「今後のためにもね」
……ぇ。
「林業体験」
えぇ。
まるで建築の神様からのお告げみたいなその一言に、行きたくないです、って言えるわけがなかった。
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