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第85話 夏になったら

 林業、か。  自分が携わりたい仕事のその後とか、その前とか、横とか、あんまそこまで明確にイメージしたことなかったな。  だから、体験したいことはしたいけど……。  ――じゃあ、土曜日にっ。  あの人がなぁ。  あの俺へ向ける笑顔は確実にそこから先に繋がっている桜介さんを見透かしての笑顔だもんなぁ。  勉強にはなるけど、なぁ。 「今日でおしまいだね」 「! は、はいっ」 「林業体験の感想、聞きたかったけど」 「あ……」  そう、今日で、ここのアトリエに来るのは最後になる。もう来週からは春休みが終わって大学がスタートするから。これで俺も学年がひとつ進級して、もうのんびりもしてられなくなってくる。 「あの、感想レポート提出しますっ」 「お、じゃあ、その感想レポートでアルバイトにボーナスをつけようか」 「え!」  伊倉さんが眉をヒョコってあげて、そんなことを呟いた。黒縁のメガネ越しの眼差しはいつだって柔らかくて、ここのアトリエでのバイトはすごく居心地がよかった。もちろん、いつもやってる居酒屋のバイトが居心地悪いってわけじゃなくてさ。  俺、別にそこまで優秀な生徒じゃなかったから、伊倉さんの手伝いができたところよりも、知らないことを知る機会の方が断然多かったんだ。だから「アルバイト」としてはそんなに役に立ててないと思ってる。それでも寛容で、「未来」の建築士としていろんな場を見せてくれた。  フツーにありがたい。 「……かもしれない」 「えぇ」  ボーナス! って喜んで、ボーナスがつく「かもしれない」の一言に落胆して見せると、伊倉さんが楽しそうに笑った。 「あの、本当に勉強になりました」 「それはよかった」  伊倉さんの仕事の手伝いは「なりたい大人」をずっと近くで体感しているようなものですごく刺激になったし、勉強にもなった。 「本当にありがとうございます」 「どういたしまして。あ、そうだ。あれはどうした?」 「?」 「大学の方で、課題が出てたみたいだね」 「あ」  住みたい部屋の設計図。 「一応は、合間合間で書いたんです」 「おぉ、そうなんだ」 「はい」  タブレットがあれば書けるし。春休みは時間があったから。  でかい庭付き。光量は十分確保できる大きな窓のある部屋。部屋数もしっかり確保して。あまり個性はないかもしれないけど。講義で教わったこと、ここで教わったことは盛り込めた、と思う。 「これからも頑張って」 「はい」 「目指すは一級建築士かな」 「まだ、すっごい遠いですけど」  意識なんて全然足りてない。仕事をして、一人で、伊倉さんみたいに自立していくのも、原さんみたいに、意義と主張をしっかり持って進んでいくのも、まだ全然できてないけど。 「また、夏休みにでもバイトにおいで」 「いいんですか?」 「もちろん」 「ありがとうございます!」  夏休み、か。  その頃の俺はどんなふうなんだろう。進級して、もう少し、くっきりとした輪郭をイメージできてるのかな。  俺が、社会人として、建築の仕事に携わってるところを。 「その時は、ぜひ、よろしくお願いします」  まだ、すごい遠い先のように思える。  夏なんて。  入道雲がもくもくと立ち込める濃い青色の空。その空の一番高いところから降り注ぐ太陽の日差しは、今、この小春日和の柔らかい春の日差しがいっぱいに降り注ぐのとはどう違うんだろう。  このアトリエに長く長く、日時計みたいに時間を知らせる日差しも、その日差しを届けてくれる帯状の長い窓から見ることのできる人の行き交う様子も、夏はどんななんだろう。  今はまだ想像すらできなかった。 「じゃあ、また夏に。楽しみに待ってるよ」  でも、そんな夏が俺の方こそ少し楽しみだった。  夏、か。  夏になったら、桜介さんとどこか旅行に行きたいな。  夏になったら、俺たちはどんな感じになってるんだろう。  もう少し砕けて、桜介さんが稲田さんと話してる時くらいになってるかな。 「え? 林業?」 「そう。体験……行く?」  そんなに楽しくはないと思うよ。山のぼりっていうのとは違うから、頂上に到着しました! いい景色! 空気が美味しい! ってことじゃない。林業って、きつくて、危険で、なのに収入が高いわけでもないから。体験も、他にある、川下りとか、スカイダイビングみたいなハラハラドキドキがあるわけじゃなく。そしてきっととても重労働だと思う。ほら、そんなに、楽しいものでは――。 「行く!」  だよね。  なんとなく、桜介さんはそう答える気がしてた。  そんなに楽しいものではないけど、でも、桜介さんはなんとなくどんなことも前向きに捉えて挑戦するんじゃないかなって。  もしも、参加を渋ることがあるとしたら、せっかくの土曜日なのに、ってところくらい。一日中一緒にいられるのってその日だけだから。他の曜日は伊倉さんのところでのバイトか居酒屋でのバイトが入ってる。朝から夜まで時間とか気にせずにいられるのってその日だけで。 「頑張ります!」  でも、そんな曜日のことも気にすることなく、すごく嬉しそうにしてた。  目をキラキラさせて、うん! って、頷いていた。

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